■ 第三章 --- 選択になかったはずの道
 万が一の事態など考えたくはなかったが、驕りこそが身を滅ぼすことを知らないわけではない。
 足音を殺して歩くのは、意識をする以前にもはや癖になってしまっていた。もっとも、柔らかな絨毯の上を移動する分にはまるで必要のないこと。小走りに廊下を進みながらふと気づいたことに、ロルは嘲るような笑みを刻む。本当はなにか、適当な火器でも見つけられればなお嬉しかったのだが、この際わがままは言わず、立ち寄ったキッチンで発見したナイフを数本、拝借する。
 いまだ眠ろうとせず、それぞれに玄関と裏口とを交代で見張っているらしい二人の護衛役たちの実力を高く評価すればこそ、正面突破などという非現実的な手段を、ロルは候補には入れない。使っていた部屋に隣接する書斎の窓から外に出て、脱出完了だ。頭の中で動きをシミュレートしながら足を進めていたロルは、素早く目的の部屋まで戻ると、窓を大きく開け放った。
 瞬間、風が吹き込んでくる。
 潮の香りをいっぱいに含んだ、冷たくて心地よい風だ。
 カーテンを揺らし、背中にはらった長い髪をかき乱すそれに薄く瞳を眇めると、ロルは窓枠に足をかける。
「さようなら」
 ほんのわずかに背中を振り返り、少年は小さく口を動かした。
 告げる言葉がどうか、この場限りの嘘となるように。
 誰にともなく祈りを呟き、その小さな体は、宙へと舞った。

 月明かりが照らす海と砂浜は、昼の太陽のもとで見たものとはだいぶ様相が違う。明るくて眩しくて、心の沸き立つようだった場所が、いまや静謐で、どこか神々しさすら感じられるほどの不可思議な色合いに染まっていた。
 木々の合間から見える青白い砂浜を横目に、少年は暗い森の中を、足場の悪さも気にせずにひた走る。水分をたっぷりと含んだ地面はやわらかく、踏み込んだ足を包み込んで、音をはじめとしたすべての痕跡を呑み込んでいく。自身の胸郭から鼓動すら聞こえてきそうな、静まり返った空間に囚われそうな錯覚を覚えて。ロルは前を見据えていた視線をわずかに伏せた。
 自分に、予知能力だの透視能力だのがあるとは思わない。ただ、勘が鋭いという自覚はあった。
 そのおかげで切り抜けた修羅場は少なくなく、そのおかげで知りえた、気づきたくもなかった深い闇もある。こと嫌な予感というものは、これでもかというほど的確に当たるのだ。
 小さくも重い息を吐き出すと、ロルは進路を変更し、砂浜へと飛び降りた。そのまま二、三歩進んだところでぴたりと足を止め、背筋を伸ばして周囲の気配を探る。
 ロッジを出てからずっと感じていた微かな気配は、気のせいではなかったらしい。わずかな逡巡を見せはしたが、覚悟を決めたのか、その気配の主もまた、砂浜に姿を現す。さくり、と、砂の小さな粒子が踏みしめられる音が静寂を破り、陸から海へと向かって吹く風が、小さな声を運んできた。
「なにをしてるの?」
 一番聞きたくて、そして、聞きたくなかった声だと。ロルは感情の整理のつかない自分をそのままに、ゆっくりと背後を振り返る。
 薄く雲の走る天から差す月明かりに染められてそこに立っていたのは、沈鬱な表情を浮かべるJだった。
 なぜこんなところに彼が立っているのだろう。先ほど、部屋を抜け出したときには確かに彼は眠っていて、目を覚ます様子などなかった。物音も、気配の揺らぎも立てないように気を配ったし、すべては完璧なはずだったのに。
 姿を目にしてもなお、現実を認めたがらない己の内心に驚愕と後悔を覚えながらも、表面はあくまでとぼけたように。ロルは小首を傾げてみせた。
「起こしちゃった?そっと出てきたつもりだったんだけど」
「たまたま目が覚めて、外を見たら、君が見えたから」
 それでついてきたのだと簡単に種明かしをして。Jはもう一度、同じ問いを繰り返した。
「散歩でもしようかと思ってさ」
 相手の聡明さを知っていればこそ募る不安を表面に出さないようにするには、思った以上の労力を要した。それでも、眠れないのだと何気ない調子を装って答え、極力穏やかな表情を浮かべるよう努めながら、ロルは願う。
 どうかなにも言わずに立ち去ってくれ。自分を行かせてくれ。
 せめぎあうロルの思いを知ってか知らずか、沈黙をもって相対するJは、表情を動かさない。ほんのわずかに寄せられた眉に、すべてを見透かすかのように眇められた瞳に。そこかしこに漂う悲痛さを見てとり、ロルは褪めた声が脳裏に響くのを聞く。きっと彼は、黙って自分を見逃してくれはしないだろうと。
「なにをしに行くの?」
「だから、ちょっと散歩――」
「なにをしようとしているの?」
 ゆっくりと息を吸い込み告げられた問いに、ひょいと肩をすくめてみせれば、相手の表情は歪みを増した。
 ロルの言葉を遮って、Jは口を開く。
 抑え気味であればこそ、声に込められた思いの強さは際立ち、表情が削ぎ落とされるがゆえに、瞳の奥にある意志の強さがひしひしと伝わってくる。
 顔色が芳しくないのは、照らす明かりが青白いからだけではないだろう。
 絶え間なく響いているはずの潮騒さえ、いまは耳に入らない。それなのに、この奇妙に静まり返った空間では、彼の握り締めたこぶしが小刻みに震えるさますら、音となって鼓膜を打つ気がする。
 なんと答えたものだろうかと。ロルは打開策を見つけられない現状とは恐ろしく場違いなほど、冷静に思考を巡らす。
 相手の手の内が読めない以上、迂闊な発言はできない。情報が漏洩すればするだけ、自分が不利になるだけ。かといって、下手な言い訳は通用しない。なにも知らないでいて欲しいが、ほんのわずかにでもなんらかの情報を得ている場合、見え透いた言い訳は疑惑をより強めてしまうだけで、逆効果だろう。
 現実味のある、それでいて決して真実を悟らせない理想的な言葉はないのか。
 不思議な焦燥に彩られた、張り詰めた空気。いままで踏んできた修羅場では味わうことの決してなかった心の動きに、ロルは自分が躊躇っていることを知る。
 出すべき答えは、誤魔化すための言葉の探索ではなく、とても簡単なこと。
 最良の手段はただひとつ。行く手を塞ぐ障害は、撃破して通り過ぎればいいのだ。
 なにも、とどめを刺すことはない。いまこのときだけ、静かにしていてもらえればいい。
 二人の距離はたったの数歩で、相手はまったくの素人。
 右足で地面を蹴って、左足で間合いに飛び込む。さらにそこから背面に回り、首筋の裏を手刀で一撃。これだけでいい。気絶させるだけなら、痕も残さず、それこそ一瞬で実行できる。それだけの実力と実績を、自分は培ってきている。あとはロッジに戻り、ベッドまで運んでおけばいい。きっと彼は朝まで目を覚まさなくて、すべてはそれで、滞りなく前へ進む。
 そこまでしっかりわかっているのに、足が動かない。体中の関節が強張ってしまい、思考を行動に移せないのだ。
「教えてくれないの?君は、なにを隠しているの?」
 なにもかもが異常な感覚の中で、視覚と聴覚だけが正常に機能しているらしい。きゅっと眉根を寄せ、Jは深く息を吸い込んだ。単調さはそのままなのに、どこか詰問する色味の強かったそれまでの声とはまた違う、温度のない音が絞り出される。
「答えて。“血濡れのローレライ”」
 硬く無機質に響くくせに、小刻みに震える。泣いているのではないかと心配になるぐらい、それは、悲愴な声だった。


 最悪だと、凍りついて動かない表情の下で、ロルは知らず、ため息をこぼす。邂逅が叶ったあの瞬間から、彼が時おり覗かせていた暗い表情は、そんな単語に端を発していたのか。
「どこで聞いたかは知らないけど、オレがそれだと思っているのか?」
 まったくもって心外だと、あからさまに不快な表情を添えて返しても、Jは怯まない。答えの代わりとばかりに向けられる揺るぎない視線は、嘘であってほしいと訴えながら、事実なのだろうと責め立てる。波ひとつ立てない静けさを湛えているくせに、問い質すその声と、表情と同様に、苦しそうに歪められている。矛盾だらけの瞳の色に、ロルはJの内心を量る。悩んで迷って、そして彼は、賭けに出ているのだろう。
 ただし、と、ロルは思考の渦から浮いてきたひとつの疑問を、素直に口にする。
「その質問の意図は、どこにある?」
 自分を試すための問いなのか、信じるための問いなのか。
 見極めることのできない一線を、ここで引こうとロルは思う。答えいかんによって、いまだ燻る躊躇いを断ち切れる己を知っている。きっと彼の声が鼓膜に届いた瞬間、自分は駆け出して彼の意識を奪い、そしてすべてが元に戻るのだ。
「君の、力になりたいんだ」
「答えになっていない。お前はなにを思って、オレにその疑惑をかける?」
 誰に疑われようとも、彼にだけは信じてほしかった。けれどもいまは、是が非でも裏切ってほしい。
 相反する欲望を捻じ伏せ、ロルはただ静かに、戸惑いを含んで揺れるJの瞳を見据える。裏切って、自分の信頼を蹂躙して、その身が闇に絡めとられる前に立ち去ってくれ。自分がもはや、彼に対して未練や執着など残さなくてすむように。醒めた目ですべてを睥睨して、躊躇いなくすべてを薙ぎ払って進めるように。
「オレがそれだと、お前は信じているのか?」
 冷ややかな声音を意識して更に問えば、Jはひとつ瞬きをしてから息を吸い込んだ。
「君をようやく見つけられたのは、あの写真だった」
 震え、掠れる声はしかし、滑らかにその唇を割る。
「それまでだって、君があれからどうしているのか、できる限り調べた。ボクと同じように、誰かに引き取られたものだと思ってた。もう一度会いたかったんだ。だから、必死になって探した」
 だけど結局、生死すら知ることは適わなかった。
 なにごとかを返そうとしたらしいロルに口を開くことは許さず、Jは胸の中に溜まっていた思いを立て続けに吐き出していく。
「あの写真だけで疑いを持てる人はいないと思う。でも、ボクは違う。君があの場に立っているというそのこと自体がおかしいことなんだ。それを知っている」
 きっかけは、あまりにも有名な一枚の写真。それまでJがどれほど手を尽くそうとも見つからなかった相手は、あまりにあっさりその姿を世に晒した。ありえない場所に立っていた。
「そこに黒い噂を総合すれば、仮説は簡単に立てられる」
 言葉を出し切り、大きく息をつきながら。Jはずっと無表情を貫いているロルを見据える。
「君は、否定しなかった」
 隔てていた時間の分、二人の間には距離があった。それまで積み重ねてきた時間や、過ごしてきた環境の違いにもよるのだろう。とにかく、二人が同一であるとすら錯覚できた時間は、遠く過去に過ぎ去ってしまった。それでも、些細な点に不変の部分を見出すことができるのだと、Jは意外さと切なさのないまぜになった、不可思議な喜びを感じる。
 違うと言ってほしかった。
 あの国で生き抜いてきたのなら、聞いたことがあるどころではないだろうその名前で呼ぶことを、嫌悪感をもって否定してほしかった。なのに彼は、はぐらかすにとどまった。
 誰かに嘘をつくときはいつも、演技過剰になる。
 それは昔も今も変わらない、彼を構成する要素のひとつ。その不器用な実直さが記憶のままであることをくすぐったく思いながら、Jはロルの答えを待つ。






