■ 次なる一歩のそのために
 Jはただ、資料整理の手伝いをしていて、頼まれたファイルを選別し、書斎に持っていっただけだった。たったそれだけの、土屋に引き取られて以来続けている、いまや日常に溶け込んだと言っても過言ではないだろう作業。
 だがその日、それは思いもかけない一言によってその色合いを大きく変えはじめた。
「いろいろと、入用のものがあると思うんだ」
 なんの脈絡もなく、どうやらJが書斎のドアをノックするよりも前から手が止まっていた様相の土屋は、入室の許可を得てするりと部屋に入り込んできたJを見るなり、いきなりそんなことを言い出した。
 面食らいながら、「別に、あるものだけで十分足りています」とJは答えたのだけれども、土屋は楽しそうに決めてしまっていた。
「うん。すまないね、いままでまったく気が回らなかったよ。買い物に行かないとね」
 そんなことなど考えたこともなくて、返す言葉のないJは、勝手に納得されても反応のしようがない。とりあえず、いままで築き上げてきた知識と経験が、それは自分に向けられるべき言葉でないという判断を下す。そして同時に、自分が現在属す対象である土屋の言葉には、逆らうべきでないとの判断が下される。
 相反する判断の狭間で、どうしたものかと思案に耽っているJをよそに、土屋は更に続ける。
「そうだ。ついでに食器とか、リビングのカーテンとか。いろいろ一新しようか」
 いままではろくに使われることがなかったため、殺風景でまとまりのなかった居住空間を、この際だから一気に整えるつもりらしい。うんうんとひとり頷き、土屋はくるりと振り向いた。
「どんな風にしたらいいと思うかな?」
「え、あの……」
「そんな唐突に聞かれたって、すぐには思いつきませんよ」
 ねえ、と通りがかった別の所員に口を挟まれ、意味を成さない言葉を発することしかできず困り果てていたJは息を吐きだし、土屋ははたと目を瞬かせる。
「まあ、それもそうだね」
 苦笑を滲ませた声に小首を傾げ、あからさまにならないよう気を配られたことが明白なため息に眉を跳ね上げると、彼はあっさりとその意見を取り入れた。



 研究所の所長という、本来ならば最も威厳を持って最も偉そうにしている立場の人間のくせに、彼の言動はすべて、どこか抜けた感じが拭えない。それこそが、烈や豪といった子供たちが懐く要因であり、所内に漂うほんわかとした空気の出所なのだろうが。
「部屋を見て回って、簡単にイメージの案をまとめてもらうとかはどうですか?」
「ああ、それがいいな。頼めるかい?」
「え?」
 自分では決着をつけられない不可解な判断を求めるための思考から、これでようやく解放されるかと安堵に肩を落とし、ぼんやりと思考をめぐらせていたJは、なので。続けて投げかけられた言葉に、不覚にも驚愕の感情を前面に押し出し、思い切り目を丸くしていた。
「でも、ボクは……」
「博士よりも、若くてすっきりしたレイアウトを考えてくれそうですしね」
「君、それはちょっと酷いじゃないか」
 けらけらと笑いながら立ち去っていった所員に、「私もまだまだ」と、不機嫌そうな表情を取り繕ってみせてから、土屋は蚊帳の外にはじき出されていたJに、改めて向き直る。
「君が寛げるような色合いで、適当に考えてみてくれないかな?」
 二人で一緒に過ごす空間だから、二人で整えよう。
 そう、ふんわり笑いかけられると、胸の奥がざわざわと、慣れない感覚に襲われる。でも、それは慄きを覚えるものではなくて、つい追いかけたくなるような、不思議なぬくもりを含んでいる。
「部屋は、好きなようにするといいよ。机と椅子も、もうちょっとちゃんとしたものにしよう」
 忙しさと不慣れさと遠慮の相乗効果で、いままでそんなところにまで目が届かなかった。それでもいまとなれば、宿直用の部屋をそのまま使わせておくことなどできない。白と灰色だけの部屋は、子供が生活するにはあまりにも冷たすぎる。


