■ 第二章 --- やさしいうそ
 どうやら激昂しているらしい相手の小言を聞き流しながら、なんとなく。ロルは、目の前の大人たちの肩越しに、壁の鏡に映った窓の向こうを見ていた。
 夕闇に浮かび上がるのは、天高くそびえる摩天楼。
 この国に来てまず思ったことのひとつが、空が狭いというものだった。彼の知るものとは、広さも色合いも、なにもかもが違う。小さくて深みのない、そして平和な空だ。
「聞いているのか!?」
『早口すぎて、聞き取れない』
 一向に応えた様子のないロルに焦れたのか、取り巻いていた内の一人の男が勢いよく立ち上がる。先ほどレース会場に残り、Jに口止めをしていた人物だ。ちろりと視線をそちらに流しつつ、ロルはあえて、彼らには通じない言葉を選んで口にする。束の間、虚を突かれたように目を見開いた男は、そばに控えていた通訳の男が英語変換したそのセリフに、顔を真っ赤に染め上げた。
 怒りのあまり、もはや声が出てこないのだろう。喘ぐようにして肺に酸素を取り込む男を通り越し、集団の中央で静かに黙り込んで座っている初老の男に、ロルはようやくまともに焦点を合わせる。
「あいつのことをいままで言わなかったのは、確信がなかったからだ」
「その割には、あの場ですんなりと諒解しあっていたようだが?」
「直接会えば、それなりにわかることだってある」
 男が口を開いたとたん、場の空気に走る緊張の度合いが一気に増す。わずかに眉根を寄せてその変化をやり過ごし、ロルは淡々と言葉を紡ぐ。
「まあ、その一点に関しては、私も責めるつもりはないよ」
 長く息を吐き出しながら、男はソファの背もたれへと体を深く沈みこませた。それまでの流れとは正反対の潮流が生じたことに、先ほどまで先頭を切って怒鳴っていた男の顔色があからさまに変わる。
「慎重になるのも無理はない。間違っていた場合、期待しただけ落胆の度合いは高くなるだろうからね」
「ですが、議員。それはともかくとして、あんな向こう見ずな行動は――」
「そう、問題はそこだ」
 慌てて口を挟んだ先の男に頷き返しながら、議員、と呼ばれた初老の男はゆったりと腕を組む。
「君も、あのパフォーマンスがどれほどの騒ぎを引き起こすのか、わからなかったわけではないだろう?」
「情報操作は十八番なんじゃなかったのか?」
 老いてもなお鋭いその眼光を正面からまっすぐに受け止め、ロルは挑発するように碧の瞳を眇めた。底の見えない色には、年齢にそぐわない迫力がちらついている。思わず気圧され、つと息を呑む大人たちの中でただ一人、男は微塵も動じない。
「君と彼の関係が表沙汰になる分には、なんの問題もない。問題は、表に出る際の形なんだよ」
「オレに、なるべく話題性をかっさらえ、って教えたのはそっちだろう?」
「そのためには、この世に残されたたった一人の家族すらをも利用すると?」
「あんたたちにあいつが体よくもてあそばれることを考えたら、あの場こそがオレにとって都合がよかった。それだけだ」
 吐き捨てるようにしてソファに深々と身を沈めたロルに、心外だとでも言うかのように男は目を見開き、逆に体を起こす。
「われわれが、彼を弄ぶと?」
「少なくとも、もう少し準備の時間があったら、大幅な脚色とド派手な演出はするつもりだった。違うか?」
「まるで、われわれが君と彼のことを知っていたかのような口ぶりだね」
 驚いたように目を見開き、男は薄い笑みを口の端に乗せる。
「疑ってはいたんじゃないのか?仮にも血の繋がりがあるんだ、見た目は似てる。それに、これだけ珍しい色合いだし」
 目線を伏せながら軽く肩をすくめて胸元に手を当てたロルは、そのまま男を射抜くような勢いでじろりと睨みすえ、低い声で続ける。
「相手は存分な知名度を持っている。利用価値は高い」
「より話題性をさらうことこそが、君を守るための最大の方法だと、そう教えたではないか」
「建て前だな。仮にその言葉が真実だったとして、そんなことのためにあいつを利用されるのはごめんだ」
 平坦な声音と口調の中で、ひときわ鮮やかな感情の奔流が少年から溢れ出す。それは、いわば威圧感と呼ばれるものだろう。駆け引きにおいては百戦錬磨のはずの大人たちが、背筋に伝う冷や汗を自覚し、それぞれに表情を歪める。

 無言での対峙を打ち破ったのは、ロルに正面に座る男だった。傍らに立つ内の一人に対しおもむろに右手を差し伸べると、そこに一束の紙が渡される。
「君の意見を参考にして、少し調べる方向を変えてみた」
 ばさりと、無造作に投げ置かれたその表紙には、国内最大手の軍事企業の名と、赤ペンによるトップ・シークレットの走り書き。
「色々と、面白い事実が浮かび上がってきたよ」
 見てみるかと問われ、ロルはゆるりと首を横に振る。
「見たってどうせわからない」
 読み書きの知識は、本当にわずかに、しかも偏った方向にしか持ち合わせがない。字面は読み取れるかもしれないが、内容理解の追いつかない書面になど興味はない。
「ならば、型番と数量だけでも、気が向いたら追ってみるといい」
 返された言葉などまるで気に留めた様子もなくそう言いおくと、男は軽い挙動で立ち上がった。ざわざわと動きはじめる周囲とは対照的に、ロルはただじっと、テーブルに置かれた書類を見ている。
「いまだから言うが、正直、私は君のことを信じていなかった」
 いい話題づくりになると思い、会いにいってみれば挨拶よりも先に爆弾発言が降ってきた。なにを言い出すのかと思いきや、その一言こそが、自分にとって決め手となる武器になりつつある。
「あんたみたいな立場の人間が、こんな得体の知れないガキの言うことを軽々しく信じるようじゃ、この国はおしまいだ」
 視線を合わせてきたのは、小さな子供の姿を借りた、大切な切り札。自嘲に近い笑みを刻み、ロルは小首を傾げてみせる。その正面で、男は盛大に笑い声をあげていた。
「君のような頭のいい子供は、嫌いではない」
「オレは、あんたみたいな大人が好きになれない」
 皮肉げな声での切り返しすら楽しかったのか、笑いながら去りゆく背中に、ロルは鋭く問いかける。
「本題は?」
「騒ぎの代価だ。政府からヴァカンスの誘いがきているよ」
 せいぜい求められた役を演じきってきてくれ、と言い残すと、男は扉の向こうへと消えていった。


 宿舎に戻るや否やでかかってきた電話に呼び出された土屋が戻ってくるのに、さほどの時間はかからなかった。なんとなく、先の騒ぎに関することだろうと察しがついている分、どこか憔悴した様子で現れた土屋に、子供たちは声をかけづらい。
「そんなに、深刻な顔をするようなことじゃないよ」
 安心させるように微笑みかけ、土屋はリビングに集まったメンバーが適当な場所に腰を下ろしたところで、口を開いた。
「休みに入ったら、みんなで遊びにでもいこうかという話をしていただろう?」
 それに関する話だったのだと告げられ、緊張に張り詰めていた空気はあっという間に緩んだ。
 せっかくの休みだし、アメリカまでわざわざ来ているのだしと、一時帰国前のちょっとしたキャンプ計画があったのは事実。そこをイベント好きのFIMAが嗅ぎつけ、大掛かりな行事に仕立て上げようとされかけていたのは、子供たちも知っている。
「で、場所の変更と、飛び入りメンバーが追加になったんだ」
「飛び入りメンバー?」
 不思議そうな表情で思わず復唱した豪に、土屋は複雑な笑みを浮かべてぐるりと一同を見渡す。案の定、そこには眉を寄せ、左右非対称に表情を歪めるJがいる。
「それってもしかして――」
「うん。大体の察しはついていると思うけどね」
 やはりどこか複雑な表情で、烈がそっと声をあげる。それに対して軽く頷くと、土屋は極力あっさりとした声音を意識して静かに言葉を紡いだ。
「政府の方から要請が入ったんだそうだ。メンバーはロルくんを追加で、場所は近海の、政府所有の保養施設がある島になったよ」