 どれほどの時間が流れただろう。揺らぎを見せていたJの表情はいつの間にか凪ぎ、胸の内を読み取らせない。
「よくわかった。オレが甘かった」
 自分も同じような無表情を浮かべているのだろうかと、ぼんやりそんなことを考えながら、ロルはゆっくり、渇ききった口を開いた。声はのどに絡まり、うまく出てこない。そのくせ、やけに冷ややかで抑揚に欠けたものだった。
 見通しが甘かった。彼は、自分の追いかける闇からずっと遠いところにいると思っていた。それなのに、現実は真逆。踏み込んでほしくなかった領域に、彼は手を伸ばしてしまっている。
 とどまらせなくてはいけない。これ以上、危険な罠に近づかせてはいけない。
「その上で、あえて言う。なにも聞かないで、すべてを忘れて戻るんだ」
「じゃあ、まさか本当に…」
「そこまでいろいろ知っているなら、いまさらそれは愚問だろう?」
 どう足掻いても動こうとしない四肢に、ロルはもはや強硬手段に訴えることは諦めた。
 自分から率先してあの通り名を口にする気にはなれなかったが、事実を捻じ曲げて否定する気にもならない。ゆるりと遠まわしに肯定の意を返し、 戸惑うように震える声で問いかけるJに、唇の端を薄く持ち上げ、ロルは儚くも凄絶な微笑みを向ける。
 先ほどよりも目に見えて血の気の薄れたJに、申し訳なさとどことない嬉しさを覚える。そうだ。彼はこうやって、他人の痛みを我がことのように気遣い、そして心を痛めてくれる人だった。勝手だと知っていても、心を寄せてもらえることへの喜びは、なににも換えられない。
「手荒なことは、したくない」
 傷つけたくなどない。ようやく出会えたのだ。どれだけ記憶が薄れようとも、その存在感だけは決して褪せることのなかった相手。自分の存在意義のすべてですらあったから。だから、彼に手などあげたくない。
 不思議なほど穏やかな内面に、ロルは少しだけ表情を歪める。
 もしかしたら、この展開を望んでいたのかもしれない。
 巻き込みたくないと願う一方で、知っていてほしいと、わかってほしいと思っていたのかもしれない。彼だけはきっと、わかってくれると思っていたのかもしれない。ようやく得られた、誰にもできなかった話の出来る存在に、張り詰めていた糸が緩む。そして同時に、自分の身勝手さに嫌気がさす。眇めた瞳の奥に見え隠れするのは、きっと自嘲の色。
 静かに、いっそ宥めるような口調でロルの紡いだ言葉に、Jは表情を引き締めて口を開く。
「ボクはまだ、答えを貰っていない。どこに行こうとしているの?なにをする気なの?」
「大丈夫、朝までには戻るし、これ以上の迷惑はかけない。約束する」
 落とし前をつけなくてはならない。それにあたって、彼と自分との境界線を見誤ってはいけない。
 この先に足を踏み入れるのは自分だけ。胸の内をわずかにでも吐き出させてくれただけで、Jには感謝して、そして退場してもらわなくてはならない。
 いつの間にか強張っていた肩からそっと力を抜きながら、ロルはできるだけ自然な笑顔を浮かべようと努力する。
「だから、いまはおとなしく部屋に戻ってくれ。なにも見なかった振りをしてくれ」
 もう充分だ。口をつくのは思いのほか穏やかな声で、ロルはそっと、安堵の吐息をこぼす。
 戻ってこられるかなどわからない。迷惑をかけずにすむかも自信がない。だから、せめて少しでもいい顔を見せておきたい。すべてが終わった後、憎しみと共にでもかまわない。ほんのわずかにでも、どうか、思い返してもらえるように。


 虚をつかれたように、ロルのあまりに鮮やかな微笑みに目を奪われていたJは、数瞬の後、慌てて口を開く。触れれば崩れ落ちてしまいそうな風情を伴う笑みの意味を、Jは悟っている。
 ロルは、なにかを諦めていた。
 諦めて、覚悟を決めて。そしてどこか、Jがいくら手を伸ばしても届かない場所へ行こうとしている。
 得体の知れない不安と焦燥に駆られて、かけるべき言葉も見つけられないまま、引き止めるための理由を探す。
「見逃せるわけなんかない。だって、もう知っちゃったんだ」
 知らない振りなどできない。なにもわからないままに通り過ぎるには、あまりに多くを知りすぎてしまった。
 いまこの瞬間を逃してはいけない。直感にも似た確信に従って唇を震わせるJを痛ましげな表情で見やっていたロルは、しかし、唐突に表情を強張らせ、首を巡らせた。ただならない様子にJが問いを発そうとすれば、素早く伸ばした手でその口元を覆い、黙るようにと目で促す。
 思わぬ気迫にたじろぎ、突きつけられた手の下、息を詰めてJもまた同じように気配を探る。だが、特に変わった様子はない。対峙する相手の向こう、月を映して光る海からは潮騒が響き、さわさわと、木々の梢が風に揺れる音が聞こえるだけだ。それでもロルはただ、鋭い表情でじっと耳をそばだてている。
 と、舌打ちをひとつ漏らし、ロルは視線を巡らせ、木立の合間を伺う。
「どうしたの?なにかあったの?」
「誰か来る」
 見える範囲で同じ方向を確認したJには、なんら異常は感じられない。思わず声をひそめながら問えば、嫌な感じだとひとり呟き、ロルは改めてJに向き直った。
「逃げろ」
「え?」
「いまならきっとまだ間に合う。急いでロッジに戻って、中でじっとしてるんだ」
「なにを言ってるの?間に合うって、なにが?どういうこと?」
 混乱しながらも状況把握に努めようとするJの腕を取り、なかば強引に引きずりながら、ロルはロッジの方へと向かう。
「ここは危ない。見つかる前に、逃げるんだ」
 隻腕といえど、ロルはJよりもよほど力がある。自分よりずっと細く、骨ばった指先が腕に食い込むことに抗議することも忘れ、Jはただ、わけのわからない忠告に問いを重ねることしかできない。
「どういうことなの?わからないよ」
 抵抗もむなしく、あっという間に方向を転換させられ、戻れと無言の圧力をかけられながら、Jは必死に抗ってみせる。
「ここにいたら殺される。時間がない。いいから、逃げるんだ」
 早口にそれだけ告げた次の瞬間。静寂が支配していたはずの空間に、場違いなほどにぎやかな足音が響き渡った。ぎょっとして音源を振り向いたJは、慌てて木立の中から駆け出してくる、ベッドの中にいるはずの仲間たちとロルの護衛役との姿に目を見開く。彼らの背を追うようにして、何かが風を切る音が宙を走る。
 眉間にくっきりとしわを寄せたロルは、さして驚いた様子もなく彼らを見ていたが、すぐさまJの腕を取って走り出した。急いでロッジに戻るように叫びながら移動する相手に慌てて並んだJは、鼓膜を打った言葉に視線を巡らせる。
「オレが、甘かった」
 目をやった先にあった少年の鋭い表情は知らないもので、Jは思わず息を詰める。それにはまったく意識を向ける素振りもなく、ロルは低く、絶望の滲む声を落とした。

 都合の悪い人間は消せばいい。もっとも確実な口封じの方法は、対象からすべてを奪うこと。光を、音を、記憶を。そして、命を。
 なぜこんなにも初歩的な手段を忘れていたのだろうか。
 焦りと共に噴き出した自己嫌悪は、額に、背筋に、嫌な汗を流す。
 ここは洋上の監獄。逃げ場はなく、地の利もない。どんな窮地に立たされても醒め切ったまま、決して揺り動かされることのなかった恐怖心が、いまさらのように体中で暴れている。迫ってくる気配は複数。正確な数はわからないが、殺気はおろか、敵意もなにもない、不自然なまでに凪いだ空気の持ち主を、ロルは恐らく知っている。
 巻き込んでしまう。その予感に、ロルは恐怖した。
 世界規模での知名度を誇るから大丈夫だなどと、どうしてそんなに生ぬるい前提に立ってしまったのだろう。彼らの命を摘み取ることに、あの人たちはきっと微塵の躊躇いもない。真実の隠蔽も大義名分の捏造も、きっとお手のもの。あまつさえ、自分のみならずこの場に居合わせるすべての人間を亡き者にしてしまえば、誰もその言い訳に異議や疑問を呈するものなどいないだろう。
 目撃者は誰も、いなくなるのだから。
「ねえ、どうしたの?殺されるって、どういうこと?」
 距離ができたためか攻撃は一旦やんだものの、じりじりと包囲網を狭めてくる気配に、眉間の皺を刻んでいたロルは、そっと束縛されている腕を引くことで注意を引くJに、意識を流す。手を取られるままに走りながらも、すぐ前を行く友人たちと、背中やら横手やらから迫る不穏な気配とにきょろきょろと目をやり、その表情は憂いをはらんで揺らいでいる。
「行け!」
 思考の渦に囚われ、気配を察する感度に鈍りが出ている。なにもかもが、いままでの通りにいかない。焦りと不安にじわじわと侵食される全身を知りながら、ロルは押し殺した声を発し、掴んでいた腕を放した。
 破壊するための力は知っていても、護るための力など知らない。もし目の前で彼を失いでもしたら、きっと自分は気が狂うだろう。
「君もだろう?」
 唐突に解放されたことに驚きを示しながらも、Jは足を止めたロルを振り返り、やはり立ち止まった。それまでの頼りなげだった雰囲気は微塵も感じさせず、きっぱりと告げる言葉は、その他の選択肢を認めようとしない意思を明示している。わずかな逡巡をはさみ、ロルは「すぐに行くから、先に行け」とJを促す。
「そんな見え透いた嘘には誤魔化されないよ。一緒じゃないなら行かない」
 間髪おかずに返された内容に、ロルは言葉を見失って相手の顔を凝視する。先ほどよりも不信感を濃くして木立を睨むJは、ただ無意味に呼吸を繰り返すばかりで、音を発せずにいるロルを見やり、薄く笑んでみせた。
「今度君のことを見失ったら、きっともう会えない気がする。だから、目の届かないところになんか行かない」
「なに、バカなこと」
 ようやく絞り出された声は、小刻みに震えていた。
 口では呆れ果てたと言っているくせに、その声は何かに怯え、脆さを露呈している。彼の本心を隠している見えない鎧が、崩れ落ちていくのをJは知る。
「馬鹿でかまわない。君に関しては、もう過ぎるほど後悔したんだ」
 だから今度は、後悔しない道を選ぶ。
 たとえどれほど残酷な道であっても、彼を見捨てて、その犠牲の上に生きるほどの悔悟は、もういらないから。






