■ 第四章 --- 夢の続き
 話しているうちに押し隠す気が失せたのか、それとも自棄になったのか。ロルは饒舌だった。
「肉体強化や戦闘訓練、果ては思想教育を施すことで、戦争で使える手駒を作るんだ。オレはその一環で作られた“商品”の一部だし、さっき襲ってきた連中も、きっと同類だ」
 一旦言葉を切って視線を巡らせ、突飛な話に困惑しているらしい一同を、なんともいえない表情で眺めやる。
 ほら、ここにも、なにも知らない人々の見本がいる。
 知られなければ罪は問われることもなく、罰は課されるわけがない。誰からも非難を受けず、堂々と悪事が積み重ねられる。
「ハースにもちょっとは話したけど、武器の密輸ぐらいしか知らなかったみたいで、どうにもならなくて」
「ハースとは、ドワイト・ハース上院議員のことかい?」
「知ってるのか?」
 胸郭に溜まりこんでいた息を吐き出し、誰にともなく呟いたロルに、確認口調で返す声があった。驚いた様子で問う少年に、土屋は苦笑交じりに答える。
「世界中の注目の的じゃないか」
 思いもかけず飛び出してきた大物議員の名前の意味を、口にした当人であるロルは、いまいちわかっていないようだった。

 ドワイト・ハースは、今秋にある大統領選にて、現大統領の対抗馬として名乗りを上げている人物だ。NGOとの連係プレーにより、そのPR作戦にロルの存在をふんだんに使っていることは周知の事実。もっとも、軽々とその名を出せるほどに少年が議員とのパイプを築いているとは、土屋も思わなかったのだ。
「そうか、ガーフィンケル社の武器密輸か」
 しばしの黙考の後、土屋は得心がいったという様子でしきりに頷いた。
「博士?ひとりで納得してないで、おれにも説明してくれよ」
 飛び交う単語に目を白黒させるしかできなかった豪が、身近な大人が使い物になるらしいことを察知して、素早くにじり寄る。
「ガーフィンケル社は軍事産業、ええと、武器を作るのがメインの大企業なんだ」
 口を開けばさっそく難しい顔をされてしまい、土屋はよりやさしく噛み砕いた単語を探し、視線を泳がせながら続ける。
「元軍人も多く勤めていて、政界にも影響力を持っていてね。でも、昔から黒い噂があるんだ」
「黒い噂?」
「武器と麻薬の密輸。それから、複数の議員や軍関係者、そして、現職大統領との癒着だ」
 不穏な単語を聞きとがめた烈が繰り返せば、その答えは、土屋とは別の方向から飛んできた。厳しい表情を更に引き立たせる険しい声の主、アーヴィングは、忌々しげに眉を寄せている。
「なるほど、どうりでこの任務の人事を決める際に、あれこれと横槍が入ったわけだ」
「われわれは、ハース議員に直々に推していただいたんですよ」
 やはり苦い表情で補足し、ドゥルーズは視線をロルへと流した。
「ガーフィンケル社の裏の顔を知りうる証人ならば、是が非でも守りたいでしょうし、意地でも殺したいことでしょう」
 本来ならばロルは、護衛をつけられるほどのたいした立場にあるわけではない。ただ、かの大企業の陰の一面が絡むのならば別の話だ。証拠は残さず、いつでもぎりぎりの一線ですべての追求を煙に巻く彼らの尻尾を捕まえられる、最高の切り札になりうる存在ならば。
 不自然なほど過剰にロルを守ろうとするハースと、その反対勢力との間で表には見えないひと悶着があったことを、ふたりの男たちは初めて明かす。
「その抹消作戦が、これだろうな。まさかお前らほどの知名度を持つ人間までを巻き込むとは、ハースも思わなかったんだろ」
 そうでないならば事前にあの手この手で阻止されていたはずだと、ロルは皮肉な笑みを刻んだ。
「でも、だったらそのハースってやつに助けてもらえばいいんじゃないのか?」
 一通りの説明が終わったことを見てとったのか、きょとんと首をかしげ、豪はロルへと話を振った。
「通信手段がない。それに、ここだってどうせ、表向きに言われているのとは別の島だ。たとえ連絡がついても、助けがくるより先に別の手を打たれるのがおちだ」
 第一、これらのやりとりすらすべて、きっとルーカスには筒抜けになっているのだろう。たった一人の手の上でいいように弄ばれ、できることといえば悪あがきぐらいなもの。冷静に置かれた状況の悪さを分析し、少年は目を伏せる。
 大人たちはそうでもないのかもしれないが、豪をはじめ、子供たちはまだ、事態の重さをわかってくれていない。理解し、そして恐慌状態に陥られるのと、なにもわからないままに終焉を突きつけられるのと、どちらの方がいいのだろうと、物騒な考えがロルの脳裏を駆け巡る。
 と、なにを思ったか、その隣に座り込んでずっと黙って話を聞いていたJが、ふと顔を上げた。
「ここが、君の言っていた問題の施設であることに、間違いはないんだね?」
「ない」
 間髪おかずに断言したロルに、Jは口角を吊り上げる。
「なら、勝算がまだ残されているかもしれない」
「どういうこと、Jくん?」
 きょとと目を瞬かせ、烈は友人の不可思議な言動に説明を求める。
「情報戦に持ち込んじゃえばいいんだ。幸い生き証人もいることだし、ここは証拠の宝庫なんだし」
 不敵な笑みと共に、少年は続けた。
「通信手段さえ押さえられれば、いまからでも形勢逆転はできるよ」

「なに、考えて…」
 突飛な発言に誰もがまっとうな声の発し方をも思い出せない中、表情をこれでもかというほど歪め、ロルがようやく反応を示した。聞き取るのがやっとなほどにひそめられてはいるが、そこに滲む戸惑いの色は濃い。
「逃げ切ること」
 軽やかに、自分の置かれた立場などまるでわかっていないような調子で返された言葉に、ロルはこめかみの痛みを抑えきれない。
「心当たりでもあるのか?」
 しかも、大真面目な顔でリョウが同意するような意見を続けたものだから、その痛みはますますもって酷くなる。
「さっきのルーカスっていう人、まるで外から通信を入れているみたいな口ぶりだった。それに、ここから外に出る手段を置いていないなら、連絡手段ぐらいあるのは当然だと思う」
 向けられる鋭い眼光をまっすぐに受け止め、Jは手際よく答えを返す。
「言われてみれば、そうだすな」
「ま、このまま手をこまねいているよりは、よっぽど現実的な話でげすね」
「私も、やってみるだけの価値はあると思うよ」
 納得したような二郎丸の声を皮切りに、次々と返される首肯。それらに笑みを深めていたJはするりとロルに視線を流し、寂寥感を伴う、たおやかな声を紡ぎだす。
「ボクは無力だ。でも、それなりに力にはなれると思う」
 はんなりとした笑みに縁取られるそれは、鼓膜を震わせ、ロルの思考に波紋を広げる。
「なんだってするよ。これ以上、大切な人を失うのはもう嫌なんだ。そのためになら、ボクはどんなことも厭わない」
 自己満足に過ぎないかもしれない。贖罪と呼ぶには足りない。それでも、どんなに小さなことでも行動に移さないと、ただ失うだけの結果を得るのだと、Jは知っている。
 側で笑っていてくれる友人を、見守ってくれる大人を。そして、いつだって手を取って隣にいてくれた、大切な家族を。損なうわけにいかない存在のためになら、惜しみ、躊躇するべきものなどなにもない。
「ボクは君を犠牲にした。君の場所に、ボクも立っているはずだった。それを、君に救われた」
 凛とした声の告げる唐突な懺悔の言葉に、ロルははっと目を瞠る。視線は逸らさないまま、Jは泣き出す寸前のような表情を笑みに紛らわせようと足掻きつつ、ひと言ひと言を噛み締めるように、ゆっくりと続ける。
「君のためなら、代償に命を求められたとしてもかまわない。今度は、ボクが君の力になりたいんだ」
 ふつりと、ロルは耳の奥に、なにかの途切れる音を聞いた気がした。