「本当かよ、博士っ!?」
 穏やかな声に真っ先に応じたのは、豪の嬉々とした声音だった。
「あいつとまた遊べるんだな?」
「まあ、そういうことだね」
 ソファから思わず腰を浮かせた豪に苦笑を返しながら、土屋は、黙ってそれぞれに思案顔を浮かべている残りのメンバーを振り返る。
「彼に一緒に行動してもらうことになったんだ。事後確認になってしまったけど、異存はないかな?」
「もちろん、僕は大賛成です」
「俺も、かまいません」
「あんちゃんが言うなら、おらもいいだすよ」
「歓迎こそすれ、反対する理由はどこにもないでげすな」
 微笑みと共に即座に頷いた烈に、リョウと二郎丸が同意し、藤吉も首肯する。ただ、反応の返らない子供が一人。
「Jくんは、どうかな?」
 本当ならこんな形での決定ではなく、君や彼の意見を最も尊重すべきだったのだが、と、遠慮するような口調で土屋は語尾を濁す。
「そうやっていろいろなところからお気遣いいただいているのはとても嬉しいことですし、嫌なはずはありません」
 深く息を吸い込んでから、Jは伏せていた視線をあげる。嬉しいとは言いつつも、瞳に浮かんでいるのは悲壮といった方がふさわしい表情だ。
「なにか、気になることでもあるのかい?」
「せっかくの計画だったのに、台無しにしてしまいました」
 介入してきた相手からして、選択肢などはじめからないのだ。いいように脚色され、お膳立てされて、求められる役柄を演じなくてはならなくなった。マスコミの目もなにもない中で、ただのんびりみんなで楽しもうと企画したことが、大人にとっての都合のいい道具となってしまった。その引き金を引いた自分が、たまらなく悔しかったのだ。
 ぐっと唇を噛み締め、Jは必死になって渦巻く感情を押し殺している。
 子供の内面を正しく汲み取れる分、へたな慰めは逆効果だと知っている土屋は、かける言葉を見つけられなかった。

 どうしたものかと視線を泳がせれば、気まずくなってしまった空気を、豪の軽やかな一言が打ち砕く。
「別に、なにも台無しになんかなってないじゃん?」
 裏も含みもなにもない、眩い輝きを内包する言葉だった。
 はじかれたように顔を上げ、Jが瞬きをしながら音源へと視線を流す。
「今度は誰にも文句言われないで、一緒に遊べるんだろ?なんにも問題ないじゃん」
「でも、だって。せっかくみんなで、部外者はなしで、のんびり遊ぼうねって言ってたのに」
「あいつ、お前の兄貴?あれ、弟か?まあいいや。兄弟なんだろ?」
 問いかけに対して頷きながらもひそめられた柳眉に、豪はきょとんと目を見開くだけだ。
「なら部外者じゃないじゃん。それにおれ、もっとあいつと話したかったし」
「今日、会ったばかりだよ?それも、あんな短い時間、あんなにめちゃくちゃな形で」
「関係ねーよ」
 根拠もなにもなく断言した豪に、Jは絶句するばかりだ。
「お前、いつもはすげえ頭いいのに、たまに抜けてるよな」
 ぽりぽりと頬をかきながら、豪はただ向けられる視線に、居心地悪そうに身じろぐ。言いたいことをわかってくれていそうにない友人に、なんと説明したものか。必死になって言葉を探すものの、慣れない作業に思考は空回り。適切な表現が見当たらない。
 一人で頭を抱えては唸っている豪の姿に、口を開いたのは瞳を細めたリョウだった。普段の寡黙な態度からはなかなか計り知れない、それは底知れずやさしい、深い深いぬくもりの表情。
「言っただろ?お前にとって大切なやつなら、俺たちにも大切なんだよ」
「心配することも気に病むことも、なにもないでげすよ。友達が増えるのは嬉しいことでげすし、それがJくんのご家族なら、喜びもひとしおでげす」
 ねえ、と顔を見合わせて頷きあっている藤吉と二郎丸の向こうで、烈が淡い苦笑を浮かべている。
「せっかくの機会なんだから、喜んでいいと思うよ」
 きっと、これを逃したら、彼と出会える時間はもう残されてなどいないだろう。本当に限られた空間で、用意されたセリフと動作をもってしか触れられないかもしれない。あの少年は、それだけの重みを背負っている。
 本物の彼に触れられるのは、もしかしたら、これが最後のチャンスかもしれない。
「難しい話はよくわかんないけどね。でも、そう気軽に会いにいける相手じゃないってことは知ってるよ」
「チャンスはめいっぱい使うだすよ」
 次々と手向けられる言葉に、Jは喘ぐような呼吸を繰り返すだけで、声を絞り出すことができずにいる。困惑の真っ只中で立ち止まってしまっているのだろう子供に、それまで静観の立場を取っていた土屋が、ゆっくりと口を開く。
「余計なことは考えなくていいよ。それはわれわれ、大人の仕事だからね」
 ただ、君の気持ちが知りたいんだ。
 そう、穏やかに見つめてくる眼鏡の向こうの瞳を見やり、膝元で組んだ己の両手を見やり、Jは逡巡をみせる。

 しばしの沈黙の後、ようやく零れ落ちてきた声は、小刻みに震えていてよく聞き取れなかった。
「話をしたいんです」
 同じように震える両手は、力の入れすぎで、関節が白く血の気を失っている。歪んだ表情も、惑う視線も溢れ出る思いも。なにも取り繕うことなく自分を見つめる六対の瞳に向けながら、Jは唇を動かす。
「傍にいきたいんです」
 理性の告げる、それはわがままだという声も、その思いが巻き起こすだろう事態を予測する思考回路も。
 すべてを抑えつけて、子供は心を暴き立てる。
「いま叶わないなら、もう二度と、叶わない気がするから」
「なら、決定だね」
 言葉が空中に掻き消えるのを追うように、烈の明るい声が響いた。
「全部叶えればいいんだよ。だって、それができるチャンスなんだから」
 ね、と念を押しながら小首を傾げ、烈はこの話題はここまでといわんばかりに、さっさと先ほどまでのレースの反省会へと移っている。
 さっそく小言のターゲットにされた豪が不平をこぼしはじめれば、そこに藤吉と二郎丸が便乗して、おなじみの小競り合いがはじまる。そんな年少組を横目に、表情を変えようともしないリョウも、呆れたようにため息をつく烈も、すべてはいつものまま。日常の時間を取り戻してくれたことにやさしさと気遣いを知って、Jが烈をそっと横目で見やれば、流された視線にふんわりと笑われる。
「謝らないでね」
 その先には、先ほど彼から聞いたばかりのセリフが唇の動きだけで繰り返されて、やさしい空気が室内を満たす。
「大切な家族なんだよね?」
「うん」
「そう。それでいいんだよ」
 軽やかな声に告げられて、Jは黙って、はにかむような、翳りを帯びた微笑みをこぼした。





 うるさいことこの上ないプロペラ音のもと、イベントごとで最もはしゃぐはずの少年が、顔面蒼白でガクガクと足を震わせている。
「豪くん?怖いんなら、一人で戻って留守番にするでげすか?」
「う、うるせー!誰も怖がってなんかないだろ!?」
「じゃあ、この足はなんだすか?」
「準備運動だっ!!」
「そうだすか。なら、おらはもうなにも言わないだす」
 たっぷりの沈黙を間に挟んでから、不信感を丸出しにした表情で。それでも二郎丸は、寛容にも頷いておくことにした。楽しいキャンプに出かけようというのに、こんな、まだ出発したばかりのところで不愉快な思いをしても仕方がない。
 彼らは、近海にある小島で休暇を楽しむべく、ヘリコプターに揺られている最中なのだ。
 ふうっ、とアンニュイなため息をこぼし、二郎丸は隣で震え続ける豪から窓の外、眼下に広がる青い海へと視点をずらす。
「あ、見るだす。街がキレイだすよ」
「本当でげすな。ああ、見えるでげすか、ロルくん?」
 わずかに視線を上向けると、進行方向後ろ側に、煙った街並みが見えた。反対側の窓にはりついている烈とJ、リョウを視界の隅に、促されて腰をわずかに浮かせた藤吉は、自分の後方から同じ窓で外を覗く少年を気遣う。彼は頷いてからおもむろに背後を振り仰ぎ、不思議そうに首をかしげながら藤吉を見やった。
「どうかしたでげすか?」
「ゴウは、どうしたんだ?」
 ロルが示したのは相変わらず震えている豪だ。質問の意味を測りあぐねて眉を寄せた藤吉に、ロルは言葉を追加する。
「こっちに動いてきたから、見たいのかと思った。でもやめたみたいだし、外を見ても平気そうには思えない」
 言われてみれば、豪の座る位置が若干窓寄りになっている。にっと唇の両端を持ち上げ、目配せを交し合った藤吉と二郎丸が、ロルに着席してくれるよう頼んでから素早く豪の両脇に陣取る。
「豪くん?わてらが邪魔で外が見えなかったんなら、正直にそう言うでげすよ」
「そうだす。遠慮するなんて、お前らしくないだす」
「べべべ、別に?邪魔じゃなかったぜ」
 上擦った声では、強がりもむなしく響くだけだ。体格のさほど違わない二人に挟まれ、豪の窓辺の席への強制移動が開始される。