 相手からの思いもかけない反応続きのため、思考停止状態に陥っているロルを見つめる視線を、Jはゆっくりと引き剥がす。よくわからないながらも、あまりいい感じのしない空気が、じわじわと四方から距離を狭めてきているのは感じ取れる。
「誰なのかな?ここ、立ち入りが難しい場所だって言ってたけど」
「違う、逆だ」
 立ち入ることは簡単だ。ただ、逃げ出すのが難しいだけで。
 落とされた呟きに対して低く言い切ったロルは、Jに背を向けるようにして立つと、視線を周囲に走らせる。
「人数まではわからないけど、足音の感じからして、子供だな。ある程度の武器持ちってとこだろ」
 うまくロッジまで戻り、立てこもることができればあるいは。たとえわずかなりとも、可能性は増えると思った。だが、もう遅い。低く呟いて腰を落とし、ロルはいつでも飛び出せるようにと、臨戦態勢を整える。
 Jを先に行かせ、追っ手を少しでも減らそうと考えたのに、すべては裏目に出てしまった。後方での動きが気にかかり、やはり足を止めてしまったのだろう残りの面々も、動き出さずに辺りの様子を伺っている。緊張感を全身にみなぎらせたボディーガードの二人が左右を固め、ゆっくりと、彼らはロルたちの方へと下がってきた。
「手持ちの武器は?」
 じりじりと移動してきた相手の動きが止まるのを待って、ロルは短く問いかけた。一瞬目を見合わせたものの、二人のボディーガードのうち、年長とおぼしき男が口を開く。
「小銃が三つずつ」
「弾はもう使ったか?」
「まだ」
 答えに対してそうかと呟き、少年は思考を巡らせる。相手の詳細はわからないが、圧倒的にこちらが不利であることは明白である。それでも、どうにかして凌がなくてはならない。切り抜けなくてはならない。
 焦っては空回る思考に表情を歪め、ロルは唇を噛み締める。


 ひとりでチェスボードに向かい、男はゆっくりと駒を動かしていた。
 考え事をしたいときには、いつでもなにか別の作業を挿むことにしている。
 固執するだけでは新たな視野など拓かれない。知識に限らず、なにごとも偏ればパターン化の一途を辿るだけ。それでは意味がないことを、男は知っている。奇抜さを偏愛するでもなく、保守性に執着するでもなく。中庸を見極めて前へ進むことこそが、最良の方法だと信じて生きてきた。
 黙々と両陣営の戦略を展開させながら、男はなんとなしに回想に耽る。
 そう、あれはもう、十年ほど前になろうか。
 偉大にしてあまりに馬鹿げたこの計画を持ちかけたあの日も、やはり彼はチェスをしていた。

 老年期に差しかかってもう何年も経つ男が、グラスを片手にひとり薄く笑みを浮かべていても、絵になりはしない。見苦しい、とたった一言。容赦なく切って捨てると、男の向かいに座っていたもう一人の初老の男は手を動かした。前衛に出ていたポーンがまたひとつ、彼のナイトに蹴倒される。
「これは失礼した。こうして酒を飲むのも、ずいぶん久しぶりのことだと思ってな。将軍閣下」
「その呼び方は嫌味なのか?」
 いっそ、問い返す声の方がよほど皮肉な響を孕んでいる。とんでもないと笑い含みに返し、男は最後のポーンを前に進めた。
 言葉の表面上だけではない意味を前提に成り立つ会話も、酒を飲む速度も、チェスの戦略も。二人はなにも変わっていない。それが時間の感覚を奪い、遠く古い日に戻ったかのような錯覚を起こさせる。
「では、議員と呼んだ方がいいかな?」
「どちらも変わらんだろう、博士」
「大統領をも手玉に取る君にしては、皮肉があまりに陳腐だぞ」
 もっとも、呼びかけこそ堅苦しく相手を高める形はとるが、言葉遣いに格差はない。あえて相手への呼称を強調しながら繰り広げる会話を楽しみながら、ボードの上では、次々に駒たちが戦線離脱していく。
「先日のあれは、どういうことだ?」
 ふと手を止めて次の手を考えはじめたらしい男は、口調はそのまま、さらりと話題を変えた。代名詞ばかりでぼかされた対象をしばらく思案していた彼は、思い当たる節があったのか、訳知り顔で頷いてから口を開いた。
「わざわざ私になど聞かなくとも、所長や社長から詳しい書類はいっているだろう」
「ひよっこの言うことなど、いちいち真に受けていられるか」
「これはまた、手厳しい」
 それなりの成功を収めている、彼に忠実な子飼いの弟子であり部下である人物も、男にかかればまだまだ青臭いらしい。おどけた声で受け流すも、男は黙ってあごに手を置いたまま、じっとその先の言葉を待っている風情である。
 こういう無駄に貫禄に溢れたさまは、まさに大勢の兵士たちを仕切る将軍のようだと、彼はいつも思う。
 人の使い方を知り尽くし、策を弄すのに長けた男。彼が本来の職ではなくそのやり口と力のありかを揶揄して将軍と呼ばれるのは、実に似合っている。そして、陰で囁かれていただけのはずの呼び名を、皮肉ではなく持てる権力の代名詞たらしめる男の底知れなさを、彼は高く評価していた。
「どうせ、裏から手を回しているんだろう?」
「お見通しというわけか?」
「何十年の付き合いだと思っている」
 互いの手の内など、手に取るようにわかる。
 二人で共に低く笑いあい、腕をほどいた男は後衛の駒を動かした。

 職業柄、彼は大きな賭けもするが、なにごとにおいても非常に慎重な性格をしていた。周到に用意を行い、罠と伏線を張り巡らせた上で、自分ではなくて他人を動かす。政治上の駆け引きも、経済面でのやりとりも。すべてにおいて彼に火の粉がかかることはなく、その手腕は鮮やかだった。
 どう攻めたものかと、先の展開を幾通りも予測し、次の一手を考えながら、博士と呼ばれた彼は口を開く。
「面白そうだと思わないか?」
「またお前の気紛れか」
 呆れた様子でグラスの中身を飲み干し、議員はがっしりとしたその体躯を、深々とソファーに沈める。返された言葉はあえて否定せず、彼は笑みを刻む。
「そう、そして退屈しのぎだ。だが、メリットも大きい。それはわかっているんだろう?」
 控えめに提案した企画書の内容に、上司たる所長があまりいい顔をしなかったのは事実だ。それでも、彼と議員が旧知の仲であることを鑑みれば、それが更に上の社長の手元に届くのが常であり、そこでより大袈裟な企画に書き換えられて議員の耳に入るのは、火を見るより明らかだった。そのコンセプトに、議員が興味を示すということも。
「確かに、現在の方針には伸び悩みがみられる」
 軍で払い下げになったものをはじめ、あらゆる武器を密かに各国に輸出する巨大企業。それが、彼の所属するガーフィンケル社の隠された素顔だった。表向きにも、各国の正規軍に対して火器をはじめ、戦車や戦闘機を販売する母体であり、議員にとっては最大の献金源でもある。
 議員は、いわゆる軍閥の人間だ。かつての大戦での華々しい戦歴や、いくつか前の政権での国務長官を務めた経験は、軍務関係者への絶大な影響力と、彼らからの大きな信頼とに繋がっている。社の設立者にして現重役陣もみな、議員の息のかかった人間ばかりだ。おかげで、黒い噂も大きなうねりにはならず、裏稼業も実にスムーズに進行する。
 蜜月関係というにはあまりにドライであるものの、素知らぬ振りなどはできない。一蓮托生のように見えて、最後の最後には互いを切り離せる、絶妙な距離感。ガーフィンケル社と議員は、それこそ三十年ほど前、社の設立された当初から、細く強く、そして脆い一本の糸で繋がっている。
 真意の見えない淡々とした口調でただ事実を告げ、議員はボードの上を見つめる。
「採算はあるのか?」
「無論」
 声の温度は変えないまま、別の方向から質問を投げかけてきた相手に、男は即答してみせた。
 議員が表舞台での功労者なら、彼は裏舞台での功労者として名を馳せていた。記憶力にも自信があるし、当時の資料も、議員のつてを当たればすぐに取り戻せる。地ならしはある程度終わっている。後は、そこに実践を積むだけだ。
「冷戦時には既に、一定以上の成果は得られていた。あいにく時代が変わったため国からの予算が見込めなくなり、中途に投げ出された分野だ。だが、いや、だからこそ。可能性に満ちている」
「まあ、他の誰に無理でも、お前にならできるだろうがな」
「わかっているなら、悩む必要はないだろう?」
 渋る様子をみせる議員の中で、既にこの件については決定済みであるのは手に取るようにわかる。男は悠然と微笑み、ようやく決めた一手に、ナイトを移動させる。
 二人の関係は、昔から不思議だった。単なる仕事仲間というには密接で、友人というには淡白。だからこそ腹の底までは割らなかったし、他の誰よりも互いが信頼できた。誰がなんと言おうと、二人はお互いの才能について、一番の理解者同士であった。それこそが重要な事実だった。
「私から手を回すことはあるか?」
「古い資料漁りを頼みたい」
 一介の研究者では見ることの適わない資料の中から、この研究と類似した過去の実験データと、使用していた研究所、関わっていた人間のうち、口を割ってくれそうな人間とを。
 チェスボードの上では戦況があっという間に変化し、次々と駒たちが蹴落とされていく。
「わかった。他には?」
「材料はこちらで適当に揃える。あとはしばらく待っていてくれ」
「どのぐらいで成果が上がる?」
「初期研究は過去の事象整理で大方済ませられるだろうから、二年とかからないな。あとは実践だが、これはいかんせん、生身の人間を使うんだ。どうなるかはなんとも言えない」
「リスキーな賭けだ」
「リスクの分、リターンを約束しよう」
 大袈裟に肩をすくめた議員のナイトに蹴落とされたビショップは一顧だにせず、男はその後ろからクイーンを進める。
「そう、バーサーカー計画とでも呼ぼうか」
「質のいい戦士を期待しているよ」
 腕を組んで唸りながらも、議員は男の軽口に応じながら視線を上げ、にやりと微笑んでみせる。
 お手上げだ、と敗北を宣言した議員に、ふと思い出して男は付け足した。
「社長に、ゴー・サインを出すのを忘れないでくれ」
 議員は、男の予想を微塵も裏切らず、豪快に大声で笑ってくれた。






