■ コラールを君と
 一音、高くも低くもない基準音が試すように鳴らされ、続けてメロディーがそっと奏でられる。はじめはなにかをはばかるように、ひそやかに。そのうち音は徐々に確信を持ち、曲調に豊かな表情を織り込みながら響き渡りはじめた。

 放課後、誰もいない音楽室。

 一年がかりで開催されるWGPのため、各国の選手は基本的に宿舎の近所にあるインターナショナルスクールに編入という形をとっている。大量に生徒を、しかも一癖や二癖などという言葉ではくくりきれない個性派ぞろいを受け入れた懐の広いその学校は、慣れない外国でなにかとストレスがかかるだろうからと、学校施設を基本的に、毎日夕方の一定時刻まで完全開放している。
 体育館で汗を流すもよし。図書室で本を読み漁るもよし。インターネットルームでネットサーフィンをするもよし。そして、音楽室で楽を奏じるもよしと。


 クラスの雑用でエーリッヒが遅くまでスクールに残っているのは特に珍しいことではなかった。だが、用件さえ片付ければ即座に宿舎に戻り、いくらでも降りかかってくるレース関連の雑用をこなすのが日常のあり方だ。今日だって、別に暇だったというわけではない。提出期限が近い書類が、確か三枚ほど残っている。
 長調から短調に戻り、繰り返される主題は終焉に向かってデクレッシェンド。
 最後の部分の表現についてそっと注意を促す姉の声を耳の奥に思い起こして指を運びながら、余韻を残していたペダルから足をはなす。
「久しぶりの割には、及第点でしょうかね」
「上等だと思うけど?」
 独り言になるはずだった声には、上がり調子で返される言葉があった。
 ぱちぱちと軽く拍手を送りながら部屋の入り口から姿をのぞかせたのは、褐色の肌と金色の髪の少年。
「聞いていたんですか?」
「綺麗だったから、つい」
 律儀に扉をきっちりと閉めてから、足音を立てずにするりとエーリッヒの座るグランドピアノの脇まで移動。そして、Jは手近な机に軽く勢いをつけて飛び乗り、居座りの姿勢を決め込む。
「アンコールはお願いできる?」
 無理にとは言わないけど、と小首を傾げる相手に、残っている書類はまだ大丈夫、とエーリッヒは首を縦に振る。今日は急ぎのミーティングも入っていない。たまにはこんなところで優雅な時間を過ごしたって、許されるだろう。
「でも、知らなかった。ピアノ弾けたんだね。しかもうまいし」
「リーダー、……ミハエルやシュミットは、もっといろいろな種類の楽器をたしなんでいますよ」
「へえ」
 感心したように息を吐き出し、Jは鍵盤に目を走らせる。
「ボクにはどのキーがどの音かもよくわからないよ」
「興味があるんですか?」
 おどけた口調に軽く切り返せば、Jは一度だけゆったりとまばたき、ほのかな笑みを口端に浮かべる。いつもの穏やかな微笑とは明らかに種類の違う、凄みと翳を滲ませた不可思議な笑みだった。
「もたないって、決めたんだ」



 薄暗い室内。夕陽にくっきりと浮かび上がった声と横顔とに、なぜか背筋の粟立ちを覚える。
 用意していた単語を思わず飲み込んでしまったエーリッヒを知ってか知らずか、Jはいつもの調子で唐突に話題を変えた。
「今日はね、今度ある合同イベントの打ち合わせの帰りなんだ。いつの間にか担当押し付けられちゃって」
 他のビクトリーズのメンバー同様、Jは他国チームのエーリッヒたちと学校が違う。見やれば、彼は明らかに違う学校の制服を身にまとっていた。
「そうでしたか」
 それで、部外者の彼が堂々と校内をうろついていたと。
 他校との合同イベントがあるという話はエーリッヒも耳にしたことがあったため、素直に頷いて労をねぎらう。はにかみながら首を横に振ったJは、そのまま正面にあるエーリッヒの目を下から覗き込むようにして口を開いた。
「よく弾いてるの?」
「いえ。今日はたまたま、なんとなくです」
「じゃあ、ボクは運がいいんだね」
「そうですね」
 くすくすと、少年は実に楽しそうに笑った。


「さっきの曲はなんていうの?」
「ショパンのワルツです。第七番。好きなんですよ」
 愁いを帯びた曲調は物悲しく、研ぎ澄まされた美しさがある。エーリッヒがそう言えば、Jも、ボクも好きだよ、と微笑んだ。
「ねえ、アンコールの代わりに弾いてほしい曲があるって言ったら、弾いてくれる?」
「知っているものでしたら」
 条件を付加して頷いたエーリッヒに、Jはまぶたを伏せて小さく数フレーズのメロディーを口ずさむ。
「できますが、それは合唱曲ですよ。伴奏になりますが?」
「うん。お願いできる?」
 了承して姿勢を正せば、たった一人の観客もまた背筋を軽く伸ばす。ゆったりと弾きはじめたメロディーは、エーリッヒにとっては実になじみの深い教会音楽。
 主旋律がないのに、Jは視線を伏せてそれに聴き入っていた。それだけでは物足りなかろうと、しばしの思案後、エーリッヒは小さく歌を添えてみる。
 ほんの少しだけ目を上げてエーリッヒを見つめると、やがてJもそれにあわせ、メロディーパートをハミングしはじめた。声は平素と変わらないのに、まぶたを伏せたその表情には、どことない翳があった。


 帰る方向が真逆のため、校門を出たところで礼と別れを述べて去っていくJの細い背を見送り、エーリッヒはそっと息を逃す。
――歌詞は覚えてないんだ。機会があったら、また聴かせてくれないかな?
 君のピアノも歌も、とっても綺麗だったから、と。
 それまで演奏とはまったく関係ない他愛のない話をしていたのに、別れる直前、Jは笑ってそう言った。
 静かで深い声と笑み。受け止めた鼓膜と胸には、小さな切り傷を負ったような痛みがちりりと走り、知らず眉間にしわが寄る。
 見えなくなった背中にもう一度息をついて。エーリッヒは宿舎に戻るべく、ようやく足を踏み出した。


 一人ぼっちの帰り道。音には出さず、気づけば歌を口ずさんでいた。
fin.
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 神に捧ぐその歌を、覚えてはいても知りはしない。
 君に教えてもらって憶えることはあっても、きっと永劫、覚えることはないだろう。
 教えてくれた人はもうこの世界にいなくて、他の誰に教えられたところで、覚えられる気がしないから。

 コラール --- グレゴリオ聖歌。

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