 少なくともJは、この場に居合わせる誰よりも事情を深く理解していて、ロルの素性も正しく察している。その上で、こんなにも純粋な言葉をぶつけてくる。やさしいゆえの残酷さを、誠実ゆえの非情さを込めて。
「可能性なんて、無いに等しいんだぞ?」
 見つめる視線から逃れるように伏せた目の先。冷たい色を刷く床を睨みつけ、ロルは呻くように言葉を振り絞る。
「悪あがきに終わる確率の方が高いし、危ない目にあうかもしれない」
「んなもん、臨むところだぜ!」
 溢れ出さんばかりの自信をもって応じたのは、豪だった。
「なにもしないで結末を待ってるのは、僕たちの性に合わないしね」
 烈が音のしそうなほど見事な笑顔で断じたのを契機に、全員が入り乱れての作戦会議へとなだれ込む。ようやく顔を上げ、その様子をぼんやりと見渡したロルは、内部事情のわかる人間が必要だと呼ばれ、話の輪にのろのろと加わる。
 部屋の配置をはじめ、問われる内容に淡々と答えていたロルは、向けられる問いかけが一段落したところで、先ほど言いそびれてしまった言葉を発する。
「ありがとう」
 なにに向けての謝礼の言葉なのかと、いぶかしげに返される視線がほとんどだったが、ロルはそれ以上、なにも言わなかった。
 続きはまた後で、すべてが片付いてから告げればいい。いまはただ、可能性を信じるだけの力をくれたことへの、無上の感謝を込めて。





 気配を殺しての行動は自分の専売特許かと思っていたら、そうでもないらしいことに、ロルはしみじみ気づかされた。まっすぐと前を見据える表情にあからさまな険を刻み、ロルの隣をひた走るJもまた、ほとんど足音を立てていない。
「少し」
 下がって、と、最後まで言葉を続ける必要はなかった。
 ぴくりと片眉を跳ね上げたロルが短く告げれば、Jはそれだけで意思を察し、ほんの僅かに速度を落とす。反対に足を早めたロルが曲がり角の手前に軸足を置き、陰に向かってぐるりと大きく回し蹴りを入れる。打撃音が響くと同時に情けない呻き声が聞こえ、なにかが床に崩れ落ちる音が続いた。
 通り過ぎる際にちらりと視線を走らせれば、目を回した中年の男が、だらしなく床に伸びている。その手に握られているのは金属パイプだ。
「みんなは大丈夫かな?」
「護衛のプロがついてる。信じて平気だろ」
 目の前の男の身を案じる言葉でも同情の言葉でもなく、Jはただ、手前で別れた仲間たちを思う言葉を発した。これで、彼らと別れてから三人目の遭遇である。少なくない人数の関係者が、建物内にいると見てもいいだろう。せめてもの救いは、いままで見てきた相手がいずれも、白衣を身に纏った研究員という様相の人間であること。とてつもなく危険な武器を持っているわけでも、厄介な武術を身につけているわけでもなさそうなことぐらいだ。
 もっとも、油断は禁物である。警備員に自分たちが遭遇していないだけかもしれず、先ほど洞窟での追撃を振り切った相手が、いつまた姿を現すかもしれない。不吉な可能性なら、いくらでも考え付くのだ。表情を曇らせるJの不安は、ロルの言葉にも晴れない。
 親切なことに、廊下に並ぶドアにはいずれも名称を示す札がついており、目的地を探すのにいちいち部屋の中を確認する必要がないのはありがたかった。
「多分、こっちでビンゴだ。居住系の部屋がない」
 低く囁く声に無言で頷き返し、Jは自分に割り当てられた右側の壁に視線を走らせ続ける。目指すは警備室か執務室。そこにはきっと、外に繋がる連絡手段があるはずだから。
はじめから途中で別れる予定はあったが、この人員配分はハプニングによるものだった。
 内部を知っているといえ、ロルが全体の構造を完璧に把握しているわけではない。ならば別れて動く方が効率がいいだろうから、道が分かれているごとに、二手になろうとは言っていた。ただ、一番はじめの岐路で、思いもかけず内部の人間とおぼしき相手に遭遇したのだ。
 突然の闖入者に驚いたのだろう。警報を鳴らされれば、近隣に居合わせた人間が続々と集まってくる。なんとか凌いで逃れたときには、Jはロルと二人に、相手を挟んだ反対通路に残りの面々とあいなっていたのだ。わずかに予定は狂ったが、ぐずぐずもしていられない。
 あくまでも目的は外との連絡手段を見つけ、ハースに告げることにある。探し物を見つけた、と。直接伝える必要はない。多少遠回りになろうが、とにかく彼の耳にその情報を入れさえすれば。そうすれば、彼はきっと腰を上げる。いよいよもって利用価値の増したロルを失わないために、手を尽くしてくれるはず。
 作戦はあらかじめ確認してある。あとからきっと合流しようと叫び、二人はいまの状況に至るのだ。

 走る先の廊下の明度がやけに高いことに気づき、Jは違和感に眉をひそめる。
「なんだろう、あれ」
「突っ切るから、なに見ても足を止めるなよ」
 意味深な返答の真意を問いただすより先に、二人は件の光の中に飛び込んでいた。明るい場所にいきなり放り出された瞳が、採光の調節を試みる。一旦ホワイトアウトした視界が正常に機能しはじめた瞬間。Jは、自分の見ているものに小さく悲鳴を上げた。
「止まるなってば!」
「でも、あれ!!」
 Jの反応は予測の範囲内だったのだろう。すぐさまその腕を取り、ロルは立ち止まってしまったJを半ば引きずるようにして足を進める。
「許せないと思うなら走れ。外に出られれば、この事実も明るみに出せる。あいつらも、外に出られる」
 叱咤するような声に導かれ、Jは唇を噛み締めて足に力を込める。
 廊下の右サイドには、いままで続いていたオフホワイトの壁の代わりに、大きなガラスがはめ込まれている。部屋の面積に対して中にいる人間は少なく、しかも遠目なので詳細まではわからない。それでも、ガラス一枚隔てた向こうで、自分たちよりも幼いぐらいの子供が数人、壁に繋がれ、白衣を着た大人たちに囲まれている様子だけははっきりと見てとれた。近くにしゃがみこんでいた一人が立ち上がるその手に握られていた注射器のようなものの中身が、なんらかの病に効く、正規の薬であることをと。ありえないだろう希望に、縋る気持ちは音を立ててしぼんでいく。
「やつらは自分の作業に基本的に夢中だ。上を見られない限り気づかない。一気に抜けるぞ」
 更に速度を上げると、Jはなるべく周囲を見ないように視線を伏せ、黙って前へと進む。
「君も――」
「オレは、生きて出られた」
 問題の場所はすぐに抜けたが、網膜に焼きついた光景は薄れない。握られている手首が痛むのを訴えることも忘れ、Jは口を開いた。だが、皆までセリフを言わせず、ロルは力強く遮る。
「オレは生きてここを出て、いまも生きてる」
 追求を拒絶し、詮索を忌避する声に、Jは軽い相槌を打つにとどめて言葉を打ち切った。過去の事実を確認したところで、当面の問題の解決にはなんの足しにもならない。まず、自分たちの直面している事態を打破して、その後だ。この場を切り抜けることが、次のステップへの足がかりになる。
 廊下の奥へと目をやれば、あからさまにそれまでの部屋とは風体の異なる、大きな扉がある。
「きっとあそこだ」
 目の前に立ちふさがる障害はない。わずかに弾んだ声音を残し、先に立つロルが取っ手を捻る。
 ドアの開く重苦しい音に紛れて、Jにはそれはよく聞き取れなかった。ただ、慌てて身を捩ったロルの左袖をなにかが引き裂き、血が滲むのが視界に映る。
 ドアの向こう、電気のついていないがらんとした部屋の中。誰もいないかと思われたそこには、窓から差し込む月の光を背に、ひとつの人影が佇んでいた。