 追憶の海を漂いながら駒を動かしているうち、局面は気づけば、昔と寸分違わぬ状況になっていた。かつて、目の前に座っていた男が舞台を下りた一手を打ちおえ、男はふむと考え込む。
 あれ以来、男が議員とチェスを打つことはなかった。顔を合わせることがあるとすれば、それは研究所か会議室であり、お互い、そんな悠長な時間など過ごしていられなかった。
 そしていまも、彼からの連絡はない。
 最後に電話をしたのは半年前。珍しく彼から電話をかけてきたと思えば、意外な写真を送られ、ひどく驚いたのを覚えている。多忙を極める彼がわざわざ電話を寄越したということも、送られた写真の被写体にも大いに驚いたが、それ以上に。彼があれを覚えていたことに驚いたのだ。
 交わした会話の詳細は覚えていないが、処理に責任を持てということだけは確認された。問題ないだろうからしばらく放っておくと返して、呆れたようにため息を疲れたのは確かだが、他になにか、特に反応はあっただろうか。
 しばらく考え、男は小さく合点の声を上げる。
 心配されたのだ。彼自身のことではなく、男の身を。
 それも社会的な保身ではなく、純粋に、あれに命を狙われたりはしないかと案じられ、更なる驚きを得たのだ。
 あれから最も恨まれるだろう立場にあることは知っていたが、男は、それがとてつもなく可能性の低い懸念であることも知っていた。あれは、そんな非効率的なことはしない。
 諦めることを悟りながらも抗うことを忘れず、狂気に身を染めながら正気を保つ。
 あれは己の内にあるなにかに縋り、それを護ろうとして、それ以外のすべてを犠牲にすることを選んだ。自我など手放してしまえば、よほど楽になれるのにと、男も問うたことがある。ただあれは、それを良しとせず、指示されるままに血を浴び、咎められても歌を歌っていた。だからきっと、あれには怨恨の象徴である男に牙を剥くよりも、優先させることがある。
 表面上では相手の気遣いに謝意を示し、それから起こるだろう事態が愉快であることを期待して、頬の筋肉を弛緩させたことまで鮮やかに思い出すことができた。思考は表情筋に作用し、のどから低い笑声が零れ落ちるのを止められない。体中に溢れる愉悦はそのまま、男はあごに当てていた手を離し、自陣とは反対、黒のキングを動かす。
「チェック」
 小さく呟き、男はボードの横で置き去りにされていたグラスを手に取った。あの日の彼も、こうしてわずか一マス駒を動かすだけで、自分を破ることができていたのに。
 ゲームも現実も同じ。ほんのわずかな意思決定の差異が、すべての明暗を分ける。
 目を上げた先、棚の上に置かれた古めかしい時計が、案外長い時間、チェスボードに向かっていたことを教えてくれる。
 棚の横にある台に載せられたモニターが映し出すのは、なんの動きもないつまらない映像のみ。所長からも社長からも、そして議員からも。誰からも連絡は入らない。それはすなわち、すべてが男の描いたシナリオ通り、滞りなく進んでいるということ。
「あと、一時間といったところか」
 思惑通りの現実に満足する一方、幕引きの合図が入らず、予想外のハプニングが起こることを心のどこかで期待しながら、男はグラスを傾ける。


 考える時間がほしいから待ってくれと言われ、待つようならばそれは敵ではない。それは、なににおいても共通して言えることであり、彼らの置かれたこの場においても通用することだった。
 岩場に身を寄せて伏せろ、と。複数の声に怒鳴られ、また同時に体を強引に砂地に押し付けられ、豪は口に入ってしまった砂を必死に吐き出しながら、文句のひとつでも言おうと首を持ち上げた。
「銃、一丁寄越せ!」
 だが、その頭を容赦なく再び地面に押し付ける手があり、頭上からは物騒な言葉といくつもの爆発音が響いてくる。ようやく視界を得るものの、そこに降ってきたのは、映画やらで見慣れた空薬莢。小さく響いた呻き声の主を見やれば、頬に一筋の切り傷のようなものが走り、そこから血が滲んでいる。
 もはや一刻の猶予も許されない。かといって、ここで応戦しきることは不可能。躊躇う暇もなく、ロルは一か八かの判断を下す。
「昼間行った洞窟、あそこに逃げ込め!」
 ロッジに戻る方向からは攻めの手があるが、反対側からはなにもない。逃れるのなら、手の薄いところを一気に突くしかないだろう。
 飛び交う銃弾が風を切る音と、それに対抗して引き続ける引き金が呼び起こす発砲音とにかき消されないよう声を張り上げ、ロルは地面に伏す相手に立ち上がるよう促した。なにを言っているのかと、彼を見上げる瞳はそれぞれ雄弁に疑問を語るが、質疑応答を繰り広げているゆとりはない。
「後ろはオレが喰い止める。だから、立ち止まらずに走るんだ」
 ごく一方的に、脈絡の見えない指示を飛ばしたロルに、だが、意外にも真っ先に協調する様子をみせたのは二人の男たちだった。ちらりと目配せを交し合い、年少の方の男が動くに動けずにいる子供たちに手を貸し、いつでも走り出せるようにと姿勢を変えさせる。
 弾を打ち切り、銃を足元に投げ捨てて、袖口から先ほど拝借してきたナイフを取り出すと、ロルは慣れた様子で相手のいると思われる方向に投げつける。そのまま素早く岩陰にしゃがみこむことで向けられる銃弾をやり過ごした少年は、その頭上で引き金を引く男に新しい弾倉を押し付けられ、思わず彼を振り仰いだ。
「使うといい。そして、君も行くんだ」
 攻撃の第一波が、少し穏やかになりはじめる。それでも緊張は解かず、目で確認することの適わない敵を見据えた視線はそのままに、男は素早く続けた。
「君をここに残しては仕事にならない。われわれは、君を守ることを第一義としている」
 だから後衛は自分たちが預かろうと言い切った男に、もう一人の男も口を開く。
「銃の扱いには手馴れているようですし。前衛は任せます」
 頭上から降ってくる言葉の意味を認め、更に二人の目に嘘がないのを悟ると、ロルは呻きながら眉根を寄せた。
 この二人は、得体の知れない子供を守ることを命じられただけに過ぎない。彼らにとって、ロルの護衛はただの仕事なのであり、無理をする必要も体を張る義理も、どこにもないのだ。なのに二人は、己の命を危険に晒したこの状況でもなお、少年を守ろうと言っている。それが最優先事項だなどとのたまっている。妙に手馴れた銃器の扱いにも、襲いくる正体のわからない敵にもなにも言わず、ただ、全幅の信頼を寄せて逃がそうとしている。

 なにもかもが滅茶苦茶だった。
 自分だけがリスクを負えばすむはずだったのに。仮に誰が巻き込まれても、きっとなにも感じずにいられるはずだったのに。
 なのに、どうしてこうも余計なことばかり考えてしまい、思惑から外れてことが進むのか。
「どうしてオレが、怖がらなきゃいけないんだ」
 知らず唇を割った己の声の震えに、ロルは自嘲の色を深める。
 なにも気づかれず、誰も巻き込まないはずだったのに、どうしてこうも範囲が広がるのか。どうして範囲が広がるごとに、恐怖心が煽られていくのか。
 そっと肩に添えられた小さな手のぬくもりに、感情のせめぎあいはピークに達し、慣れない己の状態に、少年はより混乱を深めていく。
「できれば、殺さないでほしい」
 説明も理屈も当てはまらない感情は強引に振りほどき、ロルは頭をひとつ振って思考を切り換えた。処理の追いつかないものにかまけていられるほど、いまは暇ではないのだ。
「難しくてわがままな注文だってことはわかってる。でも、できる限りでいいから」
「わかった」
 なにかを吹っ切ったように鋭く、そして切実な瞳で見据える子供に、年長の男が真剣な表情で頷けば、善処するから安心していいと、もう一方の男はやわらかく微笑んでみせる。返された言葉にはにかむような笑みを浮かべ、ロルはすっと表情を引き締めると視点を豪たちの方へとずらした。
「森に飛び込んで、一気に進むんだ」
 障害物が増えれば、それだけ着弾のリスクも低くなる。自分は援護に回り、後ろからすぐに追いかけるからと、ロルは豪たちを見回した。無駄口など叩かず黙然と頷き返す彼らに、合図をしたらすぐに走り出すようにと告げると、少年は手の中の小銃に視線を落とし、わずかに瞑目した。
 傍近くで過ごすようになってから一月あまり。ここにきてはじめて見せた弱気な、なにものかに縋るような儚い子供の表情に驚いている男たちを、再び開けられた鮮やかな蒼の瞳が映し出す。
「アーヴィングさんとドゥルーズさんだったっけ」
 呼ばれた男たちは互いに目を見合わせたが、すぐに年長の男、アーヴィングが黙って少年をまじまじと見据え、なにごとかと問い返す。
「絶対、死なないでくれ」
 二人の横顔を瞬きひとつで脳裏に刻み、ロルはひと言、残すべきもうひとつの願いを言葉に乗せた。彼らには通じない言語であることを知りながら、口の中で続けて小さく、耳に馴染んだ祈りを紡ぐ。
 どうか、神と仰がれるものの加護があるように。
 責めを負うべきはこの身のみ。咎を課せられるのは、自分だけで十分なのだから。
 手向けられた意外な言葉に、呆気にとられどうしだったアーヴィングは、すぐさま真面目な表情で力強く首肯した。
「君たちこそ」
「名前を覚えていてもらえたとは、思いませんでしたよ」
「オレ、これでも頭は悪くないんだ。一度知った相手の顔と名前は誰でも、ひとつも忘れてない」
 笑い含みに告げたもう一人の男、ドゥルーズに軽く目を瞠り、ロルは淡々と言葉を返す。それから、感触を確かめるように手中の銃のグリップを握りこみ、ただ酷薄に笑んだ。