 悲鳴をあげ、豪がじたばたと逃れようとするさまを笑い含みに観察しているロルの耳元に、呆れたような声が落とされた。
「わかっていてやってるでしょ?」
「軽い冗談のつもりだったんだけど」
 そのまますとんと正面に腰を下ろすのは、眉間にしわを寄せたJ。
「短時間の観察の割に、実にピンポイントだよね」
 口元を覆いながらかろうじて笑いを噛み殺すロルに、言葉を続けたのは烈だ。実弟が恐怖のどん底に叩き落されようとしているのをあっさりと流して、目元は愉快そうに弧を描いている。
 一度目の出会いはほんのわずかな時間、混乱の只中で。
 二度目の出会いは二日の時間をおいて、今朝。ぎこちなさを伴って。
 それでも、気づけばこうして距離が縮まっている。一番の功労者は、豪たち年少組だろう。一足飛びに相手の懐に飛び込み、ぐいぐいと引っ張ってくるそのやり方は、強引な分非常に強力だ。おかげでこうして、さして時間もかからずに笑顔で冗談を言いあうことができている。
「兄貴、笑ってないで助けろよ」
 藤吉と二郎丸も心得たもので、豪の恐怖が最高値に達する前に、きちんと解放している。ようやくの思いでヘリの中央部分、外が見えにくい席まで這ってきて、豪は息を吐き出しながら、ぐったりと疲れきった表情だ。
「いい訓練になるだろう?目指せ、高所恐怖症克服」
「克服しなくていい!」
 完全に遊んでいる烈と遊ばれている豪に、こらえ切れなくなったのか、肩を震わせていたロルは声をあげて笑いはじめた。
「てゆーか、お前も!笑うな、遊ぶな!!」
「これ、日本人の標準値なのか?」
「いまの豪は特殊な状態だ」
 体を折っている状態から目線だけを持ち上げたロルの隣、渋面を浮かべてこめかみを押さえるJのはす向かいから、リョウがなんともいえない表情で応じる。
「豪くん、日本への国際的な誤解を生もうとしているでげすよ。もうちょっとおとなしくするでげす」
「てめえら、向こうに着いたら覚えとけよ!」
「着いたら真っ先にお前が忘れる気がするだす」
 投げかけられた言葉にぐうの音も出ない豪を見て、ロルを含め、子供たちの笑いは頂点へと達した。


 ひとしきり笑いあい、憮然とした豪が完全にへそを曲げるよりほんのわずかに早く、彼らは平静を取り戻す。
「ほら、島が見えてきたよ」
 タイミングを計ってでもいたのか、前方の席に座っていた土屋が振り返り、子供たちに窓の向こうを示してみせた。
「案外小さい島なんでげすな」
「そうだすな」
「まあまあ。ああ、あのロッジを使うのかな?」
 言われてすぐにひょこひょこと顔をのぞかせ、進行方向に見える小島に対して感想を述べあう藤吉と二郎丸を、土屋が苦味を滲ませた声でなだめ、海岸からちょっと入ったところに見える数棟の小屋に目を細める。
「小さくとも、防犯設備は抜群の島です。宿泊にはいまおっしゃったロッジのひとつを使っていただくことになります」
 土屋の横、パイロットの真後ろの座席から、無機質な音が響いてきた。案内係だと名乗り、今朝ロルを連れて現れた政府の人間のものだ。
「食料や水はそろえてありますので、ご自由にお使いください。他にも、釣りやら猟やら、どんどん追加していただいてかまいません」
 ちらりと目線だけを後部座席の子供たちに走らせ、彼は続ける。
「マスコミも潜り込めるはずはありませんし、どんな不審者も入り込めません。まさに、近海とはいえ絶海の孤島」
 それは言い換えれば、洋上の牢獄。籠の鳥を逃がさないための、絶好の囲い。
 なにごとかを小さく口の中で呟き、ふと暗い微笑を刻んだロルに気づいたリョウは、思わず眉根を寄せる。どうかしたのか、なにを言っていたのか。周囲に確認をとろうと思うものの、豪をなだめるために身を乗り出しているJは気づいた様子もなく、他の面々も聞こえていなかったようだ。
「ボディーガードもいますし、安心してくつろいでいただけると思います」
 ならば直接に問えばいいかとリョウが唇を動かすよりも速く、いつの間にやら元の穏やかな表情に戻ったロルが声を発する。
「どこに降りるんだ?」
「ロッジの奥に、開けた場所が見えるでしょう?あそこがヘリポートになっています」
「普段からヘリで行き来するっていうことですか?」
 そういえば港が見えないが、と烈が首を傾げれば、彼は静かに肯定した。
「船でも可能ですが、ヘリの方が早いというのが、一番の理由です。ああ、それと一つ注意が」
 砂浜に見える桟橋を示して説明した後、ふと思い出したように彼は付け加える。
「島のすぐそばはいいのですが、少しでも離れると潮流が一気に急になりますので、気をつけてください」
「だ、そうでげすよ、豪くん?」
「なんでおれなんだよ!」
「調子に乗って遠くまで泳いでいったら、戻れなくなるってことでげす」
「気をつけるだすよ?」
「おれはそこまでアホじゃねえっ!」
「ですが、本当にお気をつけください」
 子供たちの漫才の締めくくりは、豪のがなり声に続いた役人の言葉だった。
「もともとが泳ぎ回ることを目的とした場所ではありませんので、戻れないというのも、あながち冗談ではありません」
 高所にいるという恐怖に加わった更なる脅しに、豪の顔色はますます悪くなる。それを知ってか知らずか、パイロットに着陸態勢に入ることを告げられた男は、なにごともなかったかのように機内に向かって着席を促した。






 ロッジへの案内の後、簡単な説明やら注意やらを終えると、男はさっさとヘリで立ち去っていった。
「へえ、きれいな建物だね」
 上空から見たよりは大き目のその建物は、踏み込めば木の匂いがした。吹き抜けの玄関から天窓を眺めて烈が感想を漏らすすぐ脇を、荷物の重さなど気にした風もなく、地上に降り立って俄然元気になった豪が駆け抜ける。勢いに任せて目の前に待ち構えていた階段を一段抜かしで駆け上ると、廊下の奥を見やってから階下の仲間たちにぶんぶんと手を振った。
「部屋、いっぱいあるぜ!」
「贅沢な造りだな」
「まあ、さすがは政府高官御用達といったところでげしょ」
 ごく普通の家屋よりもよほど豪奢な装いにリョウが呟けば、飄々とした声で藤吉が応じる。とにかく寝室は二階だろうと判じ、彼らもまた、それぞれの荷物を手に、豪の後を追った。さりげなく壁に飾られている鹿の剥製に顔を近づけると、烈は「本物だよね」と二郎丸と目を見合わせる。
 階段を上り終えてみれば、一足早く立ち並ぶドアを開けては首を突っ込んでいた豪は、廊下の先の方にあるとあるドアを開けたところで、ぴたりと動きを止めていた。
「豪?どうした?」
 不審に思った烈が声をかければ、豪は手招きをしながら「すげー」とひたすら感嘆の文句を紡いでいる。
「これ、図書室?」
「うわ、書斎完備なんだ…」
 その目線の先にあったのは、天井までみっちりと本で埋められたいくつもの書架と、いかつい机と椅子のセット。机上にはまだ新しいパソコンが載っている。
 豪と並んだ烈が誰にともなく疑問を投げかければ、応えたのは感心しているのか呆れているのか、あいまいなJの声。
「スゴイだすなあ」
 ぽつりと漏らされた二郎丸の一言に、居合わせる面々の内心は集約されていた。