 建物自体がすっぽりと洞窟の中に入っているのかと思いきや、外に出ている部分もあるのだと、窓の向こうに覗く夜空と月が示している。薄明かりの中、その人影は腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、デスクを回り込んでじりじりと距離を詰めてきた。
 たったいま受けた銃弾から、相手が持つ武器は想像に難くない。
 鈍く、引き攣るような痛みを訴える腕で、ロルはそっと、腰に差した小銃を探る。扱えるのなら持っていけと、部屋を出る直前、ドゥルーズから渡されたものだ。もっとも、弾数は残り二発。どれほどの抵抗が試みられるかは、わかったものではない。
 攻撃を仕掛けてはきたもののまるで殺意の見られない相手に、ロルもJも、動くに動けない。ただじっと動きを注視し、次にとるべき行動を頭の片隅で思案する。
「ようこそ、所長室へ」
 デスクの正面で動きを止めた影の主は、深く、威厳に満ちた声を発した。
「歓迎するよ」
 いっそ穏やかな、まるで子供を宥めるかのような口調。どこかで耳にした覚えのあるその響に、警戒しながらも記憶を漁っていたJは、思い当たった候補に小さく声を上げる。もしも予測が正しいなら、あまり会いたいと思える相手ではない。だが同時に、一度は直接見てみたいと、密かに願っていた人物でもある。
 もっとも、真偽を量る術はJにはない。判断材料にしようとそっと視線を隣に流せば、ロルは表情の削げ落ちた瞳でひたと正面を見据え、ゆっくりと口を開く。
「こんな所でなにをしている、ルーカス・ダントン?」
 候補は、大当たりだったようだ。
「君を待っていたに決まっているじゃないか」
 地を這うような低い声にも、影は動じない。つれないな、と軽口を叩きながら、唇を歪めて笑みを作る。気持ちのいい笑い方ではない。相手を卑下し、蔑む思いが薄膜を通して伝わってくるような。直接に罵られた方がましだと思えるほど、不愉快なものだ。

 ぴくり、と、ロルの頬が引き攣る。だが、それでも彼の横顔にはなんの表情の変化も生まれない。押し殺され、誤魔化されればその分ロルの内側で煮えくり返っている思いが余計に伝わる気がして、Jは知らず、身が強張っているのをぼんやりと悟る。
 手の中の凶器をくるくると弄びながら、影はデスクに腰を預ける。
「まったく、君はいつでも私の予測を裏切ってばかりだな。まさか、こんな強硬手段に打って出るとは思いもしなかったよ」
「それは、お前がオレと違う感覚を持っているからだ」
 いかんともしがたい差異なのだと、ロルはやけに静かに返す。
「オレは、自分自身の存在以上に重い存在を知っている。その存在を失えばオレは狂うだろうし、守るためならば死をも喜べる。お前には、そういう感覚がないんだろう?」
「ないな。私は己以外の存在に、己以上の価値など認めない」
「なら、わかるわけがない。もっとも、わかってもらおうとも思わないけど」
 きっぱりと断言した子供に目をやり、ルーカスはくつくつと笑いはじめた。場違いなほどのんきな笑い声は次第に大きくなり、高らかに響き渡る。
「ああ、だから君は素晴らしい。やはり、手放すべきではなかったかな」
 笑いの波が収まらないのか、微かに震える声で告げると、ルーカスは愉悦に満ちた視線を部屋の入り口へと向けた。
「君の勝ちだ」
 意図のさっぱり読めない行動にロルとJとがそれぞれに身を固めて警戒心を引き上げれば、影はゆっくりとデスクから離れ、窓の前まで戻ったところで足を止めた。自信なのか侮蔑なのか。背中を無防備にもロルとJとに向けた状態で、彼は続ける。
「所長はいま、本社の方に行っていてね。ここにはしばらく戻らない。中の連中は、君から見れば弱すぎて相手にならないだろう?」
「なにが言いたい?今度はなにを考えている?」
「賭けていたんだよ。私の予測が勝つか、君の行動が勝つかを」
 選択肢を二つ用意した。
 自分が勝てば、すべては筋書き通りに行くようにと。相手が勝てば、筋書きの結末が誰にも見えなくなるようにと。
「言っただろう、退屈凌ぎだと。一番面白い過程を得られるなら、別に誰が勝とうと、どうだっていい」
 私には関わりのないことだと、振り向いたルーカスはあっさり言い放った。






 あまりにいい加減なその発言に、子供たちの警戒心は一瞬の緩みをみせる。唖然とした様子で見返してくる同じ色の、それでもはっきりとした違いを湛える二対の蒼い瞳に、ルーカスはただ、満足げな笑みを向ける。
「楽しいか否か、それが重要なんだ」
「じゃあ、あなたはこのすべてが楽しみのためだったと?いや、これだけじゃない。ザデー議員との癒着とか、武器の密輸とか、この研究所で行なわれていることとか!全部、退屈凌ぎだったとでも言うんですか!?」
「無論」
 慌てて息を吸い込み、初めて口を開いたJに厳しく糾弾されても、ルーカスは笑みを崩さずに即答する。
「よく、調べてあるようだ。もっとも、将軍殿と私は癒着関係ではなくて、友人同士だよ」
 教え子を諭すかのような口調で応じ、ルーカスは肩をすくめる。その行動は言動を激しく裏切った印象を与えるものだが、それすら承知の上なのだろう表情が、Jの感情を逆撫でする。
「友人ですら、あなたにとっては愉悦を得るための道具に過ぎないんですか?」
「そのことに関して議論する気はない。君たちは、兄弟でありながら互いを利用して生きているではないか」
 視線は外に投げ、気のない調子で向けられた無神経な言葉が脳に届くや、Jの自制心は臨界点を突破した。
 だが、激昂に任せて口を開こうと息を吸い込んだ目と鼻の先に、ロルの腕がずいと突きつけられる。
「お前に言われる筋合いはないし、こっちこそ、そのことに関して議論する気はない」
 声こそ静けさを保っているものの、目にはぎらぎらと物騒な光が宿り、全身から怒りが陽炎のごとく立ち昇っている。
「もう十分に楽しんだだろう?オレの勝ちだと言うならそこをどけ。外に連絡をつけて、オレたちは無事に逃げ出して、そしてここの存在を世に暴く。お前も、ザデーもガーフィンケル社も、みんなお終いだ」
「勝利を奪われたからには、私はもう手出しをしない。好きにするといい」
 アナログの資料は揃っているし、研究所内のデータベースに所長権限を持つこの部屋のパソコンからアクセスするのはたやすいことだ。
 ただし、と。ルーカスは逆接の接続詞を付け加えるのを忘れなかった。言いながら無駄のない動作で改めて振り返ったその腕はいつの間にか上げられ、銃口がひたりと、ロルの眉間に合わされている。
「隙だらけだな。感情に流されてはいけないと、あれほど教えたのに」
「手出しをしないっていうのはでまかせか?」
「とんでもない」
 笑みも姿勢も崩さないまま、ルーカスは淡々と告げる。
「いま、この中には君を外で追っていた子らがいる。彼らからうまく逃げ切れるかまでは、私は知らない」
 言い切るか言い切らないかの内に、その銃口は火を吹いていた。