 岩陰を出て、アーヴィングとドゥルーズを除く全員が森に駆け込むや、ロルはぽつりとひと言だけ残して進行方向から外れ、暗い木立の中へと身を躍らせた。
「なにがあっても立ち止まるな」
「え?」
「烈くん、行こう」
 思わずその背中を目で追い、足を止めかけた烈を促し、Jはひたと前方を見据え、地面を蹴る。次の瞬間、ロルが消えた辺りから、重いものが地に落ちるような音が聞こえてきた。
「でも、Jくん!」
「大丈夫。彼はそんなに弱くない」
 耳の横を掠める風の音に、異質のものが混じる。背後から、空気を切り裂く勢いでなにかが飛び交う音が、幾重にも重なって追ってくる。
「こっちにもいるのかよ!?」
「急いで走るんだ!」
 追っ手が来ているのかと、あからさまな危険性を嗅ぎ取って豪が視線を音源の方向、後ろに流せば、最後尾を走っているリョウが怒鳴り返す。
「あいつが言っていただろう。前だけ見ているんだ」
 声に後押しされて更に速度を速める彼らの耳に、先ほど砂浜で聞いたのと同じ、断続的な爆発音が届く。もっとも、それらは肉体を抉る鈍い音を響かせることはなく、立ち並ぶ木々の幹にあたり、乾いた音が暗がりに反響する。
「あ、ロルくん!」
「もっと急げ」
 横合いの木陰から合流してきた相手に気づいた烈が視線を上げて表情を緩めるも、ロルはつれない。手にしていたはずの小銃は消え、肩にはどこで誰から奪ってきたのか、代わりとばかりに大きめの火器が担がれている。
 走りながらふと首を巡らせ、横目で木立の向こうを見据え、肩紐を咥えて銃口を引き上げると立ち止まり、ロルはそのまま迷いなく引き金にかける指に力を込めた。音の連撃にあわせて、硝煙の独特のにおいがあたりに漂う。反動に耐えかねたのか、二、三歩たたらを踏むものの、それすらをも助走に、ロルは再び最前列を走る烈たちの隣へとすぐさま戻ってくる。
「最後は短距離とはいえ砂浜だ。遮るものがなにもない。スパートかけるぞ」
「怪我したの?相手は?」
「致命傷は負わせていない。これはかすり傷。気にするほどじゃない。それより、出るぞ!」
 並んで足音もなく走るロルにちらりと目をやり、上着についた染みにJが眉をひそめる。それにはまるで気にした風もなく答え、ロルは更に速度を速め、一行よりも一歩前へと進み出る。
 木々の合間から淡く降り注いでいた月明かりが、一気に強度を増す。世界を青白く染め上げるそれにわずかに瞳を細め、ロルは足を止めるとさっと周囲を見渡した。視界に障害物はなにも映らず、鼓膜を打つのは隣を走る仲間たちの足音。
 自分たちを探しているだろう足音たちは比較的遠い。あれは、二人の護衛役たちに任せてきた分だろう。森の中、駆け抜ける近くにいた相手は正確に片付けられたのだと、少し前までは当たり前だった自分の仕事の出来に、ロルは内心で安堵のため息をこぼした。腕は、衰えていない。
 一緒に走ってきた皆に先に行くよう告げ、少年は目前に迫った岩場を軽やかなステップで飛び越えると、空に銃口を向け、一気に引き絞った。じりじりと後退しながらも、前方の敵に意識を集中させていたらしい二人の男がその音にちらと視線を流し、一気に距離を詰めてくるのが見える。その場から可能な限りの援護を行い、弾が尽きたところでロルは目的の洞窟を入ると、岩肌に背を預け、後ろを伺う。
 使い物にならなくなった武器は捨てたのだろう。多少の傷は負っているものの、丸腰のアーヴィングとドゥルーズが無事に飛び込んできたのを確認し、もう一度砂浜を一瞥すると、ロルはようやく肩を落としながら息をついた。


 明かりになりそうなものが土屋の持っていたライターぐらいしかなかったため、足元に気をつけながら慎重に。一行は洞窟を奥へと進みながら、口々に疑問や質問を音へと変換する。
「で、どうなってんだ?なにがあったんだよ?」
 まず声を上げたのは豪。夜目が利くからと明かりから離れ、後方を歩いていたロルに首から上を巡らせる。
「オレも聞きたい。なんであんな所にいたんだ?」
「だって、お前とJが外に行くのが見えたから」
 それに対して返されたのは、答えではなく問いだった。盗み聞きとは性質の悪い、と嫌味を存分に含ませた声に追い討ちをかけられ、豪は尻込みしながら答える。
 たまたま目にした光景に、なんとなくついていこうと思い立ったら、気づけば全員で外に出ることになっていた。彼らにとってみれば、比較的よくあることである。あっさり与えられた情報に、ほんの少し、頭がくらくらした。
 わだかまっていた疑問が解けたことへの安堵にも似た気持ちと、突いてきていた彼らにもっと早く気づくことのできなかった己を呪うのにも近い気持ち。思いの丈すべてを吐息に込め、ロルは口を噤む。
「こっそりついていったのは、悪かったと思ってるんだ。ごめんね」
 落ちてきた沈黙を破ったのは烈だった。心底すまなそうな声音で謝罪の文句を口にし、それでも、と、口調を厳しいものへと一変させる。
「僕もなにがあったかは聞きたい。事情を教えてほしい」
 説明をしてくれなさそうというよりは、自身もまた状況把握を求めているような雰囲気を如実に撒き散らし、最後尾を歩く二人の男たちはただ口を噤んでいる。彼らを通り過ぎ、足元への注意を怠らないよう気を配りながら、烈も豪と同様に、ロルへと視線を流す。
 烈の隣を歩くのは、心なしか悲壮な表情を浮かべたJ。恐らく彼も、ロルほどではないにしろ事情を正確に理解してはいるのだろうが、どことなく憔悴した様子に聞くのは酷に思われ、烈はあえて焦点を合わせない。
 一向に返答を得られないものの、他に説明を求められそうな相手も思いつかず、烈はどうしたものかと眉間にしわを寄せて考え込む。もっとも、事態の把握が追いつかず、混乱の只中に置かれているのは残る面々においても同じこと。惑いもあらわにただ足を進める彼らの耳に、しばらくしてようやく、やけに静かな声が届いた。
「テロリストの襲撃。丸腰の子供を含め、現場に居合わせた人間は皆殺しにあい、急遽送り込まれたスペシャリストチームにより犯人も全員射殺。真相は闇に葬られるかと思ったが、意外なところから手がかりが得られる」
 淡々と並べ立てられるその単語群のあまりに物騒な響きに、烈たちは思わず足を止めて首を巡らせ、声の主を凝視する。
「襲撃の目的は弔い合戦。標的は、あの国からまんまと逃げおおせた殺人鬼。いまさらになってようやく出てきた公式資料によって、すべての真相には後付けでの説明がつく」
 ちらちらと背後に視線をやりながら歩いていた少年は、正面を振り返りながら続ける。
「説明はする。だから、進もう」
 話しながら歩くからと、ため息をひとつこぼし、ロルは足元を睨む。
「あの、ロルくん?それってどういうこと?」
 思案を巡らせているらしい気配を背中に感じ、視線は素直に前を向け、烈は遠慮がちに声をかける。
「ちょっと極端だけど、いま起きたことを、表向きに説明したんだ」
「表向き?」
 ゆっくりと続けられた補足説明に、烈は表情を曇らせ、進む足はそのままに、どういうことかと振り返る。不穏な単語を繰り返してみれば、振り仰いだその両目にひたりと据えられた蒼の瞳は、凄絶ともいえる鮮やかな光を湛え、ゆるりと瞬く。わずかな光では、相手の表情などぼんやりとしか見てとれない。それでも、吊り上げられ笑みを保つ唇にある、見るもののすべてを凍りつかせるような絶対的な威圧感が、背筋を粟立たせるほどの存在感を誇示しているのがわかる。
「レツなら、それに対する裏をどう考える?」
「裏って、それじゃあ、さっきの説明は嘘なの?」
「事実の散りばめられた嘘ってところだな」
 だからそこには恐ろしいほどの信憑性があり、誰もがきっと、真実には見向きもせずに通り過ぎていく。
「きっと、オレを殺したいと思うやつなんて、掃いて捨てるほどいるだろうから」
「回りくどい説明はいいよ。おれ、よくわかんねーし。結局、どういうことなんだ?」
 声量はあくまで落とされているのに、しんと静まり返った洞窟内でそれは乱雑に反響し、増幅されて鼓膜を痛いほどに打つ。思わぬ話の展開に、質問を口にし損ねている烈に代わり、小難しい言葉の応酬に焦れていたらしい豪が、不満げに口を挟む。
 豪の周囲には、銃火器の扱いに手馴れた人間などいない。さすがに日本と違い、こちらでは実物を目にすることも少なからずあったが、あからさまに使い慣れた感のする同年代の人間など、見たこともなかった。
 たった数分の内にいままで見えていなかった部分、知らなかった部分を散々見せつけられ、豪は新しい友人との間に、見えない溝の存在を覚える。
「あいつらは誰なんだ?」
「さっきの連中はオレを殺しに来たやつらで、ついでにお前らも殺そうとしている。これは確実な事実だし、さっき説明した」
 簡単にまとめて告げられても、豪はいまいち理解が追いつかなかったらしい。しきりに首を捻っている隣から、烈が小声で、更に噛み砕いた説明を加えている。
「だけど、ロル。お前はなぜ命を狙われなくてはならない?さっきもそんなようなことを言っていたが、誰かの恨みを買うようなことをしたのか?」
「殺したいと思われるような恨みとなると、相当なものでげしょう?」
 代わって口を開いたリョウと藤吉に、ロルは小さく肩をすくめながら応じる。
「いまここでオレを殺したがっている連中の目的はちょっとずれたところにあるはずだけど、それだけの恨みを買うようなことはしてきた。事実として」
 皮肉と自嘲の入り混じった音色で、少年はただ言葉を紡ぎながら、暗がりの奥へと足を運ぶ。
「余計なことを知りすぎて、余計なことに首を突っ込みすぎた。それゆえにオレは殺される。罪状はもともと完璧だ。表向きに作られた真実が世に出されれば、世界はオレを悪と見なす。そして、それだけがすべてとなる」
 唐突に開けた視界にあわせるように、ロルはどこか焦点をぼかし続けていた言葉を切る。目前に現れたのは、ライターの炎を鈍く反射する、巨大な金属の扉だった。