 胸の内に溜まった思いをそれぞれ、ため息に詰め込んで吐き出すと、気を取り直すかのように土屋が明るい声をあげる。
「さて、それじゃあとりあえず荷物を片付けてしまおうか」
 到着してから渡された建物内の見取り図を一瞥してから、土屋は廊下のドア群を見やる。
「部屋割はこの前決めた通りとして、どこの部屋をどう使おうか?」
「はいっ、はいはいはーい!おれ、階段の近くがいい!」
「豪、お前はまたそうやって勝手ばっかり」
 手を上げて真っ先に希望を述べた豪を烈がたしなめる横で、リョウがひとつ息をつき、土屋に向かって口を開く。
「俺はどこでもかまいません」
「おらもだす」
「まあ、どの部屋でもさして変わらないでげしょうしね」
「ボクも別に」
 小言の始まってしまった烈と不機嫌顔で聞き流している豪を尻目に、子供たちは次々と声を発する。うんうん、と一人一人に頷いていた土屋は、残った一人の注意が話題の外に向いているのに気づき、穏やかに問いかけた。
「どうしたんだい?」
 豪と烈の頭上越しに書斎の奥をぼんやり眺めていたロルは、かけられた声にゆるりと視線を巡らせ、微笑んでいる土屋に行き着くと口を開く。
「海、珍しいから」
「海が?もしかして、見たことないんだすか?」
「そうだな。いままでずっと、内地だったし」
「じゃあ、ロルくんとJくんは海のよく見える部屋で決定でげすな」
 目を丸くして二郎丸が問いかければ、ロルはわずかに苦笑を滲ませて頷く。その言葉を受け、藤吉は土屋を振り仰いだ。
「ちょうどいい部屋はあるでげすか?」
「大丈夫だよ。一番奥の部屋だね。じゃあ、あと豪くんの希望を入れてあげようか」
 よし、と頷くと、土屋はリョウに少し戻ったところにあるドアを示す。
「リョウくんたちはそこ、豪くんたちの隣だね。豪くん、階段に一番近い部屋で決定だよ」
 小言から一転、気づけば一触即発の兄弟げんか寸前になっていた豪と烈だが、かけられた言葉に豪があっさりと戦線離脱し、事なきを得る。やり場のない怒りに烈がこぶしをわなわなと震わせるのを、兄弟と同室の藤吉が慰め、荷物をしまいにいこうと促す。
「博士、これ終わったらさ、砂浜で弁当にしようぜ!」
 さっさと部屋に到達し、ドアノブに手をかけながら豪が振り返れば、烈のこめかみに青筋が走る。淡い苦笑で怒れるチームリーダーをなだめ、Jがそれに同調するように口を開いた。
「それも気持ちいいと思うよ」
「そうだな、せっかく晴れているんだ」
 いつも成り行きに任せてめったに口出しをしてこないリョウが頷けば、土屋が子供たちの意見に異論を唱えるはずもない。気配を殺し、一行から離れ階段の中腹付近にたたずんでいるロルのボディーガード二人に目で確認をとると、にこりと微笑んで頷いた。
「それじゃあ片付けて、みんなで外に行こうか」
 声をそろえて返事をし、子供たちは割り振られた部屋へと散っていった。


 さっさと荷物の片づけを終えて外に出ると、今朝、出発前にみんなでわいわい騒ぎながら作成した力作の弁当を広げる。
「これ食ってみろよ、おれの自信作!」
「ライス?」
「“おにぎり”っていうんだよ」
 嬉々として真っ先に手を伸ばした豪は、中央から巨大なアルミホイルの包みを二つ取り出し、片方をずいとロルに突き出す。戸惑いながらも受け取り、既に包みを解いてかぶりついている豪を見て、ロルは小首をかしげた。和食にそう馴染みがないのだろうことを察して、それよりは二まわりほど小さい同様の包みを開けながら、烈がゆっくりと発音してみせる。
「オニキ、リ?」
「お・に・ぎ・り」
 間違って繰り返された発音に訂正を入れながら、隣に座り込むJは、ロルの持つそれの包みを軽くほぐしてやる
「食べてごらんよ。はじめは違和感あるかもしれないけど、なかなかおいしいよ」
 手本を示すかのようにやはり自分の包みもほぐし、一口含んで租借するJに、ロルは黙って自分の手元と相手の手元とを見比べ、やはり首をかしげる。
「これがやけに巨大なのは?」
「豪が不慣れだからだな」
 さりげない疑問に豪がむせ返れば、大きさも形も申し分のない一品を口にしながらリョウがあっさりと応じる。わかったのかわかってないのか、あいまいに言葉を濁して口をつけたロルは、眉間にしわを寄せて視線をあさっての方向に泳がせる。
「な、うまいだろ?」
「しょっぱい」
 自慢げに問う豪に一言切りかえし、そういうものなのかと隣を振り仰ぐ。じっと無言で訴えられ、ロルの手元から一口食べてみたJは、同じように眉根を寄せ、作成者と作品とを見比べた。
「豪くん、お塩使いすぎ」
 これは塩辛すぎると下された判断に、ロルはさもありなんと頷いている。
「そんなことねーって!いいぜ、だったらおれのと取り替えようぜ」
 あからさまに量が半分近く減ってしまったおにぎりと強引に入れ替えられ、おそるおそる口をつけたロルは、「こっちは大丈夫」とそのまま食を進める。一方、自信作にいざ大きくかじりついた豪は、パタパタと手を動かし、周囲に飲み物を求めている。
「やっぱり辛かったんだすな」
 ため息をつきながらコップを渡す烈を見て、二郎丸は冷ややかに呟く。その外観とはあまりにギャップのある老成した声音に、なにかを言おうとしたらしい豪はあえて無言のまま、なかば自棄な様子でおにぎりとお茶とを交互に口に含む。
「おいしかったぜ、やっぱり!」
「じゃあ、次のもどうぞだす」
 猛スピードで食べ終わり、目尻に涙を滲ませてきっぱりと言い切った豪の目の前に、もうひとつ、豪作成のおにぎりの包みが差し出される。
「こっちはおいしかったから、それもおいしいかもしれないな」
 うっと詰まり、思わず逃げを打った豪に、絶妙なタイミングで、やはり食べ終わったらしいロルが声をかける。
「じゃあ、やっぱりお前が――」
「ロルくんはこっち。あんな危ない賭けに乗ることはないでげすよ」
「おいしい?」
「リョウくん作でげすから、味は保証するでげす」
「いただきます」
 二郎丸から押しつけられたそれを慌てて渡そうとした豪の目の前で、無情にも藤吉が違う包みを差し出している。絶望にも似た声を漏らしてその場にしゃがみこんだ豪に、一同は声をあげて笑っていた。






 食事も終えて、海へと繰り出して遊びはじめた子供たちを眺めながら、土屋はそっと息を逃す。まるでずっと以前から互いを知っていたかのように、打ち解けてじゃれあっている様子が、にわかには信じがたかった。特に飛び入り参加となった少年は、今朝、合流したばかりのときには、ぴりぴりと張り詰めた空気を身に纏っていたというのに。
 海が珍しいのだと言っていた彼は、いまは浅瀬で立ち尽くし、寄せては返す潮に素足を晒して、じっと足元を観察している。先ほどまで一緒だったはずの豪は、藤吉と二郎丸を引き連れて、「探検してくる」と一言残してどこかへ行ってしまった。そこで、残りのメンバーと、それぞれ浅瀬やら近くに発見した岩場やらで、夕食の足しになりそうな食材を漁っている最中なのだろう。
 周囲をあらゆる思惑を持った大人たちに固められ、ただ表情を殺している少年を見たとき、やっぱり兄弟なんだな、と思ったことは誰にも言っていない。
 この子供と自分の養い子は本当に、嫌というほどよく似ている。
 自分が一体なにを要求されているのか、どんな立場に置かれているのか。それらを正確に察しているのだろう。自己紹介の間も、形式ばった飛び入り参加への礼の言葉を述べる間も、ずっと張り詰めて苛立ちを伝えていた空気が、付き添っていた大人たちが消えたとたん緩んだのが印象的だった。
 身にまとう空気が緩んでしまえば、表情の穏やかさもなにもかも、子供たちの見慣れた少年の常とやはりよく似ている。雰囲気の変化から、彼の内側でなにかのスイッチが切り替わったのを感じ取ったのだろう。豪が改めて名乗り直し、話をしたかったのだと告げて、相手がそれに応じた。
 そこから、双方の距離はぐっと狭まった。
 他愛のない話題ばかりだった。こうして見てみたらやっぱり似ているという感想からはじまり、先日の観戦していたレースに飛ぶ。あとはマシンとレースの話をごく一方的に繰り広げ、予定地についてからなにをして遊ぼうかという話をずっとしていた。
 ふと緩む口元を知りながらも、土屋はそれを取り繕おうとは思わない。自分が見ている子供たちは、こんなにもまっすぐで眩しくて、そして限りなくやさしい。そのことがとても嬉しくて、誇らしかった。
「どうか、したのか?」
 声をかけられて顔をあげてみれば、いつの間にか、目の前には隻腕の少年が立っていた。口調は一見ぶっきらぼうな感じもするが、彼という人間自体がそうでないことは知っている。丁寧な言葉は覚えたことがないのだと、ヘリの中で事前に断りを入れられていた。年長者に対する言葉遣いがなっていなくて申し訳ないと告げられ、その細やかな気遣いに、あたたかい気持ちで満たされた。
 どうして言葉遣いごときを不愉快に思うだろうか。君からの精一杯の礼儀は、きちんと受け取れている。
 再び思い出し笑いを深めて黙考に沈みかけた土屋は、不審そうに寄せられた眉に、ぎりぎりのところで我に返る。
「ちょっと、いろいろ思い出していただけだよ」
 君こそどうしたんだい、と問い返せば、少年は土屋の隣に座り込みながら「ひと休み」と返してきた。
「珍しく興奮しているみたいだ。ちょっと疲れた」
「興奮しているのかい?」
 どう見ても落ち着き払っているようにしか見えない表情の裏側では、意外と大きな感情の波が起きているらしい。頷きながら、視線はいまだ海ではしゃいでいる子供たちに据えたまま、ロルはゆっくりと単語を選び出す。
「海、初めて入った。同年代のやつとこうやって普通に話したり一緒にいたりするのも、初めてだから」
 右肘の先にわずかに残った腕が、左腕と同じように揺れている。そのまま両腕で膝を包み込もうとして、ロルは少しだけ右に、土屋と反対側によろけた。