 慌ててドアから逃れ、左右にそれぞれ、壁に身を寄せて銃弾を避けた二人の目の前に、硝煙を突っ切って銃本体が投げ捨てられる。いぶかしさと警戒心とを織り交ぜてそっと室内を覗けば、濁った視界に、人影とおぼしきものは映らない。
「やられた!」
「どういうこと?」
 舌打ちと共に低く吐き捨てたロルに、続けて部屋に足を踏み入れたJが問う。
「ここはもとはといえば戦争中の軍事施設。どっかに抜け道があったって、別に不思議なことじゃない」
 自分たちの知らないそこから逃げられたのだろうと、ロルは奥歯を噛み締めた。どこまでも自分を翻弄し、そしてまんまと逃げおおせる相手に、煮えたぎる感情のやり場が見つからない。
 もう一度だけ、確認の意味も込めて室内を見回したJは、ひとつ頭を振って思考を切り換えると、デスクへと歩み寄った。
「諦めよう。追いかけたくても、道がわからないなら意味がない」
 それよりも、やらなくてはいけないことがある。悔しいこと極まりないが、彼も言っていた。感情に流されてはいけない、と。
 既に立ち上がり、パスワードを請求するウィンドウの出ているディスプレイに目をやったJは、キーボードの上の紙を見つけ、思わず手を伸ばす。ご丁寧にも四つ折にしてあったそれには、パスワードと、そしておそらくはルーカスからのメッセージ。
 視界の隅ではロルが部屋に備え付けられていたらしい電話を持ち上げ、破壊されていることを教えてくれる。すべての可能性を潰しはしないくせに、一番の頼みの綱はことごとく打ち砕く。周到なその行動に呪詛の言葉を吐き出し、ロルはわなわなと震える肩を隠そうともせず、乱暴に電話を元の位置に戻した。
 吐息に万感の思いを込めることで湧きあがった感情を押し殺すと、Jは素早くキーボードに指を躍らせる。
「ここはボクひとりでも大丈夫。それより君は、みんなの方を」
 画面を流れる膨大な量の情報を読み流しながら、Jは入り口に戻り廊下の向こうを伺っている少年へと声をかける。デジタル系の知識はないのだと言っていた彼と、アナログの戦闘に関しては足手まといにしかなれない自分。それぞれに領分があるのなら、少しでも使える手の必要な部署に、適切な人材を配置するべきであろう。
 考えうるすべての方法をもってハースへの接触を試みながら、Jは願う。追っ手が入り込んできたなら、建物内の構造に詳しくない友人たちは、袋のネズミも同然。単身ならまだ小回りも利くだろうが、非戦闘要員の集団ともいえる彼らには、守ってくれるだけの力を持った人間が、ひとりでも多く必要だ。
「そういうわけにもいかないみたいだ」
「え?」
 耳をそばだてるようにしていたロルは、半眼で低く続ける。
「さっきのやつらだけじゃないな。大人も相当人数混じってる。しかも、プロが」
 提案に対して返した反論を唱える言葉に束の間手を止めたものの、Jはすぐに作業に戻り、無言のまま続きを促してくる。その様子を横目で見流し、ロルは必死に、最良の策を思案する。
 ぴんと張り詰めた空気を纏い、いくつもの足音がひしめいている。時折混じる銃声の存在を、正直に告げるべきか否か。

 最後の最後になって、いよいよ大詰めというところまできて。どうしてこんなどんでん返しが待っているのか。
 耳許に、人を喰ったようなルーカスの笑い声を聞いた気がして、ロルは大いに顔をしかめた。
 手の中には、二発の銃弾を残した小銃が一丁。ルーカスが最後に放って寄越したそれが空であることは確認済みだし、他に武器になりそうなものはひとつもない。圧倒的に不利であることは、誰よりもよく、ロル自身がわかっている。
 それでも、守らなくてはならないものがある。
 自分で口にした言葉を思い起こし、ロルは薄く笑みを刻んだ。自嘲にも絶望にも縁のない、穏やかな笑み。
 ごく小さな靴音が廊下に木霊し、そこかしこで扉を開け放つ音がしている。そこに加えて人の話し声が重なれば、あらゆるものが壁に乱雑に反響してしまい、個別には聞き取れない。もっとも、状況は読み取れる。
 いまこの建物内は、混乱の只中にあるのだろう。ならばそれは、好むと好まざるとに関わらず、少年がずっと慣れ親しんだ空気。ロルの独壇場を意味している。
 作業に集中力の大半を取られているJは、廊下の様子に気づいた風もない。もっとも、それは当然のこと。相手は、聴力特化型と呼ばれたロルですら耳を澄ませなければ聞こえないほど、すべての音を抑え、統率された動きをとっている。そして、別枠で蠢くもうひとつの気配が、ぴりぴりと神経を刺激する。
「とりあえず、様子見てくる。ここから出るなよ」
 状況をいま、事細かに説明することに意味はない。指示に素直に頷くJに目をやってから、少年は騒ぎの中心、自分たちが通り過ぎてきた方へと足を向ける。
「絶対、戻ってきてね」
 部屋を飛び出す寸前にかけられた言葉は正しくその耳に届く。もっとも、それに返答している暇はなかった。


 言葉や理屈で説明することの適わない、いわゆる直感というものに任せて。ロルは振り向きざま、引き金にかける指に力を込めた。節約のため一発しか撃たなかった銃弾は、相手に傷を負わせる。それでも、傷の走った肩口を気にかけることなく、背後から現れた影は走りながら手の中の機関銃を持ち上げてきた。
 おそらく彼は、ルーカスの言っていた、外で追ってきた子たちの一人なのだろう。ロルとそう背格好の違わない少年は、無表情というよりは無感情な様子で、安全装置を外す。
 冷静さを欠かない観察眼は、はじめに向かおうと思った方向からも、何者かが距離を詰めてくる気配があることを同時に伝えてくれていた。だが、残り一発となった小銃一丁で、大勢の相手などできるはずもなく、彼らを丸腰のJがいる部屋へと通すわけにはいかない。
 瞬時に判断を下し、ロルは一足飛びに前方の相手との距離を詰め、銃口の向きを天井へと逸らした。そのまま引き金を引くゆとりも与えず、手首を捻り上げ、得物を奪いつつ足技をかける。
 もっとも、相手もやられ通しではなかった。どう足掻こうと、物理的に腕の本数が少なければ、形成不利であることに違いはない。封じたのとは反対の腕で首を締め上げられ、ロルは呻き声を漏らし、慌てて身を捩る。併せて鋭く蹴りあげようにも、床に押し倒されてしまっては力が思うように入らない。
 脳に補給される酸素が不足してきたのか、視界が霞みはじめる。せめて凶器を戻すわけにはいかないと、手首のスナップを利かせて放り投げるが、気休めにすぎないと囁く理性の声に、自己嫌悪の念に駆られる。
 悲鳴に近い甲高い声が、ロルを呼んだ。出てくるなと言ったのに、Jが廊下にやってきたらしい。音にならない舌打ちを残し、ロルは反動をつけて膝を蹴り上げた。みぞおちを直撃した感触に続けて、首を締め付ける圧迫感が緩む。
 形勢逆転の機とみたロルが、腰の捻りを利用して相手を壁に叩きつけようとした瞬間。重たげな音と共に、いくつもの銃口がロルと、ロルを組み伏せる少年とに照準を合わせる。
 はっと息を呑んだJが床に転がっていた機関銃へと飛び込み、手を伸ばすものの、僅差で間に合わなかった。
 先手を打たれてそれは、いかにも丈夫そうなブーツに踏みつけられた。






