■ 種を蒔く人
世界グランプリは規模が大きすぎて少し気後れしてしまうと、いつも思う。コースが大規模になる分にはかまわない。それは挑戦のしがいがあるというものだ。しかし、国内大会とは桁違いの観客数も、マスコミがいるということも、どうしても慣れることができない。
もっとも、妙な緊張感に襲われるのは、いつだってレースが終わった後だ。レース前は、頭がいっぱいでそんなことは考えていられない。走っている最中は、レースに集中しているからそんなことは意識にも上らない。ただ、背中を押してくれる歓声が時折り耳に届いて、更に頑張れるぐらいなものだ。
ただ、レースが終わるとどうしても意識が拡散していく。こんなにとんでもないところで走っていたのかと、毎回毎回、頭の中がパンクしてしまいそうになるのだ。
辛くも勝利を収めたレースにほっと息をつき、ゴールを切ったマシンを受け止める。毎度のことながら集中力の切れ目と同時に神経にかかる負担がぐっと増したが、それをやり過ごしてベンチに戻ることぐらいはできる。
ベンチに戻って、今回のヒーローインタビューはきっとリョウだろうから、その間に片付けをしてしまおう。リタイアした豪が荒れているのは簡単に予測できるが、その辺は烈に任せることにする。その分、片付けの手が減るから、いつもよりてきぱきやらないと。
そこまで考えて、目を上げて、Jはふと観客席に視線を流した。
あまり無愛想にしてもよくないと、なるべく柔和な表情を保つようにしているJの視線が向くと、その先にいた観客が沸く。国民性の違いがなす業か、それとも単に性格の問題か。多くの海外チームのレーサーたちのようなわかりやすいパフォーマンスはできないが、JはJで、それなりにファンサービスには心を砕いている。
小さく手を振って声に応え、適当なところで切り上げようとしたところで、視点が固定される。微かな既視感に、胸がざわめく。
いつになく慌てた調子でベンチに戻ってきたJに、土屋はわずかに眉を跳ね上げる。
「どうしたんだい?」
「ちょっと、知り合いが。あの、少しだけ出てきてもいいですか?」
問いに対して早口で、つんのめるような勢いで答えるJの足は、既に出口へと向いている。珍しい嘆願に、土屋が否と答えるわけなどない。
「十分以内に戻ってくるんだよ」
「はい」
返事の後半は廊下から聞こえてきた。相手の目も見ないで言葉を残すなど、こと相手が土屋だというのに。普段のJからはまるで考えられない態度だ。
「どーしたんだすか?」
「きっと、大切な相手だったんだね」
あまりに見慣れない様子を唖然と見送った二郎丸が呟けば、穏やかに、包み込むような声で土屋は応じた。
廊下を駆け抜け、一般通用口との交差点に、彼はいた。
「元気そうだね」
飄々とした口ぶりは、あの頃と変わらない。距離のわかりづらい、接触したいのかしたくないのか、まるで読めない口調と表情。
「全部を掃き出してしまったわけじゃなくて、よかったよ」
抽象的で唐突な言葉だったが、その脈絡はわかった。二人の最後の会話、いや、一方的なあの言葉を示しているのだ。当時のJには毒にしかならなかった、彼からの劇薬。紙一重の、可能性を示唆する言葉。
「あなたのおかげです」
どう言えばいいのかわからなくて、仕方ないからJもまた抽象的な物言いで応じることにした。ああきっと、この人も、自分と同じで話をするということが得意ではないのだと、ぼんやり考えながら。
「種を蒔いたのは烈くんと豪くんで、水をくれるのは土屋博士で、光をくれるのはみんなです。でも、その土壌を作ったのは、あなたです」
何もかもを排斥して、すべてを空っぽにすることしか知らなかったJの心の隅に、ひっそりと息づいた違和感。それを築き上げたのは、気まぐれとしか映らなかった彼からの干渉なのだ。
「あなたのおかげで、ボクはここにいます」
諦めずにずっと、Jの心からすべてが流れ出すのを防いでくれたのは、たった一人の何の力もない研究員だった。ささくれのような微かな、しかし絶対的な存在感でもって、自身のあり方に疑問を抱き続けるように差し向けたのは、彼の言葉だった。
「そこにいるのは、君の力だ」
言葉に詰まったJに笑いかけて、彼はそう宣言した。最後にかけてくれたあの時の声と同じ真剣さを持った、しかし、あの時よりもずっとやわらかい声で。
廊下にまで響くひときわ大きな歓声が上がった。きっと、ヒーローインタビューが終わったのだろう。スタンドをたくさんの人が移動する地響きにも似たざわめきが空間を埋めていく。
「もう、行った方がいいんだろう?」
Jがやってきた方角を目で示して、彼は笑う。
「元気で。もう、見失わないように」
「ありがとうございました」
伝えるべき言葉が見つからず、ただ、Jは伝えなくてはならない言葉を告げる。時間がないのは事実で、たぶん、土屋との約束を破ってしまっていることだろう。
あの時と逆で、先に背を向けたのは彼だった。きっと、呼んでも振り返らないだろうし、自分は呼びかけないだろう。それを悟りながら、Jはひとつ、深く頭を下げる。
名残惜しさと後ろ髪を引かれる気分を抱えたまま頭を上げると、引き返すべくJは踵を引いた。
fin.
どんなに不毛な土地だとわかっていただろうに、彼は諦めなかった、
一粒ずつ、丁寧に種を蒔いて、土をかけて。
芽が出る喜びを知ることが出来なかったけど、育った森に、嬉しそうに笑っていた。
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