 転んでしまうのではないかと危惧した土屋が受け止める体制をとるよりも早く、少年は器用にバランスを取り、首を巡らせてまっすぐに視線を向けてくる。
「ありがとう」
「え?」
 一体なにを言われているのかと、体の位置を戻しながら土屋が思わず目を瞬かせれば、深い蒼の瞳がふんわりと和んだ。
「色々あるけど、いまはとりあえず、マスコミがここに入り込むのを締め出してくれたこと」
「ああ、そんなことか」
 礼には及ばないと前置いて、土屋は瞳を逸らす。
「完全にはできなかったからね」
「でも十分だ。オレには、なんの力もない」
 応じた声には、悔しさとむなしさとが滲んでいた。
 二泊三日の予定のうち、マスコミによる密着取材をさせたいとのごり押しを、初日ぐらいはなしにして欲しいとの折衷案まで持ち込むのは、正直かなり骨の折れる作業だった。ロルとJとの接点が明らかになったということが、政治的なパフォーマンスにおける高い利用率を意味していることへの覚悟ぐらいはできていた。それでも、子供たちにせめて、気兼ねのない時間を提供してあげたかった。
 ほんの短い時間でもいいから、大人たちにいいように弄ばれるのではなく、大人の手で守られる時間を作ってあげたかったのだ。
「会いたかったけど、巻き込みたかったわけじゃないんだ」
 膝を抱き寄せ、小さく丸まりながら、ロルは言葉を落とす。
「知らん顔をしようかと思ったけど、でも。我慢できなかった」
「過ぎるぐらい我慢しているように見えるよ。君も、Jくんもね」
 唐突にはじまった懺悔にも似た告白に対して、土屋はちょうどいい言葉を見つけられない。精一杯に背伸びをして強がっている子供の、無力で儚げな一面を目の当たりにして、胸の奥がじりじりと焦がされるのを感じた。
 守ってくれる存在を失って、地獄絵図を生き抜いて。そしてようやく手にした邂逅を、この子は喜びの一色で塗りつぶすことすらできずにいる。どうすればもっと深い安堵を教えてあげられるだろうと、少し悩んでから肩を抱きこんであげても、子供はなんの反応も示さない。
「後悔はしちゃいけないよ。あのとき君たちが我慢をしすぎれば、こうして一緒に過ごせることもなかったんだ」
 そしてすれ違ったまま、きっと二人の時間が重なることは未来永劫、訪れることもなかっただろう。誰も知らないところで真実は破棄されて、知っている者の胸には見えない、癒えない傷を刻んでいたはずだ。それこそ、たった一歩の距離を踏み込むことができなかったことへの、果てしない後悔を添えて。
「君たちは、なにも間違ってなんかいないよ」
 ぽんぽんと軽く腕の中の頭を撫ぜて、土屋は深く微笑んだ。
「私の方こそ礼を言いたいぐらいだ。あのとき、彼の心を汲んでくれてありがとう」
 踏み出してくれて。彼に出会ってくれて。
「そのせいで、騒ぎに巻き込んだ」
「それ以上に、君に出会えたのは嬉しいことだよ」
 だから、謝るのではなく喜びあおう。それでいい。

 振り仰いできた蒼の瞳はまだもの言いたげだったが、タイミングよく響いてきた豪の声に、土屋はひとつロルの背中を叩く。
「ほら、呼んでるよ。なにか珍しいものでも見つけたのかな?」
 行っておいで、と少年を立ち上がらせて、大人はやっぱり笑いかけた。
 あわせて烈や他の面々のことも呼び、豪は少し離れた岩場で大きく手を振っている。
 しばらく、なにかに耐えるように眉根を寄せ、きゅっと唇を引き結んでいたロルは、ひとつ首を振って足の向きを返る。そして、踏み出す寸前にやはり振り返り、ひたと土屋を見据えて口を開いた。
「巻き込んじゃって、ごめんなさい。あいつの傍にいてくれて、ありがとう」
 これといって、彼の顔に表情は浮かんでいなかった。ただ、瞳の色が深く、底が見えなかった。
 軽やかに駆けていく細い背中をぼんやりと見送り、土屋はようやく、いま見た色に対して当てはめるべき形容を思いついた。
 昏さを孕んだやさしさを漂わせる、寂しげな色だった。






 豪たちが見つけたのは、岩場の中、奥深くまで通じているらしい洞窟だった。
「ここ、ちょっと入った感じだとけっこう深そうなんだ。みんなで奥まで探検してみようぜ!」
「危なくないかな?」
「そうだな。こういう場所は、奥が案外複雑に入り組んだりしていることもあるし」
 眉をひそめて慎重意見を述べたJに、リョウが賛否の定かでない声音でアドバイスを送る。風の吹いてくる気配もなく、奥行きは測れない。
「だから探検なんだろ?」
 少し遅れてやってきたロルは、どちらかといえば乗り気だ。瞳を眇めて暗い岩孔を覗き込み、楽しげな笑みを浮かべている。
「なにか目印になるようなものをつけながら進めばいいんじゃないでげすか?」
「あまり深すぎるようだったら、あきらめて戻ってくるだすよ」
 一番の渋面を浮かべて腕組みをしている烈に、藤吉と二郎丸も前向きな妥協案を出してくる。が、彼らのリーダーの眉間からしわは消えない。
「あ、そっか。兄貴、こういう暗いとこダメなんだよな」
 引きつってすらいる表情の謎解きをした豪は、間髪おかずにその後頭部を殴りつけられ、目尻に涙を浮かべる。指摘は的確だったが、あえて口に出されたくなかったらしい。そういえば、と烈の苦手なものを思い返していたロルを除く面々は、じゃあどうしようかと顔を見合わせる。
「いいよ、みんな行っておいでよ。ボクは烈くんと残ってるから」
「え?でも、Jくんはいいの?」
「うん、ちょっと怖いっていうのもあるしね。それに、なにかあったら、外で知らせる人が必要でしょ?」
 明るく笑いながら物騒なことをさらりと述べ、留守番を名乗り出たJは続ける。
「気をつけて行ってきてね」
 決定打の一言だった。
 一人で残るとしたら、と考えると内心、実は少し寂しかった烈も、仲間ができたので表情を緩めて探検メンバーの最年長者を見やる。
「リョウくん、よろしくね」
「まかせておけ」
 サバイバルな状況に最も馴染みの深そうな鷹羽兄弟がいれば、危険は回避して無難に戻ってこられるだろう。リーダーとしてというよりはむしろ、突飛な行動をとりかねない弟を案じる兄として、烈はリョウの力強い言葉に微笑みを返した。