 一様に動きを止めた子供たちを一瞥し、集団のトップとおぼしき先頭の男が軽く顎をしゃくる。と、後ろにいた男たちがいっせいに、統制の取れた動きで散りはじめた。ロルの注意が逸れたチャンスを逃さず、再び気管を圧迫する手に力を込めていた少年を、二人の男たちが引き剥がす。その脇では、別の男が床からJを助け起こしている。
 放置される格好で呆然と成り行きを見守っていたロルに、差し伸べられる手と声とがあった。
「無事か?」
 手の先には、指揮をとっていた男の、心配そうな表情がある。警戒心をいっぱいに湛えた視線で睨み据えるにとどめ、相手の出方を伺うロルに、男はなにを思ったのか銃を下ろし、空いた両手でその脇を抱え上げる。
 よいしょ、と、外見年齢相応のかけ声と共に子供を立たせて、男はロルの服についてしまっていた埃を軽くはたいた。
「怪我は、そんなに酷くないようだな」
 一人で勝手に納得している男に、敵意は微塵も感じられない。袖と肩とに滲んだ血を見て眉をしかめるものの、重傷というわけではないことを見てとったのか、ふうと吐息をこぼした。
 両手両足の自由と意識を奪われ、体格のいい男に担ぎ上げられた少年が、ロルと男の横を運ばれていく。
「あの、あなたたちは?」
「ああ、失礼。まだ名乗っていなかったね」
 やはり怪我の確認をされていたらしいJが、そっとロルの隣により、男にいぶかしげな視線を送る。二人の少年にとっては当然の問いだったが、男にとっては意外なものだったらしい。ふと思案するような表情を浮かべた後、ようやく気づいたという調子で、苦笑しながら口を開いた。
「私はマードックという。連邦捜査局の捜査官で、ハース議員に依頼されて、君たちを助けにきた」
 ちなみに、他のご友人たちは無事だよ、と続けざまに微笑まれ、Jはロルと顔を見合わせる。
「さあ、行こうか。怖かったろうに、よく頑張ったね」
 くしゃりと子供たちの頭を撫でる手は、無骨ながらもやさしい。それぞれに仕事をこなしている仲間たちにいくつか指示を残すと、マードックはJとロルの先に立ち、ついてくるようにと言って歩き出した。

 連れて行かれたのは、建物内の一角にある、応接室のような部屋だった。
「あー、お前ら!無事だったんだな!」
 ドアを開けて中に一歩踏み込めば、耳慣れた声が耳朶を打つ。満面の笑みでソファーから身を乗り出しているのは、豪だった。
「大丈夫だった?」
 空いている席に座るよう促す土屋の向かいの席から、烈が穏やかに問いかける。
「うん、ボクたちは平気。そっちは?怪我とかしてない?」
「大丈夫だすよ!」
「見ての通り、無傷でげす」
 二人が腰を落ち着けるのを見計らって、入り口に立っていた男が、マードックの指示を受けてロルの腕の手当てに取りかかる。頷きながら問い返したJに、いつもの調子の二郎丸と藤吉の声が軽やかに応じる。
「なんにせよ、無事でよかった」
「そうだね」
 しっとりとまとめて背もたれに体重を移すリョウに、土屋が微笑みながら同意した。
 ありふれた、そしてなににも変えがたい日常の風景が、そこには当たり前のように広がっている。胸の奥からせりあがってくるあたたかい思いに軽い眩暈を覚え、Jはまぶたを落として全身から力を抜く。
「連絡をつけてくれたのか?」
「いや、違うよ。私たちは関係のない部屋しか見つけられなくてね。その途中で、外で会った子たちに追いつかれたところを、彼らに助けられたんだ」
 ぐったりとソファーに沈み込んだJの隣で、淡々とした声が上がった。所長室に辿りついた後の時間ロスを考えれば、自分たちの取った連絡によってマードックたちがやってきたとは考えがたい。小首を傾げて尋ねるロルに、土屋が苦笑混じりに答え、その視線を男へと投げかける。詳しい説明は任せるということだろう。
「護衛役の二人から定時連絡がなかったため、緊急事態が発生したと判断したハース議員のひと言で、捜索部隊が派遣されたんだ」
 最後の連絡の履歴から座標を細かく割り出してみれば、そもそも公式に発表されている滞在先とも違う。事態はあっという間に大きくなり、いまごろマスコミも大騒ぎだという。言葉がなくとも正確に土屋の意図を察したマードックの簡潔な説明に、ロルは室内を見回した。
「あの二人は?」
 言われてからようやく気づいた、いつでも傍にいた二人の存在の欠損。最悪の事態を想定してロルは一転、表情を驚愕から不安へと塗り替える。
「警察の人がね、一足先に病院に連れて行ってくれたんだ。僕たちを庇って、二人ともけっこうな怪我をしちゃってて。でも、そのおかげでみんな無事なんだけどね」
「命に別状はないだろうが、出血箇所が多かった。大事をとらせてもらったんだ」
 烈の説明に補足を加え、ほっと息をついたロルを見つめてマードックは微笑んだ。
「別枠でヘリを要請してある。それが到着したら、君たちも本土へ送ろう」
 とにかく疲れただろうから、いまはゆっくりと休むといいと言い残し、彼は廊下へと出ていった。


 本来ならばぐっすりと夢の中にいるはずの時間を緊張の連続で過ごしてきた面々は、誰もが疲れ果て、ソファーに身を沈めている。もっとも、眠気に襲われているのかといえば、そういうわけでもない。昂った神経は目を、思考を、かえって冴え渡らせる。
「傷は痛まないかい?」
「大丈夫。ありがとう」
 中でも特に、どこか気の抜けた様子で視線を投げ出しているロルに、土屋はそっと、小さな声で問いかけた。思えば、彼こそがもっとも疲弊しているだろう立場にある。怪我も多く、体力の消費も、誰より激しかったはずだ。それなのに、他の子供たちと異なる様子など微塵もみせず、瞬きひとつで穏やかな笑みを浮かべると、ロルは土屋にゆるく首を振った。
 事実、小さな傷は多いものの、どれもロルにとってはたいしたことのないものだった。いずれも出血は治まっているようだし、特に違和感もない。簡単に各関節を動かすことで、怪我の状態の確認を行なっていたロルは、物憂げな表情で俯いている人影に気づき、首を巡らせた。
「どうかしたか、レツ?」
 名指しで問われ、烈はゆっくり顔を上げると、ぽつりと呟いた。
「どうなるのかな、って思って」
「どうなるって、なにが?」
「ほら、さっき襲ってきた子とか、他にもここにいた子とか」
 唐突であいまいな言葉に豪が首を捻れば、烈は真剣な面持ちで続ける。
「怪我した分は治してもらえるんだろうけど、そうじゃなくてもなんか、様子がちょっと変だったし」
 感情も表情もまるで垣間見せず、機械のように淡々と、目的のための作業をこなしていた様子が、いまだ頭から離れない。傷を負うことも、誰かの命を奪おうという行為も、彼らにとっては微塵の躊躇いも覚えることではないようだった。なまじ、近くで改めて見れば案外年齢が近かったため、どうしても、他人事と割り切ることができないのだ。
「ああ、それは仕方ない。自我を保たないように、いろいろ仕込まれるから」
 訳知り顔で首肯し、ロルは烈の疑問に答えを示す。無言で詳細を求めるいくつもの視線に、少年はさらりと応じる。
「ここでの仕込みがはじまるのは、だいたい五歳ぐらいからだ。そんな小さいうちから、自我を持たないように、ただ人形みたいに従うようにって教育されたら、そうなるのは当たり前」
 自我を保たせれば命令に背く恐れがあり、感情を持たせれば精神状態の暴走や崩壊の可能性がある。それでは、商品としての価値が下がってしまう。自分たちはあくまで、戦場において人形のごとく動く兵士として作られ、売られるのだから。
「でも、君は違うよね?」
 なされた説明に対して、烈は疑問を呈した。目の前にいる人物は、ここで育ち、訓練を受けたのだと公言していたが、いまの言葉とは矛盾する。
「オレは例外。最後まで逆らい続けた、非常に珍しい失敗作」
「そして、ありとあらゆるテストにおいて常に最高水準の成績を叩くほどの、得がたい秀作だった」
 ひょいと肩をすくめ、ロルは昏い嘲笑を浮かべる。だが、それは一瞬にして掻き消えた。ロルの言葉尻にかぶせるようにして述べたのは、いつの間にか入り口に姿を現していた、初老の男だった。