 誰からともなく足を止めた中、少年は一人、迷いなくつかつかと扉に歩み寄る。そして、すぐ脇の岩肌を軽く触れて回ったと思えば、ぱかりとその一部をめくりあげた。
「それは?」
「電子ロック?」
 覗きこむようにして豪と烈がそれぞれ問いかければ、ロルは埋め込まれていたキーボードに目を走らせてからわずかに口元を歪め、じっと視線を注いでくる一行を振り返った。
「ここ、造りはなかなか複雑だけど、通路は単純だし、防犯設備とかは特になかったはずだから、突破に問題はないと思う」
「お前、この中を知ってるのか?」
「知っている」
 真剣な面持ちで突如語りはじめたロルに、豪が目を見開いて問えば、彼はほんの一瞬だけ、暗い笑みを刻んで軽く頷いた。ざわりと走った疑念のさざ波に瞳を眇め、ロルは続ける。
「侵入すればそれなりに排除しようとはされるだろうけど、中にいる人間は別に軍人とかでもないし、十分対処できると思う。島の外に出るための手段もどこかにあるだろうから。それを探して、逃げるんだ」
 説明を一気に終わらせると、少年はキーボードに向き直る。
「番号が変わってなければ、一発で開けられる。開いたらすぐ走って――」
「君は?」
 言いながらキーボードに伸ばしたロルの腕を取り、問いかける声があった。
「なんでそんな他人事みたいな言い方をするの?一緒に来るよね?」
「行く。でも、中に入って、そこまでだ」
 もう一度、切実さを孕んで問いかける声に、ロルは間髪入れずに答えた。
「オレはここで、やらなきゃいけないことがある」
 一呼吸おいて、やっと声の主に合わされた瞳には鋭い光があり、有無を言わせぬ強さがある。告げられた言葉に、その腕を取っていたJはわずかに息を呑み、どういうことかと、掠れる声を落とした。
「巻き込んじゃったのは、悪かった。危ない橋だとわかっていて、それでもあえて、オレはお前たちを利用した。謝って足りることじゃない。だから、責任をもって幕を引く」
 繋ぎとめるぬくもりを静かに振り払うと、二人を見つめる八対の瞳を順に見回し、ロルは毅然と言い放った。所在をなくした腕を体の脇に降ろし、Jはただ拳に力を込め、なにかに耐えるような風情をみせる。それを目の端に捉えながらも、表情も声のトーンもそのまま、ロルは淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「中のやつら、プロじゃないけど、一応の足止めは必要だろ。お前たちに、銃口なんか向けさせない。全部オレが引きつけて喰い止める。それが、せめてもの責任の取り方だから」
 誰ひとり死なせない。怪我もさせない。血の一滴も、流させてなるものか。
 当初の目的を外れた決意であることも、そのための覚悟が、追いかけていた目標を目の前にして断念せざるを得ないだろう可能性を意味していることも、かまおうとは思わなかった。ただ、ここで選ぶべき道を見誤ってしまったら、きっと自分は自分自身をも見失う。そう、漠然と感じたのだ。
「すべては仕組まれていたに決まってる。さっきの連中にしろここの存在にしろ、都合よく行き過ぎている。そしてオレは、きっとその黒幕を知っている」
「なに、わけわかんないこと言ってんだよ?お前も行くんだろ?」
「そうだよ、君が一番危ないんじゃないの?」
「オレの場合、自業自得だし」
 薄闇の中、閉じ込められた檻から外など見ようとせず、雲の向こうなど望もうとせず生きていれば、こんな岐路に遭遇することもなかった。希望も絶望もない混沌の中で、なにも知ることなく時間が尽きるのを待つだけのはずだった。そこから這い出すにあたって、はじめに決めた覚悟だ。
 純粋に身を案じてくれていることを伝えるやさしい声に、ロルは笑みを送る。そして思う。短い時間を分かち合っただけでここまで親身になってくれる彼らを迂闊にも巻き込んだ自分は、なんと愚かだったのだろうと。
「それに、こういうのには慣れてる。信じてくれって言えた立場じゃないけど、任せてくれて大丈夫」
『もっとも、お前が裏切らないという保証は、どこにもないがな』
 反論は受け付けないとの意思を明確に提示してくる笑みに、烈と豪は思わず口を噤み、互いに目を見合わせる。だが次の瞬間、岩肌から降ってきた知らない声に、居合わせる面々は首を巡らせ、思わず身を硬くしていた。


 いくら光の届く範囲が狭いとはいえ、音源もそう遠くはない。視認できるはずだと辺りを見回すものの、そこにはここまで一緒に走ってきた相手の姿しかなく、新しい声の主は見当たらない。
 一行から姿は見えなくても、相手からはどうやら見えているらしい。笑い含みに、そう警戒せずとも、自分は危害を加えたりはしないと告げられ、痺れを切らした豪が天井に向かって吼える。
「てめえっ、誰だよ!?出て来い!」
『それは無理だな。あいにく、映像まで転送できるほどの設備はないのでね』
 実に楽しげに、声だけの相手は続ける。
『ようこそ。旧アメリカ陸軍第三生化学研究所へ。きっと君なら、辿り着けると思っていた』
「今度はなんのつもりだ?なにを企んでいる?」
 目を凝らしてみれば、音の降ってくる辺りには監視カメラとおぼしきものが設置されていた。殺気立たんばかりの勢いでそちらを睨み据え、ロルは低く吐き捨てる。
「知り合いか?」
『育ての親にしていまの彼の名付け親、といったところか。ああ、ルーカスと呼んでくれたまえ』
 いぶかしむように問う豪に、ロルは答えなかった。代わって言葉を与える声は、なんの気なしにそう名乗ると、ふうとひとつ息をつく。
『それにしても、愛想のなさは相変わらずだな。ここまで彼らを巻き込んでおきながら、君はまだ説明のひとつもしていないのか?』
「うるさい、黙れ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
『筋合いはなくとも、責任はある。そう、元はといえば、私の気まぐれに端を発しているのだからな』
 姿は見えずとも、ルーカスと名乗った声の主が笑みを浮かべているだろう気配は、存分に伝わってきた。脈絡の取れない単語に眉をひそめる一同とは対照的に、ロルは声と表情とを押し殺す。
『もっとも、君がなにも言わないだろうことも、すべては予想の範疇だ。言いたくとも言えないだろう。君の素顔を知ったらば、きっと彼らは、君の一切を信じなくなる』
 すっと、豪の耳元で息を詰める音がした。不審に思って見上げた先では、Jが表情をなくし、呆然と音源を見つめている。
『ほう、最も気づかれたくなかったろうに、そちらの彼には隠しきれなかったか。残念だったな、ロル』
 いっそ憎たらしいほどに気の毒がっている風を装う声音で、ルーカスはロルに呼びかけてから、わざとらしく言葉を区切り、いや、と残酷に続けた。
『血濡れのローレライ』
 かけられた言葉に、ロルはなにも言わず、ただ俯き、ぐっと唇を噛み締めた。

 唐突に提示された情報に思考回路が追いつききらないものの、蔑み切った声に対して感情が示す反応に任せ、豪は痛いほどの沈黙を破った。
「どこの誰だかしらねーけど、わけわかんないこと言うなよ!」
『わけのわからないこと?これだから、子供は嫌いなんだ』
 根拠のない抗議に心の奥底からの嫌悪を込めた声を放ち、ルーカスは深々とため息を落とす。沸点に達した怒りからか、息を吸い込みはするものの言葉の出てこない豪が暴れださないように烈と藤吉とが押さえ込む。その様子を横目に、それまで沈黙を保っていた土屋が一歩、足を前へと踏み出した。
「聞き逃すには、物騒な単語だな。ロルくんのことは、今日一日ずっと見ていたが、そんな形容が当てはまるような子には思えない」
『そう、一見しただけでは、誰の目にも力のない子供の姿にしか映らない。まさに、最高傑作だった』
 向けられた指摘に、穏やかな口調へと戻しながら、声だけの相手は愉快そうに続ける。
『ならば私から問おう。君たちは、彼が妙に事情に通じすぎているという事実を、どう考える?』
「それは――」
『私は、君たちの知らない真実を知っている』
 口ごもり、俯いてしまった土屋に追い討ちをかけるように、声はさらりと言葉を紡ぐ。
『一体どれほどの猫を被っているかは知らないが、それの正体はあどけない子供なんかじゃない。獰猛で残忍な、けだものだ』
 嘘だ、と。烈は小さく呟いて、俯くばかりでなにも言い返そうとしないロルの横顔を振り仰いだ。いますぐこの場で、すべてを否定してくれることを願って。すべてが嘘で、声を送ってくる相手が自分たちを惑乱しようとしているだけだと。名指しで槍玉にあげられている彼自身の言葉で、断定してくれることを祈って。
「言っただろ。オレは、殺したいと思われるほどの恨みを買うようなことをしてきたんだって」
 切なる思いを込めた視線に返されたのは、自嘲の笑み。決して目は合わせないまま、ロルはまぶたを伏せ、深く息をついた。
 困惑と、そして戦慄だろうか。自分を見つめる視線の色合いが変わったことを肌に感じながら、少年はマイペースに落とされる声を聞く。
『私はお前のことが、気に入っていたのだよ』
「迷惑な話だ」
 まるで幼い子供を宥めるようなトーンで告げられた、心など一片も込められていない言葉に、ロルはゆらりと視線を上向ける。
「なにを企んでいる?オレの口を封じたいなら、もっとシンプルな方法がいくらでもあっただろう。なぜこんな回りくどくて、不確定要素だらけの策を選んだ?」
『退屈だったからに決まっているだろう』
 なにを馬鹿なことを、とでも言い出しそうな弾んだ返答に、ロルは肌が粟立つ自分を知る。怒りと憎しみと、そして悔しさと。あらゆる負の感情がないまぜになって、体中で暴れまわっている。皮膚を突き破って、いまにも噴き出そうとしている。
「お前の退屈凌ぎのために、一体どれほどの命が犠牲になったと思っているんだ…!」
『努力の割に報われることが少なくて、実に新鮮だった』
 必死になって抑えつけても、声の震えが隠しきれない。
 この一時だけではなく、向ける思いは積年を経たもの。奥深くまで関わっていただろう自分ですら、ほんの切れ端にしか触れることの出来なかった悲劇の連鎖を、男はなんとも思っていない。積もり積もった思いの重圧を、微塵も感じてはいない。やりきれない思いのすべてを込め、ロルは音源を睨み据える。
『うまくいったのは君ぐらいなものだったが、その君でさえ、完璧ではなかった』
 心底なにかを悔やむような、深い思いを垣間見せる音。残念だ、と自分勝手に呟くと、ルーカスはため息ひとつで一切の感情を締め出す。
『まあ、昔話はここまでにしよう。私はそろそろマイクを置いて、入り口で待ってくれている彼らに、舞台を譲ることにする』
 はっと目を見開き、一行は背後を振り返った。追うものの存在を忘れていたわけではないが、それまで注意を怠っていたことを後悔すると同時に、不可思議な言葉の意味を量る。
『無粋なのは嫌いだから、少し待っていてもらった』
 相手の顔は見えないものの、彼らの姿をルーカスに伝えているだろうカメラが動き、レンズに光が反射したのは見てとれた。耳障りな音を立てるその焦点が、ロルへと絞られているのが察せられる。ひたと見つめ返すまっすぐな瞳に、ルーカスはやはり、愉快そうに笑い声を立てる。
『約束は覚えている。糸口はまだ残っているし、明け方まではまだ猶予をあげよう。最期ぐらい、選択肢をあげると言っただろう』
「こんな選択肢なら、いらなかった」
『それは君しだいだ。そう、最後にもうひとつ、いいことを教えてあげよう。ここに、外に出るための手段はない。それを知ってなお足掻くもよし。もう無理だと諦めるもよし。好きにするといい』
 健闘を祈る。
 軽蔑の言葉とも祈りの言葉ともとれるひと言を最後に、カメラはぶつりと、断絶音を残して沈黙する。その本体に、目にも留まらぬ速さで投げつけられていた、一本のナイフを突き刺した状態で。






