■ 雷雨の温度
 びりびりと大気を伝って世界を震わせる振動に、烈はびくりと肩をすくめた。これでも昔に比べれば格段にましになったという自覚はあるのだが、過剰な反応はどうにも治らない。恨めしい思いをこめて窓の向こうを睨んでも、ひとたび曇天を閃光が覆えば、鋭いまなざしもたちまち気弱なそれへと様変わりする。
 次にやってくる衝撃に備えてぐっと歯を食いしばるものの、無駄な抵抗に終わった。結局、鳴り響く雷鳴に大げさなほど身を震わせることしかできない。
「烈くん? どうしたの?」
「あ、いや、別に大したことじゃないっていうか――」
「兄貴は、雷が怖えんだよ」
 たまたま通りすがったらしい、紙の束を抱えるJが足を止めて小首をかしげる。自分たちのようにただマシンを走らせてはセッティングを考えるだけではなく、タイムレコードやらコースの整備やら、細かな作業を一手に引き受けている少年の手をこれ以上煩わせるわけにもいかない。気遣いに満ち溢れる視線に、やんわりと情けなさの入り混じる苦笑を返したというのに、すべては弟の無情な一言によって水泡へと帰した。
「豪っ! 余計なことを言うな!!」
「だーってホントのことだろ? 情けねえよなあ、男のくせに」
 にしし、と含み笑いをこぼすその表情には、してやったりという色がいっぱいに浮かべられている。日ごろから何かにつけて勝つことのかなわない兄を凌駕することのできるこの場面は、豪にとって優越感に浸れる嬉しいものなのだろう。軽やかな足取りで烈とJのたたずむ窓まで駆け寄り、ガラスに鼻先を押し当てる勢いで空を臨む。


 蛍光灯の明るさをも呑み込む、鮮やかな光が窓の向こうから飛来する。鋭いそれにざっと青ざめる烈と、わくわくと双眸をきらめかせる豪とは非常に好対照だ。しばしの間をおいて、雷鳴が轟いた。
「すっげえ! いまの、でかかったよな!?」
「近くに落ちたのかな?」
 もはや声を上げることもできない烈のことなど一顧だにせず、豪は足を止めていまだそのままの位置にとどまっていたJを振り仰いだ。冷静に同意を示したJは、しかし、淡い苦笑をもってすぐさま隣で硬直している烈へと視線を転じる。
「大丈夫?」
「さ、さすがにいまのは堪えたなあ」
 乾いた笑みには力がなく、反比例するようにますます元気になっていく豪のはやし立てる声にさえ、烈は反応をろくに示せずにいた。
 確かに、地面を通じて振動を感じるほどの落雷には、たとえ苦手意識のない人間とて畏怖を憶えるだろう。世界の大きさを、圧倒的な力強さを容赦なく突きつけられ、己の存在の儚さを意識させられる。そういった瞬間への遭遇率が低ければなおのこと、日常との対比は深く、恐怖心は鮮やかに。



 何を思ったのか、不意に抱えていた紙を手近な机に置き、Jは両手で烈の右手を包み込んだ。
「な、なに? どうしたの、Jくん?」
 脈絡のない行動に狼狽する烈には答えず、再び室内にやってきた閃光に、Jは微笑んだ。
「数を数えるといいんだよ」
 言いながら、Jは小さく拍を刻む。
 いーち、にーい、さーん。
 伸ばしながら呟かれる声は穏やかで、リズムは緩やかだった。ゆるゆると数えるその声が「じゅういち」と告げるのに合わせて、空から轟音が降ってくる。
 やはりびくりと肩を震わせはしたが、恐怖心は先ほどまでに比べてかわいらしいものだった。
「どう? 少しはましだった?」
「うん」
 問う声にこくりと烈が頷けば、得意げな色を滲ませてJは笑った。
「でも、どうしてだろ? 数を数えれば、っていうのは僕も知っていたし、さっきもやってたんだけど」
 同じことをしていたはずなのに、どうしてこうもあからさまな違いが出たのか。多少のゆとりを取り戻した烈の思考回路は、すぐさま好奇心を発揮する。ちょこんと首をかしげて答えを求める姿に瞳を細めて、Jはやわらかく微笑む。
「闇雲に数えるだけだったら、あまり意味はないんだって」