 うっすらと微笑みを湛えた男は、入ってもいいかと伺いを立てる。慌てて土屋が許諾したのを受けてソファーへと近寄ってくる男に、驚愕に目を見開いていたロルが、苦い声を絞り出す。
「なんで、こんなところに?」
「現場視察は基本中の基本だ」
 重々しく返された言葉に、ロルはじと目で男を睨み据える。片眉を跳ね上げ、軽い調子でその剣呑な視線を受け止めていた男は、しばらく見合った後、ふと口元を緩めた。
「相変わらず手厳しい。だが、視察というのは本当だ。ここの存在は、私にとっての追い風となる。自分の目で確かめようと思ってね」
「もっと落ち着いてからにしようとは思わなかったのか、ドワイト・ハース?」
 飄々とした中にも冷徹なしたたかさを秘めて対峙する男に、ロルは大きく息を吐いてみせた。言われてみれば確かに、廊下には見慣れたハースの取り巻きがおり、さらにそれを取り囲むようにして、マードックの同僚たちが立っている。視察に来たというそのセリフに、嘘はないのだろう。
 名前を呼び捨てにした瞬間、外の人だかりでざわめきが起こったようだったが、ロルもハースも気にした様子はなく、軽く受け流す。
「せっかく変装してみたのに、いきなり正体をばらすこともないではないか」
「眼鏡を変えただけだろう?」
 残念そうに首を振りながら内ポケットから取り出したケースを開け、おもむろに眼鏡を取り替えたとたん、そこにはテレビなどでよく見かける顔が現れた。ロルが名前を呼んだ段階で既にわかってはいたことだが、外観と中身とが一致して改めて、室内には困惑のざわめきが広がる。
「一方的にあなた方のことは見知っているが、この場合は、はじめましてと言った方がいいかな」
 品格の漂う仕草で軽く会釈を送ってきたハースに、相手の存在の大きさをいまいち実感しきれない子供たちはあいまいに挨拶を返し、土屋は腰を浮かせて右手を差し出した。
「どうぞ楽に。今後のためにも、早めに確認しておきたいことと、伝えたいことがあるだけなので」
 がっしりと握手を交わした後、座ってくれるよう身振りで示してから、ハースは内心の読めない表情で、ぐるりと室内を見回した。






 すっと息を詰め、それぞれにその場で背筋を正す子供たちに、ハースは目元を和ませる。いい反応だと、そう、素直に感じたのだ。
「どこまで知っている?」
 緩んだ表情筋を頷きひとつで引き締め、ハースは一人の子供に顔を向け、厳かに問いかけた。抽象的な言葉だが、言わんとしていることは正確に察することができる。穏やかさと険しさを内包する鋭い眼光に射抜かれ、Jは肩を揺らす。
「彼にまつわることなら、恐らくほぼすべてを」
 深呼吸をひとつ間に挟み、Jは男の瞳を見返して答えた。駆け引きにおいては、彼に一日の長がある。下手な嘘や誤魔化しは逆効果だと判じたのだ。
 喉を鳴らして息を呑む気配が隣から伝わってきたが、かまっている余裕はない。
「ならばその上で、君の真意を聞かせてほしい」
 臆することなく、挑むように見上げてくる幼い視線に興味深げに目を眇めると、ハースは静かに言葉を継ぎ足した。
「君は結末に、なにを望む?」
 曖昧にぼかされたセリフに単語以上の意味を察し、Jは思わず眉をひそめていた。
 これは駆け引き。言葉の裏を見て、意思の裏を量り、そして行く末を左右する。とんでもない岐路に、Jはいま立たされているのだ。なにが答えなのか。どんな言葉を返せば、望む方向へと時間は進むのか。いまここで、選択を過つわけにはいかない。相変わらず底の知れない笑顔を貼り付けているハースから視線を床へと落とし、Jは黙考する。
「私は、彼に問うているんだ。君ではない」
 沈黙にいたたまれなくなったのか、声を上げようと目線を向けてきたロルにぴしゃりと言い置き、ハースは苦悩する子供を泰然と見やる。
「約束を――」
 しばらく逡巡をみせていたJは、しかし。いざ口を開けば、迷いなど一片も感じさせなかった。
「約束の、成就を。いまはただ、それだけを望みます」
「約束とは?」
「再会と、未来の共有です」
 重ねられる問いに、躊躇なく答えを示す。凛と揺るぎない光を宿す蒼い瞳の奥に、悲痛に歪められた表情を垣間見た気がして、ハースは瞬き、口の中で返された言葉をなぞる。
「彼の業を知っていてなお、それが言えるのか?未来が共有できるのか?」
「その業の裏には、ボクの罪があります。それに、守る覚悟のない約束なら、はじめからしません」
 呆然と目を見開いて座り込んでいるロルへと凪いだ視線を送り、Jは呟くように続けた。
「これ以上、彼一人に茨を負わせるような真似はしたくない。そのために必要なら、ボクはなにを切り捨てることをも厭いません」
 翻らない意志を感じさせる、細くも強い声だった。そうか、とだけ答え、ハースは顎に手を当て、なにごとかを考え込んでいる。