 突然の闖入者に一応の説明をされて、なんとなくは全容が読めてきた一行だったが、いまだ、事態の把握は追いつかない。むしろ、混乱が増したぐらいだ。
 ナイフを投げつけた名残で宙に差し伸べていた腕を下ろし、睨み据えていたカメラから視線を外して。
 力なく地面を眺めていたロルは、誰に聞かせるためでもない声を、低く発した。
 こちらの策はことごとく潰され、もはや手札は残っていないに等しい。なのにあの男は、のんびり観察して、わざわざ口出しをすることで場をかき乱し、あまつさえヒントを残していけるほどのゆとりをみせていた。
 それはすなわち、彼の筋書き通りにすべてが進んでいるということ。
 あえて情報を与えることでこちらの反応を伺い、それをスパイスにして愉しむだけの余裕を持っているという意味だ。
 絶望的だ。
 冷静に状況を悟った瞬間、ロルは岩肌に思い切りこぶしを打ちつけていた。鈍い音に続いて細かな石の欠片が零れ落ち、裂けた皮膚から、血液がその後を追う。
 向けられる当惑を知りながらも、少年は他に、思いの吐き出し方がわからなかった。徐々に近づいてくる微かな足音が耳朶を打つのとあいまって、ロルの焦りは加速度的に増していく。
 遠い昔に抑えつけ、二度と甦ることのなかったはずの喪失への恐怖が湧き上がる。それに伴うのはいつだって、奇跡を希求する内心の叫びと、そんなものはあるはずがないと、残酷に宣言する理性の声だ。
 責められるのはかまわない。恨まれるのも甘受しよう。
 ただ、自分の浅はかさが悔しく、不甲斐なさが口惜しく。
 力なさが、苦しかった。
「大丈夫?」
 労わるようにしてかけられた声に、もはや誰の耳にも明瞭に届く、幾重もの足音が重なる。そっと傷ついたこぶしを両手で包み込みながら、声の主、Jは視線を巡らせ、洞窟の入り口方面を、細く眇めた瞳で剣呑に見やる。

 不気味な沈黙を破ったのは、振り向いたJだった。
「この中は、少なくともここよりは安全なんだよね?」
 ようやく岩壁に押し付けていた腕を引いたロルが視線を巡らすのをまっすぐに受け止め、Jは凛とした声で問う。
「さっき、そう言ったよね」
「言った」
 この場にとどまっていたところで、追い詰められて逃げ場を失うのは火を見るよりも明らかだ。逡巡を孕みながらも頷き、掠れる声で言い切ったロルに烈は不敵な笑みを浮かべる。
「なら行こう。開けられるんでしょ?」
 ぼんやりと立ち尽くすロルの目の前にあるキーボードに自ら向かい、Jは暗証番号を告げるよう促した。
 思考が追いつかないのか、なんの抵抗もなく応じた声がぼんやりと告げる番号を、細い指が素早く弾く。
 軽く乾いた音に大きな金属音が続き、扉はぎこちなくも確実に開いていく。洞窟内とは対照的に、扉を一枚隔てた向こうは、どこにでもありそうな、いかにも研究室といった様相だ。
 慎重に、まず足を踏み入れたドゥルーズが周囲の安全を簡単に確認し、ひとつ頷いて残りの面々を促す。背後を固めるアーヴィングにせかされ、土屋や他の子供たちもそこに足を踏み入れるが、ロルは動かない。
「ボクは、諦めないよ」
 ちょうど中と外との境界にあたる位置で振り返り、Jは言い切った。
 はらはらと、背後と、そして半端な位置に立って動かなくなった烈とを見やる土屋たち大人の様子も、一体なにをしようとしているのかと、とにかく黙って見守っている仲間たちの様子も、Jはきちんと察している。自分がどれほど危険な賭けに出ているのかもわかっていたし、それがどれだけ馬鹿げた行為かということも、理解していた。
「早く中に入るんだ!」
 もう、迫る足音の主たちとの距離はろくにない。
 尋常ではない、目の前に立つ子供の空気を察したのだろう。なにかを憚るようにひそめながらも焦りを滲ませる声で、アーヴィングはいまだ動かない子供をせかす。それでも、ロルの表情は凍りついたまま、整った顔にただ貼り付けられていた。輝きを失った瞳が、その内心の戸惑いを雄弁に語る。
 摩耗しきった精神力のため、意識と肉体との間をうまく接続できていないのだろう。もはや声すら失い、揺れる視線に不安と絶望とを隠さず溢れさせているロルに、Jはゆったり微笑み、場違いなほど悠然と手を差し伸べる。
「大丈夫だから、諦めないで」
 根拠は見えないものの、揺るぎなく示された自信に裏打ちされ、声は力強く響く。さあ、と微笑むJに誘われるように、突きつけられ、揺らされた手を、知らず小刻みに震える手が取りかけたその瞬間。ロルはどこか茫洋としていた表情を一気に引き締めてぴくりと肩を揺らし、伏せろと叫んでJを巻き込み、その場に倒れこむ。
 間を置かず、洞窟内にいくつもの銃声が轟いた。


 岩壁が削れ落ちる軽い音に混じり、銃弾がそこかしこに当たっては跳ね返る物騒な音が反響する。
「早く、近くの部屋に!」
 音源に視線は向けたまま、後退しつつ応戦するアーヴィングの指示が飛ぶよりも早く、ドゥルーズの手によって、面々はすぐ近くにあった扉の中へと押し込まれる。
 強引に壁沿いに押しやられ、先に逃げるようにとロルから手振りで示されて身を翻しかけたJは、暗がりの中、勘だけを頼りに撃ち返すアーヴィングに声をかける。
「パネル、壊して!」
 脈絡のない発言に一瞬の驚愕をみせたものの、アーヴィングは向かってくる相手に対する手は止めないまま、黙って片手の小銃の照準を手近にあったパネルに合わせると、引き金にかける指に力を込める。
「伏せたまま、こっちに来るんだ!!」
 壁を防弾壁代わりに応戦するドゥルーズのもとになんとか這い寄ると、Jは部屋の中に転がり込む。続けて洞窟内から建物へと入り込んだロルは、そのまま壁板の一部を乱暴に剥がした。
「閉めるから、退がれ!」
 現れたボードにざっと目を走らせ、最後まで外に残っていたアーヴィングに声をかけると、ロルは迷いなくいくつかのボタンを押す。目線は襲いくる敵から逸らさず、背中から味方のいる方へと飛び込んだアーヴィングの目と鼻の先。仰々しいほどの音を立てて閉まった金属の扉が、追跡者の攻撃をその身に呑み込み、彼らから遮断した。
 壁板を適当に元あったように押し込めると、ロルは肩を落とし、ゆっくりと立ち上がるアーヴィングへと視線をやった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ」
 攻撃が止んだことを悟るや駆け寄ってきたドゥルーズに手を貸され、体を起こす男はしかし、口で言うほどの軽傷ではない。眉をしかめ、ゆっくり起き上がる様子を大した感慨ものぞかせずに見やると、ロルは扉の開け放たれている部屋を示し、口を開いた。
「人、来るかもしれない。中に入って、それから応急手当をしよう」
 色のない瞳が、先を見据える。唇の角度と、目元の険しさと、そして、微かに力の込められたこぶしと。ほんの僅かな変化だけで、ほっそりとした全身から、鋭利な感情の刃がほとばしる。
 先までの、攻撃を仕掛けてくる相手に向かって反撃をしていたときとは違う。もっとずっと昏く重く、感づいてしまった人間の五感を奪い、意識を呑み込んでいくもの。
「君も、手当をしないと」
 なんとか自力で立って部屋に向かうアーヴィングに付き添いながら、ドゥルーズが立ち尽くす子供に声をかける。
 たった一言でも、それは目には見えない呪縛が解き放たれる契機だった。
 思いもかけないロルの気迫に圧され忘れていた呼吸を、覗き見ていた烈たちは不意に取り戻す。瞬時に身に纏う空気の温度を変え、頷きをひとつ返したロルはおもむろに息を吐き出し、一拍置いてから彼らの後に続いた。