 告げられた策略の内容は、あまりにありふれて陳腐なものだった。男はあくびと失笑をつい噛み殺し損ねて、受話器を少し、口元から遠ざける。普段はなにごとにおいても鈍感なくせに、変なところで過敏な神経を発揮する相手は、受話器越しにも違和感に気づいたのだろう。どうかしたのかといぶかしまれ、さらに苦笑は深くなる。
「いえ、ちょっとくしゃみが」
 お決まりの文句で見舞われ、さらりと返しながら、彼は話を先に進めた。
「それで十分だと思われます」
 表向きの工作やら人員の確保やら、その他諸々の裏方作業は、男の管轄ではない。彼はあくまで、白衣を身にまとう研究畑の人間だ。ただ、どうせならより面白味がある方がいい。抵抗する暇すら与えずにあれを処分するよりは、絶望の中で足掻いてもがく時間をとり、思いがけない余興を見せてもらう方がいいに決まっている。だから、経過を気遣うふりを装って相手に探りを入れ、最高の舞台をぜひ使ってくれるようにと、伏線をそこかしこに敷き詰めておいた。
 彼はすべてを自分で編み出したと信じ、そんな己の才気に陶酔すらしているようだが、すべては予想通り。手の中で踊らされ、それに気づいていない滑稽な相手を冷ややかに観察するのは、実にくだらなく、そしてそのくだらなさゆえに、実に愉快だった。
 それに、と、男の思考は尽きない。
 もしもあれの素顔を知ったなら、彼らはどんな顔をするだろう。思いを巡らせるのは、とてつもない愉悦を伴う。その身の潔白を信じているのだろう、哀れな犠牲の子羊としてのあれしか知らないのだろう彼らは、どれほどの嫌悪をみせるだろう。どんな形で恐怖を示し、そしてあれをどこまで絶望の淵へと追い込んでくれるだろうか。
 あれはきっと、なによりも誰よりも、彼らが巻き込まれるのを恐れているだろう。彼にすべてを知られるのを、彼を失う瞬間を、恐怖しているだろう。絶望を植えつけ、希望を剥ぎ取るたび、あれは思いもかけない結果を見せてくれた。だから、今回もまた、同様の反応を期待できるはず。
「ああ、ですが。少々よろしいでしょうか?」
 ごくわずかな時間で脳内にあらゆるパターンをシミュレートし終えた男は、最も面白い結果をもたらしてくれそうなオプションを思い立ち、受話器の向こうへと呼びかける。
「どうせすべてを処分なさるのでしたら、サンプルデータの収集にお付き合いいただきたいのですが」
 意味深な言葉の選び方に、相手はどういうことかと喰いついてきた。
「他にも数体、あれの結果を参考に改良を加えたプロトタイプがあります。それらを実地で活用していただきたいのです」
 万一のこともないわけではない。そのとき、当事者は口封じをしやすければしやすいほど好ましい。ならば、はじめから情報漏洩の可能性などないものを使えばいいだろう。
 秘密保持の絶対化と、より多くのデータ収集と、目的の完遂と。
 すべてにおいてちょうどいい駒が、手元に揃っている。
「目撃者はどうせいません。残骸が木っ端微塵になるよりも、原型をとどめた状態の方が、むしろ悲惨さを演出できるでしょうし」
 丁寧さを保ちながらも自信に満ち溢れた男の口調に、相手がそう時間をおかずして頷くことは目に見えている。もう一押しだ。
「こちらとしても、確認作業は楽な方がいいでしょう。どさくさに紛れて逃がさないためにも、銃火器を使用し、結果を一目でわかる状態にしておいた方がよろしいかと」
 名もない、顔も知られていない人間ならともかく、彼らは実に知名度が高いのだ。バラバラに吹き飛んだ手足の残骸よりは、恐怖に引き攣り、絶望に染まった表情が残っている方がインパクトがある。
 案の定、しばしの黙考をはさみ、電波に乗って承諾の意が返ってくる。
 もっとも、拒絶の返答など可能性すらありえない。頭は悪くないが、相手の本質は賢くもない。己の上層部に太いパイプを持つ男を恐れ、利用しようと企み、そして気づかぬうちに体よく利用されているのが精一杯なのだから。

 よもや相手は知らないのだろうかと、男は全体の流れを確認する声を聞き流しながら、考えに耽る。
 そう、確かにこれがうまくいけば、すべてを闇に葬ることができる。計画は陳腐ながらも堅実で、形としては理想的だ。ありえなさそうでいて最もありえそうだし、裏づけの資料も揃った。成功の確率は限りなく高く、失敗の確率はゼロに等しい。ただ、ゼロだと断言はできていないのに。
 あれは、頭が良かった。
 ずっと目をつけて観察していたのだから、男はよくわかっている。IQだとか偏差値だとか、そういう意味ではない。物事の本質を見抜く才能に長け、人の裏側を見る目をもっていた。表に出てくればどんなことになるか、いかに命の危険性を招くか、そのぐらいは承知の上だろう。それでもあえて派手なパフォーマンスを繰り広げているその胸には、なんらかの思惑があろうことを、どうして察せないのか。
 自分の考え出した案に酔っているのだろう相手は、上機嫌で通話を終えた。失敗の可能性など微塵も考慮していない、策に溺れた人間の鑑のようだった。先ほど彼は、自分を見舞って神の恵みを願ってくれたが、願うべきは自分のためだろう。
 手元に新たに揃えた資料には、あれと真逆の道を歩いてきた一人の子供の略歴がある。ずば抜けた知能指数に、わずかな時間のブラウン管を通じての観察だけでも察せるその思慮深さは、あれとの共通項を存分に感じさせてくれた。
 もしも自分の直観が正しいならば、と、男は唇を吊り上げる。
 きっと彼は、あれの置かれた場所の不自然さに気づき、その裏を見ようとしただろう。全容の把握はできないだろうが、なんらかのきっかけぐらいは察していよう。二つの思惑がうまく絡み合ったのなら、もしかしたら、別の道が見えるかもしれない。
「チャンスをやろう」
 電波の向こう、いまごろ早すぎる祝杯への思いでも巡らせているだろう彼は、聡明だけれども浅はかだから。すべてを半端にかじるだけで、知ろうとしなかった己を恥じればいい。気づくことはおろか、そもそも気づくための知識すらないに決まっている。男の提案した舞台には、なにもかもを破綻させかねない鍵があることに。
 一方のあれは、いつまでもこうして予測を裏切り、楽しませてくれる。手元にあった間も、離れてからも、死んだと思ってからも。
 認識番号は他にあったが、男はあれを、ローレライと呼んでいた。
 魅せつけ、死を運び、そして歌う。
 唯一の成功にして、偉大なる失敗作。
 だから、これは君へのささやかな敬意。
「ラグナロク、とでも呼ぼうか」
 この馬鹿げた作戦には、皮肉なこの名がふさわしい。
 神々と悪神たちの乱戦による、世界の黄昏。それを、君が望んだんだ。
 雌雄を決したいのだろう。ならばあえて、君を希望と絶望、相反する可能性の入り混じった、特別な舞台の上へと招待しよう。そこで勝利を得たものこそが、正義という名の大義を得ることができる。気づくも気づかないも勝手だ。ただ、賭けをしようではないか。
 気づき、掴むことができたなら君の勝ち。
 どれほどの犠牲が払われるかは知らないが、少なくとも、命は永らえることができるだろう。
 気づけたとして掴めなかったら、あるいは気づけなかったら、君の負け。
 期待を裏切った代価には、すべての喪失を。
 裏切られることには実に深い落胆が伴うだろうが、自分は礼儀を知っている。だから、その暁には、敬意をもって楽しかった時間への謝意を示そう。
 せめてはもはや絶望すら感じないように、君の時間も終わらせてあげよう。