 包んでいた右手を引き、Jは自分の左胸に軽く押し当てる。
「ボクたちはみんな、それぞれのリズムを持っている。だから、それに合わせて数えるほうがいいらしいよ」
 さっきは烈くんの脈に合わせようと思ったんだけど、ちょっと速かったから実はボクのに合わせたんだ。
 言って微笑むJにつられてほんの少し前のカウントを思い出せば、確かに、服の向こうから響く拍動と同じリズムだった気がする。理屈は良くわからないものの、実際にそれで自分が落ち着けられたのは事実だったので、烈は素直にその言葉を受け入れた。指摘をされるまでもなく、自分の脈が先ほどまでに比べて落ち着いたテンポになっているのはわかりきっていた。
「それとね」
 感心しきりで自分の胸元を思わず見つめていた烈は、続けられる言葉に視線を上げる。
「冷たいのは良くないんだ」
「冷たい? 数えるのに冷たいとかあんのか?」
 それまで会話を傍観していたらしい豪が、二人の間に顔を突っ込みながら口を挟む。普段ならば人の会話を邪魔するなと一言叱るところだが、同じ疑問を抱いていたので、烈は口を噤んだまま友人の声を待つ。
「違うよ。そうじゃなくて、手先とかの話。怖いと冷えるでしょ?」
「そうか?」
「うーん、あまり意識したことがないからなあ」
 同意を求められても、豪は疑問符だらけで首を捻るし、烈も実感した記憶は薄い。言われてみればそんな気もするが、恐怖心に彩られた場面の記憶は、精神衛生を保つためにも早めに忘れるようにしているのか、あまり残っていないのだ。


 二人からの同意がなくても、Jが気にした様子はなかった。少なくとも自分はそうなのだと言い切ることで説明を終わらせ、そのまま再び烈の手を両手で包み込む。
「体温とか、鼓動とか、呼吸音とか。そういう誰かの生きている気配って、それだけで安心感を誘うものなんだって」
 さっきまで、烈くんの手はもっと冷たかったんだよ。
 悪戯っぽく笑ってから、Jはようやく烈の右手を解放する。
「だからね、冷たくならないようにあっためて、ついでに脈でも計りながらそれに合わせて数えるといいんだ」
 わかっているのかわかっていないのか、とりあえず興味深げに説明を聞いていた豪が、おもむろに烈の左手をとって自分の手との温度差を計ろうとしている。わかりやすいリアクションは既に予想済みだったので、気が済むようにさせておき、烈は書類の束を取り上げたJを振り仰いだ。
「ありがとう。今度からはそうしてみるよ。それにしても、よく知ってるね」
 恐怖心を蹴散らしてくれたことへの礼を丁重に述べ、思うままに感心を単語に起こせば、Jはただ静かにはにかんだ。
「解説は博士の受け売りだよ。ボクがやっていることを見て、教えてくれたんだ」
 自分も雷は苦手なのだと眉尻を下げたJは、なんでもないように言葉を続ける。
「知ってるっていうか、習慣だったから」
 たった一言なのに、その裏側には烈の知らないたくさんのものが潜んでいた。ただ、見ることも知ることもかなわないそれに烈が手を伸ばすべきか否かを判じる前に、Jは部屋の入り口に姿を現した所員に呼ばれてそちらへと振り向いてしまった。


 持っていた紙の束を渡し、少しの会話を挿んで戻ってきたJは、体温比べに飽きて次のレースをせっつく豪に穏やかに笑って答えながら、動くことの出来ずにいる烈をやさしく見やる。
「雨、もうやむよ」
「え?」
 すいと流された視線は窓を通して空を見やっており、強くも弱くもない雨足を同様に外に目をやることで確認した烈が首を傾げれば、Jは得意げに笑ってみせる。
「雷が遠くなったから。もうすぐやむよ」
 誰が、とは言わずただ「教えてくれたんだ」とだけ言うと、Jは豪に手を引かれ、烈を誘いながらコースへと足を向けた。
fin.
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 恐怖を分かち合い、克服する術を分かち合う。思いを共有し、思いに共鳴し、思いを分かち合う。
 ともにいるから分かち合える。あなたがともだちだから分かち合える。分かり合える。
 だから。だけど。
 その術を教えてくれた人のやさしい記憶を分かち合えなくとも、せめては知りたいと思うのは傲慢だろうか。

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