 胸や腹に被弾していたものの、アーヴィングの傷はいずれも、致命傷には至っていなかった。明暗を分けた鍵だったろう防弾チョッキを脱ぎ、ドゥルーズが携帯していた救急セットで手早く処置を行なう。その傍らに座り込んだロルは、傷を見せろと言って血の滲んだ上着を強引にめくられ、相手のなすがままにされていた。
 夢中になっていて気づかなかったが、肩を掠めただけだと想っていた銃弾は、浅くない傷をその肌に刻んでいたらしい。肉まで抉れた傷を、上着の裾を裂いて作った簡易包帯で巻き込みながら、Jはむっつりと黙り込んでいる。横合いから作業を覗き込んできた豪が、あらわになった素肌を見て息を呑むのを受け、ロルはようやく唇の端を持ち上げた。
「どうやったらこんなに傷がつくんだよ?」
「それはまあ、いろいろと」
 どの傷跡がいつどこで負った怪我の名残かなど、もう覚えていない。いちいち覚えていられないほど、すべては日常的なことだった。
 あいまいに言葉をぼかし、それ以上の質疑をロルは拒絶した。問われたところで、答えられることはなにもない。だが、豪をはじめ、室内にいる人間の注意が、いまだ体中に刻まれた傷跡に集中しているのは感じられる。
 向けられるのは、赤の他人の、それも完治している傷を我が事のように痛ましく思う視線。含まれている悲しみと苦しみには、偽りなど一片もない。そのことがやけに居心地悪く感じられ、ロルはついと、あさっての方向に目を逸らした。
 考えなくてはならないことは山のようにある。こんなところで、不慣れな感覚に冷静な思考を浸食されてしまうわけにはいかない。
「もう平気?」
 ふと烈に問われ、ロルは首をかしげながら視線を合わせる。
「傷なら別に、痛まないけど」
「そうじゃないよ。さっき、なんだか壊れちゃいそうだったから」
 淡い苦笑に瞳を歪め、烈は穏やかにロルを見つめた。
「苦しいなら、我慢しない方がいいぞ」
「抱え込んでどうしようもなくなるぐらいなら、吐き出しちゃえばいいんでげす」
 続けざまにやわらかく声をかけるのはリョウと藤吉で、締めくくるのは二郎丸と豪のセリフだ。
「無理はなしだすよ」
「おれら、友達だろ?」
 次々と向けられる言葉の力強さと迷いなさに、ロルは目を見開いた後、微かに表情を歪めた。
 気遣われ、思いを寄せられているのが嫌というほどよくわかる。だが、それゆえにますます内心に暗澹たる思いが募ることを、彼らにどう伝えればいいのか。そもそも伝えるべきか否か。そんなことすら、よくわからなかった。
 いまの言葉を編み出したその思考の組み立て方こそ、彼らとロルとの、身を置く世界の違いを突きつけるものだというのに。






 いざ戦闘となれば、どれほど疲弊していようが自失していようが、すぐに我に返って反射的に行動を選ぶことができる。なのに、その緊迫感を離れたとたん。目の前の道すらわからなくなる。
 どうすればいいのか、どうしようというのか。自問する声に答えはなく、足掻こうとしては、立ち上がる力を失う。意思が、なす術なくくずおれる。
 頭を抱えて俯き、ロルは瞳を硬く閉ざした。
 すべてに手が届かなくなり、見えなくなり。
 混沌の只中を、あてもなく漂っている気分だった。
 少年の唐突な行動に驚いたのだろう。ざわりと揺らめいた空気に乗って、どうかしたのか、どこか痛むのかと、ひたむきなやさしさが全身を包む。
「ごめん」
 必死になって胸の一番奥底から引きずり上げた思いを舌に乗せれば、それは意外とあっさり音を伴った。掠れる弱々しい声に虚を突かれ、いくつもの心配そうな声がそれぞれに、どうしたのだと問い返す。
「謝って、それですむことじゃない。どんな言葉を使っても足りないって知ってる。でも、他にどう言えばいいのかがわからない」
「どういうことだい?」
 重力に従って地面に落とされたこぶしは、これでもかというほどの力で握り締められ、小刻みに震えていた。上げられた表情は、血でも吐くような面持ちで。あまりの悲愴さに言葉を失う子供たちをちらと見ながら、黙っていた土屋がそっと、少年に先を促す。
「こんなことになっているのも、怪我をさせちゃったのも、全部オレのせいだ。大丈夫だろうって、高を括ってた。そのせいで、巻き込んだ」
「別に、君のせいではないだろう?」
 放っておけば自責の念の無限ループにはまり込んでしまいそうな様相の子供に、土屋は努めて穏やかに問いを返す。こんな襲撃は、誰にもあらかじめ予測の立てられたことではない。それを一人の子供のせいにして責め立てるほど、彼は無神経ではなかった。
「違う。さっきの話、聞いただろ?あれがすべてで、真実なんだ」
「さっきって、ルーカスって人?」
 烈が確認を取るのに対して、ロルは静かに頷いた。
「いまはなにもないけど、絶対にこれだけじゃ終わらない。別働隊も用意されていると思う。それを追い返す方法も、そこから逃れる方法も。オレにはもう、思いつかない」
 ここで時間稼ぎをすれば、その間に抜け出してもらえると思った。そのために惜しむものなど、なにもなかった。この島から出られれば、彼らを守る要素はたくさんある。
 だからこそなおのこと、逃げ出すことが叶わないなら、もう手の打ちようがない。
 きゅっと唇を噛み締め、口を噤んでしまったロルに、誰もかける言葉を持たない。断片的に与えられた情報をどう繋ぎ合わせてみても、状況の理解には至らなかった。わかっているのはただ、もっとも事態を正確に把握していそうな人間が既に諦めてしまっているという、目の前の現実だけだ。

 決して短くはない沈黙をはさみ、苦悩をくっきりと刻む少年に、烈は口を開いた。
「さっきさ、Jくんの言ったこと覚えてる?」
 突然道を外れた話題に、ロルが怪訝そうな目で首を傾げれば、烈は薄く苦笑を浮かべる。
「言ったよね。諦めないよ、って」
 やわらかさの中に揺るぎない強さを誇る芯を通して、烈は不安げに見上げてくる蒼い瞳を見返した。
「最後まで、諦めちゃダメだよ。そうすれば、奇跡だって起こせるんだ」
 絶対になんとかなるから。なんとかするから。だから、自分から可能性を捨ててはいけない。
 烈とて頭は悪くない。状況の圧倒的不利を察しているだろうに、それでも強気に断言した目の前の少年に、ロルは圧倒されている自分を知る。
「一人でこっそり抜け出したりして、君は、死にに行くつもりだったの?」
 続いて口を開いたのは、手当てを終えた後、ずっと黙り込んでなにごとかを考えていた様子のJだった。小さいながらも凛と透る声は、戸惑いを孕みながらも、鋭さを光らせる。
「違う。やらなきゃいけないことがあったんだ」
 もっとも、結末としてはその可能性が一番高かっただろうが。
 不安を煽るような発言は声にせず、ロルは胸中で付け加える。ほんの一瞬、自嘲気味な笑みを刻んだ視線を巡らせれば、真剣な表情で言い連ねるJと目が合う。
「そのやらなきゃいけないことは、ここに行き着くの?さっきの人に、関係あるんだよね?」
 語尾はわずかに上げながらも、問いかけというよりは断定に近い口調だった。指摘された内容に思わずつと息を吸い込んだロルから焦点を外すことなく、Jは続ける。
「君の行動は、あまりにも浅慮だった」
 ふと凍りついた声音で冷酷に言い渡された言葉に、ロルは呼吸を忘れ、残る面々は目を見開いてJを凝視する。
「抜け出す君に気づかないほど、ボクが君に対して無関心だとでも?彼と、その後ろについている人たちが、君の行動をみすみす見逃すとでも?」
 侮るなと、Jは怜悧な光を湛える瞳でロルを射抜く。
「死にに行くのを許す気はなかった。だから、ボクは君を追いかけた」
 そして君はボクを巻き込み、周りの見えなくなっていたボクらは、みんなを巻き込んだ。その自覚があるなら。その自覚があるから。
「こんなところで半端に投げ出すのは、もっと許さない」
 どれほどの苦境に立たされようと、最後までもがき、抗う以外の選択肢など、決して認めたりはしない。
 いっそ酷薄なほどの鮮やかさをもつ、慈愛に満ちた笑みを浮かべ、穏やかな声に戻ったJは告げる。
「君は、なにかを求めてこんなところまで来たんだろう?危険を承知で、それを省みずに」
 相手のもつやさしさを知っていればこそ、その決意がどれほどのものかはわかる。だからその覚悟を買って、最後まで付き合おう。
 見え透いた結末だろうと、運命や宿命と呼ばれるものだろうと、納得のいかないものに従う気などない。
「ならば、最後の瞬間まで、諦めるのなんて認めない」
 どんなに見苦しかろうと、足掻ききってみせるのが筋というものだ。


 唖然として、高らかになされた宣言を頭の中で無意味に繰り返していたロルは、自分の息を吸い込む音でようやく我に返った。
 思考回路は麻痺してしまい、言われたことの内容はまっとうに理解できない。それでも、とんでもないことを告げられたということだけはわかっていた。
「でも、お前だって聞いただろ?外に出る手段はない。連絡のとりようもない。どうやったって、ここから逃げ出すことは――」
「そして君は、その先に望み、描いていたことを諦めるつもりなの?」
 告げられる言葉を遮り、Jは冷然とした、皮肉な笑みを口の端に乗せる。凄絶ともいえるそれを瞬きひとつで拭い去り、少年は乞うように、小首をわずかに傾げた。
「さっきの人、明け方までは待ってくれる、みたいなこと言ってたよね。だったらいまのうちに、ちゃんと説明して。君にはその責任がある。だいたい、いまさら隠し事をして、それでどうなるっていうの?」
 怯えたように揺らぐロルの瞳はしかし、ひたすらになにかを押し隠している。膠着状態に入りかけた二人の子供たちに、それまで発言を控えていた土屋は、小さく息を吸い込んでから口を開いた。
「君は一体、何者なんだい?言い方は悪いが、君は一人の、ただの戦災孤児に過ぎないはずだった。でも、どうやらそれは表の顔のようだ。君は、どこでなにをしたというんだ?」
 どうか答えてくれと、躊躇いと困惑のうねりに呑みこまれかけているのだろう子供に、土屋は目を向ける。
「賭けに、負けたんだ」
 不意に肩を落とし、ロルは小さな声を絞り出した。
 抽象的な響きにその内をいぶかしみ、彼らの表情にはそれぞれ、疑問の色が走る。
「巻き込まれた闇を暴きたかった。でも、間に合わなかったんだ」
 囁くように呟き、ロルはただ、儚く笑んでみせた。

 触れれば壊れてしまうような脆さを思わせる笑みに、彼らは反応を示せない。目を伏せたロルは、それらを気にした風もなく、ぽつぽつと言葉を続ける。
「この手は血と罪と、そして恨みにまみれている。そうしないと生き延びられなかったのも事実だから、後悔はしていないつもりだ。でも、せめてもの罪滅ぼしぐらい、したいと思った」
 光の差す場所に立ってはいけないと、察することはできていた。それでもあえて陰から這いずり出て、やりたいことを見つけた。
「ここの存在を、白日の下に曝したかったんだ。知っているやつがいないから終わらない。だから、知っている人間が動かなくちゃいけない」
 自分を、他の子供を、大人を。ありとあらゆるものを呑みこんで蠢く闇に気づいたとき、それを暴くと決めた。なにもかもすべてを利用して、この命が消されるまでに。だから、己の死など恐れない。もっと忌まわしいことは、山のようにあるのだから。
「ここは、何なの?」
「旧アメリカ陸軍第三生化学研究所。内実は、ガーフィンケル社所属の人体改造実験施設だ」
 そして自分は、ここで飼われていたモルモット。
 そっと問いを返してきた烈にあっさりと答え、ロルはうっそりと目を細めた。
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