 いつの間にやら洞穴の入り口付近までやってきていたロルの護衛役の二人に「ここは見ておきましょう」と言われたので、烈はJと共に、また夕食の追加品目漁りを続行していた。
 彼らの行動は、護衛というよりは見守るに近い。それだけこの島の安全性が確立されているということでもあるのだろう。あくまで子供たちの邪魔はせず、つかず離れずの絶妙な距離を保ってくれている。
 すでに上着もズボンも脱ぎ捨て、あらかじめ着ていた海パン一枚で二人は行動している。転んだ拍子に見えた海底の様子に、潜りこんでもみるものの、食用に適した素材などそう簡単に見つけられるものでもない。結局、波と戯れるだけの結果に終わろうとしているが、それもまたよし。
「あ、烈くん!」
 烈よりも息が長く続くため、より深いところまで潜りこんでいたJが、海面に顔を出すと同時になにかに気づいて、烈の背後を指で指し示した。反射的に振り向いた烈は、無事に戻ってきた仲間たちに、笑顔を浮かべてJと共に砂浜へ戻る。
「どうだった?」
 不満そうな豪の顔から、あまり物珍しくもなかったのだと判断した二人だったが、烈に問いに返ってきたのは、予想だにしない一言だった。
「行き止まりには行き止まりだったが、なにかあるらしい」
「どういうこと?」
 抽象的なリョウの言葉に、Jが首を傾げれば「俺もよくはわからないが」と眉をひそめる。
「扉があった。開きそうにないから退き返してきたがな」
「扉?」
「怪しそうなでっけーやつ!」
 中には入れればもっと面白かっただろうにと、烈の反芻に対して豪は不満げに唇を尖らせる。
「政府の島だし、きっと、なにかの施設とかなんじゃない?」
「まあ、そんなところでげしょうな」
「それより、なにか収穫はあったんだすか?」
 Jの無難な発想にさもありなんと藤吉は頷き、探検出発時よりもさらに身軽になっている留守居二人組に、二郎丸が問いを返す。最初は確かに食料を漁っていたが、途中から目的を忘れて遊んでいた烈とJは、思わず目を見合わせて苦笑をかわす。
「全然、なにも」
 図らずも異口同音になってしまった二人に声を上げて笑い、洞窟探検組もまた着衣を脱ぎ捨てる。
「どっちが深く潜れるか、競争しようぜ!」
「臨むところだす!!」
 リーダーの一喝を受けて、かろうじて海に飛び込む前に来ていたものを土屋が座っているあたりへと持ち運びながら、弟たちはさっそく火花を散らしていた。

 お守りを兼ねてやはり海に出ている烈やリョウを尻目に、ロルはJと二人、土屋の元へと向かう。ロルは普通の服しか身につけていないため、これ以上いたずらに塩水まみれになることは避けたかったし、Jは炎天下に長時間いたためか、若干、日射病の様相を呈してすらいた。
「大丈夫か?」
 わずかに寄せられた眉根とこめかみにもっていかれた左手に気づき、ロルは隣をゆっくりと歩くJを覗き込む。
「平気。少し休めば、元に戻るよ」
「ふうん」
 にこりと気丈に微笑んだJに、ロルはそれ以上の追求をしようとはしない。
 正直なところ、ロルはJのことをそれほどはっきり憶えていたわけではなかった。規則正しく過ぎ行く時は、どれほど大切な思いも記憶も、すべてを等しく色褪せさせる。掬っても抱き込んでも、どれほど足掻いても指先から零れ落ちていくことに恐怖し、より鮮明に刻もうと願えば願うだけ、記憶は薄れ、感覚だけが際立っていった。
 おぼろげな記憶。あいまいな思い出。
 霞のかかったように脳裏に残るいくつかの断片に、それでもすべてを懸け、縋りついて生き抜いてきたのは確かだ。あらゆるものの拠りどころは、神でも現実でもなく、彼だった。いつか再び、きっと出会えるから。二人の道が違われる寸前、そう約束したことだけが、ロルの中の不変の真理だった。
 でもそれは、自分の独りよがりに過ぎなかったのではないかと。変わるはずのなかった真理が、ここ数日で揺らいでいる。
 つれてこられた国で、ようやく見つけた彼は、とても幸せそうだった。
 生きていてよかった。幸せそうでよかった。光の中で、どうか穏やかな日々を送ればいい。そう思うのも事実だったが、反面、表面になどとても出す気になれない、暗い感情が渦巻いたのも事実だった。
 自分の得ることの叶わなかった、すべてを持つ相手。光の中の彼と、暗闇に紛れる自分。暴れ、ともすれば溢れ出しそうになる感情の正体が嫉みだと気づくのに、さして時間はかからなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
「え?」
 つらつらと物思いに耽っていたロルは、腕を引かれて顔を上げる。いつの間にか足は止まっており、不審そうに下から見上げてくる、自分とよく似た顔が、目の前にあった。
「どうしたの?突然立ち止まったと思ったら、怖い顔して」
「いや、なんでもない」
 ゆるりと首を横に振ると、ロルは納得など到底いっていないと目で訴える相手を振り切り、足を踏み出す。
「なんでもないって顔じゃないよ。どうしたの?」
「本当に、なんでもない。くだらない考え事」
「教えてくれないの?」
「いまは駄目だ」
 しばらくしてから小走りに追いついてきたJは、不満そうだったが、それでも渋々頷いてくれた。「じゃあ、教えてもいいと思ったら教えてね」とだけ念押しし、残り数メートルの距離に近づいた保護者の元へと先に駆けていく。


 自分が彼に嫉みを抱いているのだと自覚した瞬間の、絶望にも近い悲しみは、いまだ鮮明に胸に残っている。そして同種の哀しみが、こうしていまも、ロルをさいなむ。
 Jはきっと、自分を必要となどしていないだろう。ロルにとって、精神のよすがですらあった存在は、帰る場所も共にいる人間も、すべてを手にしてやわらに微笑んでいる。それは喜ばしいことであると告げる理性とは裏腹に、感情は悲しみへと傾いていく。
 自分にとって、彼は生き抜くのに必須の存在で、彼にとって、自分は生きるのに必要でもなんでもない存在。その事実を直視して受け入れるには、いまの自分は弱すぎる。
 ロルは、己が自身を正しく客観的に把握していることを知っている。
 だから、すべてをあわせた上で、彼のいまの幸福を嫉んで羨むのでなく、更なる幸福を願いたいと祈る。
 彼の存在は、最後の砦。
 その幸せを見れば、少しは救われるから。自分の分まで笑っていてくれるなら、少しは赦された気になるから。心が満たされるから。
 自分に叶わなかったすべてを、せめて彼には享受してほしいと思う。悲しみも、絶望も、自分が生きるために直面し、踏み倒してきた感情は、知らない方がいい。すべての影は、罪にまみれた自分が引き受けるから。
 そして同時に、彼は、胸の奥底から湧き出すもう一つの願いを知っている。
 どうか、自分を忘れないでほしい。
 自分という存在が生きていたことを、彼にだけはせめて。

 談笑しながら水をあおるJに追いつけば、土屋はにっこりと笑い、ロルにも水の入ったペットボトルを差し出してくれる。
「喉は渇いていないかい?」
「ありがとう」
 素直に受け取って片手で器用にキャップを捻れば、いつの間にかからからに渇ききっていた喉を、冷たい潤いが満たしていく。一息に相当な量の水を飲み込んだロルを、土屋とJは「いい飲みっぷりだ」と笑顔で包み込む。
 ここにいたい。
 自分が彼らと共にいることを許された、残されているだろう時間を思い、初めて惜しいと思う。
 いたい、一緒にいたい。
 あたたかくて穏やかで平和で、なにより幸福なこの時間を、もっと共有していたい。やさしい空気に包まれていたい。彼らの隣に存在させてほしい。
 望みだせば際限なく、思いは貪欲になにもかもを欲する。
 彼の持っているものを、少しでもいいから、自分も手にしたい。居場所も、時間を共有できる相手も、自分だって手にしたい。
 叶わない願いほど切なく、届かない祈りほど狂おしい。
 目が眩む。視覚も聴覚も平衡感覚も、自己を認知するあらゆるパーツが、ゆるやかに奪われていく。
 呑まれてはいけないと知っていても、いまだけ、この一時だけならば。熱気と日差しにあてられたのだと、そう言い訳ができるだろうか。
「どうかしたの?さっきから、ちょっと変だよ」
「もしかして、疲れすぎちゃったかな?少し休んだらどうだい?」
 だらりと下ろした手でペットボトルは握りしめたまま。うつむいて表情を隠し、感情の奔流を押し殺そうと努力しているのに、やさしさが入り込んできて、少年の足掻きを水泡へと帰す。心の底から泣き叫びたいと思うのはずいぶん久しぶりのことだと、ぼやけた視界をまぶたの向こうに押しやり、彼はやけに冷静な声が脳裏に響くのを聞く。
 ロルはこのときようやく、把握が追いつかず放置しておいた、心の中の澱みの正体を悟った。これはきっと、己の前に敷かれた道を呪い、届かない高みへと去ってしまった相手に焦がれ、そしてすべてをひがむ気持ち。
 信じることなどできるはずもない、神なる存在を恨む思いなのだろう。