 これを、少年の色に染まった部屋にしていく第一歩としよう。そしてまた、彼の内面が見えるようになるといい。
 自分の思いつきに口元を緩めながら、土屋は戸惑うように見上げてくる子供に、にこりと笑いかける。
「今日はちょっと時間が取れないから、買いに行くのは、そうだな。週末だね」
 本当に他愛のない、きっかけなどないに等しい思いつきからの発言だったが、案外いい方向に転がっている気がして、土屋は笑顔が深まるのを自覚する。戸惑いを向けられるということは、少年は自分が向けている何がしかに対して、抵抗を覚えているということだ。それがどこにあるのかを絞れるほど、土屋は少年との距離が縮まっているとは思っていない。
 だからこそ、知りたいと思うし、戸惑いを取り除きたいと思う。
「夜、一緒に話し合って、買うもののリストを作ろう」
「あの、でも」
「いいかい、遠慮はなしだよ。あの部屋にいまあるのは、短期利用のもの。今度買うのは、君専用の、長期利用のもの。気に入ったものを買うんだからね」
 甘えることを知らない子供。幼くあることを否定し、小さな大人たろうとする子供。
 注がれる困り果てた視線は知らないふりで、土屋は続ける。
「一緒に悩んで、選んで、買ってきて。それで、一緒に模様替えをしよう」
 あいにく、机やら椅子やらのカタログは持っていない。現段階で決められるのは、何が必要なのかの、物資の一覧ぐらいなものだ。
「そうだね。まずは、リビングやキッチンに入用なものと、君の部屋に欲しいものを書き出してきてくれないかな」
 色や形状や素材は、大体の目安を話し合って、後は店で決めればいい。カーテンとか、ソファのカバーとかクッションとか食器とか。“らしさ”を反映させられる場所は、考えてみればたくさんある。それをすべて蔑ろにしておくのは、寂しい男の一人所帯だけで十分。子供が加わったのだから、彩を添えようではないか。
 微笑みながらそう頼み込めば、しばらく困ったように眉根を寄せていたJも、手にしていた資料を土屋にさっさと奪い去られたことで踏ん切りがついたらしい。眉間に戸惑いを残したままこくりと頷き、差し出されたメモ帳を手に、一礼を残して部屋を出ていった。
 おとなしくて引っ込み思案なところもあるが、芯のしっかりした、どこか頑固なところもある彼のこと。きっと、きっちり真面目に考えてくれる。次に彼が自分の元を訪れたときに見ることができるのは、几帳面にまとめられた一覧表だろう。ただ、ちょっと一般常識の抜けている感のある子だから、そこから一緒に話を煮詰めて、その一覧表を完成させようと思う。ちょうどいい会話のきっかけだし、互いの価値観や考え方をすりあわせるいい機会でもある。
 それから、決めたものを仕入れるために店で二人で悩んでいれば、親子に見えたりしないだろうか。
 自分の考えがもたらすだろう相乗効果やらオプションやらに、土屋の緩んだ頬は止まらない。どうして、こんなに大切でちょうどいいやり方を、もっと早く思いつかなかったのだろう。
 遅すぎることはないと信じながらも軽く自己嫌悪に陥って、それでも、まあいいかと思えるぐらい、このアイディアには嬉しいおまけが満載だ。


 ああ、そして買い物のおまけとして、君の心ともう少し近づくきっかけを入手できれば儲けものだ。
 今度の週末は、晴れるだろうか。
 大きなものを買うんだから、いい天気の方が荷物を運びやすい。


 新生活を始めよう。
 そのけじめをつけに、一緒に買い物に行くんだ。
fin.
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 子育ては恋愛だ、と、どこかで誰かが言っていた。
 相手を喜ばせたくて、喜んでくれたらこの上なく嬉しくて、次はどうしようかと考えて。
 ああなんだ、と、我が身を振り返っては妙に納得してしまう大人の姿。

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