 なんとなく声を発すのが憚られ、誰もが居心地悪そうに身じろいでは互いに目を見合わせている。そんな落ち着きのない沈黙の中、ゆるりとまぶたを落として視界を闇に染め、ロルは一人、黙考する。
 これ以上誰かを、自分の纏う影に巻き込む権利などあるわけがない。なのに、もっとも巻き込みたくない相手である少年は、微塵の迷いもみせずにやさしく残酷な覚悟を告げる。そのことが耐え切れない灼熱となって、身を焦がすのを感じる。
 じっとハースの言葉を待つ一同にふと微笑みかけ、彼は、一人ただ困惑から抜け出せずにいる子供に視線をやって口を開いた。
「では、力になることを約束しよう」
 声はどこまでも深く、聞くものの脳にゆっくりと浸透していった。
「私は専門家ではないから、細かいことは知らない。だが、戦場における兵士の戦闘行為は、殺人罪には問われないと思った」
 断定は避けながらも、ハースの表情に自信なさげな様子は伺えない。思いもかけず降ってきた嬉しい話に、豪たちの顔にはじわじわと、安堵の笑顔が広がる。
「君の場合はまだ子供で、置かれた状況とそれまでの境遇に、情状酌量の余地がある。証拠もあるし、ガーフィンケル社の関係者もあらかた捕まった。事実関係が明らかになれば、無罪放免も十分にありうる」
「じゃあ、じゃあさ!これからはずっと、一緒にいられるんだな!?」
 肩をすくめたハースのセリフが終わるのを待って、豪が勢いよく身を乗り出した。
「すべてが片付いたなら、そうなるだろう。私はそのために、尽力することを確約する」
 静かな肯定の言葉に、沈みきっていた空気は一気に舞い上がった。わっと歓声を上げ、わがことのように喜ぶ子供たちと、あからさまな安堵を浮かべて、深い笑みを刻む土屋。体中から力が抜けてしまい、ソファーに沈み込みながら泣き笑いのような表情を浮かべ、天井を仰いでいるJ。そして当事者であるロルは、反応を示せずに硬直している。
 自分が傍にある未来に、なぜ彼らは快哉を叫ぶ。
 一体どれほどの罪を犯し、どれほどの闇を引きずっているかも知れない。
 思いを馳せればひたすらに心が塞がれるというのに、罰さえ与えられないと言われてしまえば、どうすればいいのか。
 答えの導けない自問に、ロルは改めて、己の業の深さと意味を思う。
「君の背負う罪は重い。ただ、置かれていた環境を鑑みることができないほど、世界は非情ではない」
「建て前だ」
 緩やかに降ってきた声に、ロルは視線を巡らせ、喉に絡む声を絞り出した。
「君は、もっとも責められるべき人々を、命を賭けて暴き出した」
 冷然と反論しようとする言葉を遮り、ハースは続ける。その行動に、世界は少年の贖罪の意思を認めるだろう、と。
「帰ろう」
 視線を落とし、むっつりと黙り込んでしまったロルの目を覗き込んで、黙って話を聞いていた土屋が乞うた。
「すべてが終わったら、君を待つ人の許に帰っておいで。そして、君が帰ってくることをいつまでだって待っている人の中に、私がいることを、忘れないでくれ」
 息を呑み、怯えたように肩をすくめて、少年は反射的な動作で穏やかな土屋の目の奥を見つめ返した。甘い言葉に隠された思惑はないか、やさしさに誤魔化された残忍さはないか。生き抜くための必須項目であった猜疑心をもって対峙しても、その奥底に隠されているはずのものが見当たらない。偽りのない言葉がいよいよ信憑性を増す。
 馴染みのない違和感に、ロルは足元からぞろりと背筋を這い上がる恐怖を覚える。

 ずっと、闇の中で生きてきた。
 頼るものはなく、信じるものもなく。縋るのは遠い昔の記憶だけ。
 誰も呼んでくれないから、ともすれば忘却の彼方へと運ばれそうになる己の名を祈りの言葉に、たった一人の家族を神の代わりに。遠い約束を預言の代わりに、息を殺して生きてきた。
 光など、望んでも手に入るはずがあらず、血を浴びるたび、闇はその深さを増す気がしていた。
 希望を思う暇はなく、絶望すらする余地もなく。そしてただ無感動に時間だけが積み重なり、犯した罪を糾弾されて終わるのだと思っていた。
「もう、大丈夫だよ」
 力強く宣言し、不意に頭部を包み込んできたぬくもりの主に、ロルは八つ当たりと知りながら、殺気にも似た怒りを覚える。時間をかけてようやく、すべてを諦めて、投げ出すことを心に覚えこませたのに。やさしく無責任な夢を見た後ほど、目覚めが辛く、悲しいものだというのに。
「大丈夫、終わったんだ。――辛かったよね」
 耳に届いたたった一言に、築き上げてきたすべてが瓦解していく。
 堰き止め、体中に澱んで溜まりこんでいた思いが、一気に溢れ出していく。
 知らず喉が鳴り、抱き寄せてくる腕の隙間から見える部屋の光景が、滲んで揺らいでいた。カタカタと体は勝手に震えてしまい、なにもかもが制御できなくなる。どうすればいいのかわからず、どうしようもなく。ただ戸惑いに表情を歪めれば、回された腕が力を増す。
 帰っておいでと、別の声が告げた。
 いくつもの声が優しく折り重なって、ロルの上へと降り積もる。
 自分たちは友達だから。仲間だから。だから、ずっと待っているから。いつでもいいから。帰ってきて、そしてまた、一緒に過ごそう。
「君が君自身の罪を赦せないなら、ボクが君を赦すよ。だからお願い。もう、いなくならないで。そういう約束だったじゃない」
 いつまでも待っているから、と、頭上から響く震える声に、ロルは泣き笑った。
 そうだ。約束をしたのだ。
 それは再開を願ってのものであり、行き着く先に、悲しい別れなどいらない。互いの笑顔が見える距離で、穏やかな時間を刻むための約束だ。まだ果たされていないのに、反古にするわけにはいかない。
 そっと瞼を伏せ、浮かぶ笑みを感じながら。少年は小さく、それでもはっきりと頷いた。






 ヘリコプターの準備ができたと呼びに来たマードックの先導で、一行は屋上へと出た。
「うわっ、こんなところにこんなもんがあったのかよ」
「なるほどね。ヘリでの行き来がメインって、こういうことだったんだ」
 ドアを開けた瞬間吹き込んできた風は、心なしか湿っている。地面の色といい、少し雨が降ったのかもしれない。ぼんやりと、他愛もないことを考えていたJは、先に外に出た友人たちの声に目を上げ、そこに広がる立派なヘリポートを認める。
 呆れたように呟く豪に同調し、烈もまた、往路での会話を思い返して低く呻いた。
「そういえば、あのときのパイロットのお二人や案内役の人は、グルだったんでげすか?」
「そういうことになるな」
 見送ろうと言ってついてきたハースを振り仰ぎながら藤吉が問えば、静かな肯定が返る。
「既に身柄は拘束しました。どの程度関わっていたかは知りませんが、この件にまつわる人間を、われわれとしても逃がすつもりはありません」
 溜め息交じりのセリフに、マードックが首から上だけを巡らせて続ける。
「期待しているよ。私も君たちも、彼らに煮え湯を呑まされているという点に関しては同胞だ」
 重苦しい呼気に言葉を乗せたハースは、首を緩やかに振って話題の打ち切りの意思を提示すると、おもむろに傍らに立っていたロルを呼んだ。
「君にはここで、彼らと別れてもらわなければならない」
「え?どうしてだよ?」
 言われてみれば、確かに待機しているヘリコプターは二機だ。だが、島に渡る際に一機で十分だったことは記憶に新しい。みんなで一緒に帰るんだろうと、豪が首をかしげてハースを見やる。
「さすがに、今回の一件は重すぎた。万一のことを考えて手元に置いておきたいというのがひとつ。あと、さっそくで悪いが、仕事がいろいろあるというのがもうひとつ」
 重々しい口調で返されて、豪は渋々ながらも文句を引っ込める。言われていることには理解が示せたからだ。もっとも、理性面ではわかっていても、感情が追いつかない。複雑に曇らせた表情でロルを見やれば、淡い苦笑をもって慰める言葉が降ってくる。
「ハースの言うことは正しい。早く終わらせるためにも、時間をあまりおかずに、できることはやってしまう方がいいに決まってる」
「でもさ、せっかく終わって、一緒に帰れると思ったのに」
「まだ、終わりじゃない」
 頬を膨らませてぶつぶつと呟く豪の耳に、厳しさを内包する凛とした声が届く。
「すべての真相が明らかになるまで、なにも終わらない」
 穏やかな瞳の表情の奥には、目にしたものを凍りつかせるような光がある。喉元まで出掛かっていた言葉を思わず呑みこみ、その光に視線を囚われて、豪はまじまじとロルを見返す。
 時間にすればさほどの長さもなかったろう。相手が瞬いたのを合図に、豪は口を開いた。
「おれたち、みんな待ってるから。だから、絶対帰ってこいよ」
 真剣な声音と表情に、ロルは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた後、ゆるりとその相貌を眇めた。
「待ってなんかなくていい」
 悠然と言い放ったその声は、不敵さを孕んで鋭く輝いている。
「先に進めばいい。必ず、追いつくから」
 視線を巡らせた先に待っていたのは、やさしい笑顔たち。困ったように眉根を寄せながらも笑みを崩さないまま、己に向けて据えられた視線に、Jは小首を傾げる。
「約束だよ?」
「もちろん」
 破ることの許されない約束が、きっと揺るぎない支えになることを知っているから。
 鏡に映したような顔を互いに見合わせて、そして彼らは笑い合う。

 目的地までの距離を理由に、先に移動するようにと促されたロルは、ハースと共に動いていたうちの一人の男に付き添われ、待機しているヘリへと向かう。だが、彼は一歩を踏み出したところで、くるりと踵を返した。
「ごめん」
 月は天頂にかかり、だいぶ遅い時刻であることを示している。闇はいよいよ深くなり、海からも森からも、生き物の気配は感じられない。ただ、変わらず吹き続ける風に髪を遊ばれながら、ロルは小首をかしげて眉根を寄せる。
「なにも説明しないまま巻き込んで、危ない目にあわせて、怖い思いをさせた」
 悲痛さを滲ませながらも、どこまでも穏やかに。少年の細くて高めの声は、ゆっくりと続ける。
「君たちのやさしさに甘えるばかりで、いろいろなことを黙っていて、騙していた。本当に、ごめんなさい」
 ぐっと噛み締められた唇は色を失い、握り締められたこぶしは小刻みに揺れる。宙に投げ出された言葉が風にさらわれるのを待たずに、ロルは強張っていた表情を、なんとか穏やかなものへ変えようと、唇を歪める。
「それと、ありがとう。一緒に遊んでくれて、友達だって言ってくれて」
 かろうじて笑顔を浮かべるその顔は、漂う寂寥感に彩られ、青白い月明かりの元、いっそう悲しげに冴え渡っていた。
「オレの所業を聞いても、怖がらないでいてくれてありがとう」
 弓なりに細められた瞳は、やわらかな光を弾く。
「オレの一番大切な人の、大切な存在でいてくれて、ありがとう」
 恐らく、その言葉を発した瞬間にみせた笑みは、出会ってから垣間見たあらゆる表情の中で、最も美しいもの。無理もなく、齟齬もなく。ただ自然と内側から湧き出るに従ったのだろう華やかな笑顔に、目を奪われた面々は言葉を見失う。
「さようなら」
 声と同時にかしげていた首を元の位置に戻し、ロルは返事も待たずに足の向きを変えた。そして、黙って隣で待っていてくれた男に小さく礼を述べ、歩き出す。
 そんなに長くもない距離を行く細い背中が、やけにゆっくりと進んでいるように見えた。正しい時間感覚が抜け落ち、暗闇と月明かりとに、幻想を見ているのではないかとの錯覚が脳裏を駆け抜ける。
 あまりに非日常的で、慣れない感覚だった。
 それゆえかもしれない。次の瞬間、なぜか険しい表情で踵を返し、駆け寄ってきたロルに抱きすくめられる形で倒れこんだという事実を認識するのに、Jは必要以上の時間を要した。
 覆いかぶさるようにしていたロルが機敏な動作で身を翻し、動くなとだけ言い置いてそのまま駆け出していく。ようやく鼓膜に届いたのは銃声だった。慌てて無謀な行動を引き止める声をあげて首を巡らせるが、もう遅い。
 そして目に映った、信じられない、信じたくもない光景。
 続くあまりに残酷な結末を示唆する状況に対し、Jは、即座の反応を返すことができなかった。


 静寂が支配する小島を舞台にしていればこそ、遠くで起きたことも、木霊する音からなんとなく推察することができる。
 鼓膜を打った微かな銃声に、森の中、木の根元に腰を下ろしていた男は、うっすらと笑みを刻む。そして続けざまに、おぼつかない旋律を低く紡ぎはじめた。
 フレーズの区切りがついたところで男は腰を上げ、ゆっくりと歩き出す。目指すは、自分以外の誰もが知らないだろう、島の裏手にある洞窟。そこには、万が一のときのため、小型のモーターボートが駐留してある。
「だから言っただろう」
 感情に流されてはいけない。情にほだされてはいけない。己以外はすべて敵と思い、決してとどめを刺すことを忘れるな、と。
 もう一度、ゆっくりと一音一音を確かめるように旋律をなぞり、男は哂いながら足を進める。自らの境遇を重ね見て決心が鈍ったか、それとも周囲の甘さに染められて感覚が麻痺したか。真相はすべてあの少年の中にあり、男の知ったところではない。
 気絶させるだけにとどめたのは少年のやさしさで、手足の骨を折るなり縛るなりして動きを奪わなかったのは少年の過ちだった。
 目を覚ましさえすれば、あれらは完璧な人形。与えられた指示に忠実に動くだけであり、男には気絶している相手を叩き起こす方法も、あれらに指示を与える術もわかりきっていた。だから少し、油断しきっているだろう少年に最後の余興をプレゼントするため、転がっていた人形たちを元に戻してあげたのだ。
 どうなっているかをこの目で見られないのだけが、少し悔しくて、憂鬱だった。

 小さな島だ。夜が明けるまでには十分、目的地に着くことができるだろうし、上空でばたばたと騒ぐ航空機たちが一段落したところを狙って、逃げおおせればいい。すべての目を欺いて安全圏まで逃げ切ることなど、造作もない。
 こういうとき、下手な権力や地位は邪魔になるだけだ。身軽な立場を貫き通してきた己の先見の明に、男は少しだけ酔ってみる。
 本土の上層部の人間は、この事態に気づいているのだろうか。気づいているのならそれなりに、また気づいていなくても、それはそれで楽しい気がした。慢心に囚われ、身動きの取れなくなっている人間たちの、末路のわかりきった悪あがきは、傍で観察すればどれほど愉快だっただろうか。
 そして同時に、男は少年を思う。
 その身は悲劇の立役者にして惨劇と狂気の代名詞。与えられた名は、新たに擁立された仮政権と、治安維持のため駐留している多国籍軍とが血眼になって探し続けている、第一級の危険度を誇る大罪人を示す符号。残された屍の山と、そこに響く鎮魂歌を揶揄する蔑称。
 大量殺戮を行なっていた張本人で、誰もが化け物と呼び、近づくものは一人もおらず。
 向けられる視線は、畏怖と軽蔑。差し伸べられる手には武器があり、かけられる声は例外なく呪詛を吐く。
 風と共に広まった名とそれにまつわる逸話には、真実はいくらも含まれていない。一体どれだけの人間が知っているのだろう。少年が鎮魂歌を歌うことの意味と、手を血に染めるほどの悲壮な思いを。
 もっとも、知っていたところで、それを利用する自分に言えたことではないだろうと、男は暗い笑みをいっそう深めた。
 大切な約束を、大切な存在を。守るために護るために、血を浴びては魂鎮めの歌を歌う。実際の現場を目の当たりにしていないなら、いくらでも綺麗事は言える。ただし、現実に君が血を浴びて、他者の命を冷酷に奪う場面に直面したら、彼はどう思うだろう。
 梢の向こうに見えた月には、薄く白い、虹が架かっていた。
 舞台は完璧だ。少年の求めていたすべてが一堂に介す夜など、ありえないことだと思っていたのに。
 最後ぐらい、選択肢をあげよう。君には血の雨こそが似合う。
 彼を守りたいなら、彼の前で血の雨を浴びればいい。どうしても己の狂態を見せたくないなら、彼の血の雨を浴びればいい。
 与えられた時間の終焉に、哀しい鎮魂歌を、誰のために歌うのか。
 その選択権をも奪うほど、自分は無情ではないのだ。
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