 痛みに耐えていられた時間は、そんなに長くなかったと思う。
 しばらく走ったところで意識が途切れ、道端に倒れ付したところまでは覚えている。けれど、それまでだ。
 次に意識が戻ったとき、なにかに横たえられているのはわかったが、それ以上のことはなにも理解できなかった。体中が重くて痛くて、あまり長い間、起きていられなかった。すぐに沈みゆく意識の端に、人の声を聞いた気がした。望む声が聞こえたなら、きっと夢見も最高だったろうにと。泥のような眠りに落ちる寸前、そんな、のんきなことを考えていた。
 ようやくきちんと目が覚めたら、助けてくれたらしい老婆が覗き込んできて、四日も眠り続けていたのだと教えてくれた。とにかく身体を起こそうと身じろぎをしたものの、両腕の長さが不揃いだったため、支えを失ってぐらつき、そのまま倒れこんでしまった。その段になってようやく、片腕を失ったことを思い出した。
 途中から感覚の途絶えている右手を持ち上げてその事実を確認している自分に気づいたらしく、水を持って戻ってきた老婆は、慌てたように慰めの言葉をかけてきた。
 絶望してはいけないよ。生きていられただけでもありがたいんだよ。
 あんたは運がよかった。あの町は、全滅だと思ったのに――。
 言いながらなにを思ったのか、老婆はコップを机に置き、そっと袖口で目尻を拭った。どうやら、自分は近くでなにかしらの犠牲となった集落の、生き残りと思われているようだ。道端に倒れていたところを、この村の子供に拾われたのだという。
 事実とは相違があるものの、面倒な説明をする気にもならず、老婆の言い分をそのまま借用することにした。なにより、手傷を負った身を休ませる場所を幸運にも入手できたのに、それを手放すような愚は犯したくなかったのだ。

 なにもかもが不足している情勢下で、足りているのは半端な武器ぐらいなもの。薬も包帯もないため、腕の先は薄汚れた布で適当に縛っただけだ。傷口は絶えず膿み、骨も剥き出しのまま。痛みも熱も引かず、回復を大いに妨げる。それでも、持ち前の体力と気力、叩き込まれた知識と経験のおかげか、三日も休めば簡単な雑用くらいならできるほどまでに回復した。
 それから数日を経て、雑用の一環で、使えそうな武器をはじめ、適当に拾い物をしてくるとの名目つきで、腕を失っただろう現場を探しはじめた。特にこれといった理由もなかったが、どうしても、うやむやの内に立ち去ったあの場をもう一度、訪れたかったのだ。
 我がことのように案じてくれる村の人間は、自分の目で見ておきたいのだという言葉を受け入れ、倒れていただいたいの場所を教えてくれた。
 意識を失うまでの己の行動は、なんとなくではあるが覚えていたため、それを手がかりに少し歩き回れば、そこは案外簡単に見つけることができた。ごつごつとした岩が転がっている、生き物の気配など感じられない砂地。地獄絵図の痕跡は、そこここに転がっている武器の残骸ぐらいなものだ。
 なにものかによって、持ち去られたのだろう。屍も残っていなかったが、使いものになりそうなものも特に、なにも落ちていなかった。
 乾いた熱風が吹き渡る。
 日よけにと頭からすっぽり被っていた布をわずかにずらし、ゆるりと口を開いた。唇から零れ落ちるのは、ただ静かな旋律。いつ、どこで聞いたかはもはや覚えていないが、残されたわずかな記憶の断片のひとつであることは確かだった。
 忘れまいという思いを込めて。そして、散り逝った命たちへ手向ける、せめてもの償いと贖罪にふさわしいと思って。
 聞いてほしいとも、許してほしいとも思わない。それでもどうか、これほどに悲しく残酷な夢の続きではなく、いまは安らかな眠りにたゆたうように。願いと祈りを込めて、音を紡ぐ。歌をもって、肉体から切り離された魂を送ることに決めていたのだ。


 一日中遊びまわり、疲れ果てた子供たちが日の暮れたあとどのような状態になるかといえば、ぐったりとベッドに沈み込むだけである。夕食も早々にすませ、年少組が目をこすりはじめた段階で、一向はあっさり各寝室への引き上げを決定した。
 日程はまだ、あと丸一日と半は残っている。ここで無理をするより、明日に備えて体力を温存しようという考えだ。
 やわらかく身を包むベッドに潜り込んだまま、ロルは気だるくも冴えている目を凝らす。暗がりの中、窓の外からさす月明かりのおかげで、隣のベッドで横になっているJの寝顔は見ることができた。
 しっとりと冷ややかな光に縁取られる相手を見るたびに感じる、鏡のようだとの陳腐なたとえのはまりように、少しだけおかしくなる。見かけはまるで同じようで、そして正反対の存在。彼が穢れを知らない月ならば、自分はそよ風にすら姿をかき消される水面の月。眩しさに焦がれ光を映す、その実は深く暗い影。
 鏡という表現は、自分たちを揶揄するのにあらゆる意味でぴったりだと思えたのだ。
 内面が荒れ狂っているロルとは対照的に、緩やかに上下する背中と、わずかに開かれた唇からこぼれる穏やかで規則正しい寝息に、動悸が少しずつ治まっていく。
 少しだけ眠ろうと考えて目を閉じた自分を、荒れてしまった呼吸を落ち着けながら、ロルは冷静に思い出した。二つのベッドの間に置かれた時計を見れば、眠ることに決めてから一時間を少し過ぎた程度であることが知れる。
 いつでも周囲にざわざわとうごめいていた、捉えようのない雑音は、ここにはない。耳朶を打つのは潮騒と風の音。あとは、傍近くから聞こえる、小さな寝息だけだ。久しぶりの静かで違和感の少ない空間に、思いがけず深く眠り込んでしまったらしい。額に浮いた嫌な汗を着衣で拭いながら、少年は静かに身体を起こす。
 夢を見るのも、実に久しぶりのことだった。
 遠いとは言いがたい記憶の再生に、傷口の痛みが戻ってきた気がして、ぎりりと二の腕を握り締める。呻き声を殺しながら背を丸め、これは幻痛だと、ひたすら己に言いきかせる。
 あの日、自分は体の一部を失うことで、枷の一部から逃れることができた。違和を感じ、齟齬を知りながらもそれでも繋がれていた契約が、破られるきっかけだった。見ることも知ることも叶わなかったろう真実の一端を察する足がかりとしては、腕の一本ぐらい、安い代価だったのかもしれないとも思う。
 しばらくすれば痛みは消え、すべては元に戻った。同室の相手を起こしてはいまいかと盗み見て、変わらぬ寝息にホッと息を逃す。

 動き出さなくてはならない。
 この場に入り込むことができたのは、ひとえに彼のおかげだ。たまたまつれてこられた場所に目的のものがありそうなのが、偶然なのか仕組まれた結果なのか、それはわからない。いずれにせよ、早々に決着をつけるに越したことはない。気づかれる前に、巻き込んでしまう前に。すべてにけりをつけなくてはならない。
 気配を殺すことなど、慣れたものだ。スプリングのきいたベッドは軋み音ひとつ立てず、シーツをあたためていた主を黙って送り出す。
 これ以上巻き込む気はない。利用する気もない。
 それでも結局、自分は彼を騙して利用していることになるんだろうと考え、ロルは見下ろす静かな寝顔に、言いようのない罪悪感に駆られる。
 許しを願うことはとっくの昔に捨てたし、いちいち謝罪をしていても切りも意味もないから、それもやめた。自分の行為が、そんなもので贖いきれるほど軽いものではないことぐらい、自覚はある。謝罪の文句を口にするだけ、それは相手への冒涜になるだろうとも考えている。いまでも、その思いに変わりはない。その一方で、矛盾したことを思う。
 ついに言葉が唇を割ることはなく、ぐっと眉根を寄せて寝顔を網膜に焼きつけると、ロルは音もなく部屋を忍び出た。
 どれほどの言葉を尽くしても謝りきれない。許されるわけなどない。それでもどうか、もう少しだけ。自分が罪の上塗りをするのを、受け止めてはもらえないだろうか。
 憎んでくれてかまわない、恨まれるのは当然のこと。だけどもう少しだけ、巻き込んでしまうのを、許容してはもらえないだろうか。
 火の粉など、微塵たりとて降りかからせたりしない。すべてを投げ打ってでも、絶対に守り抜いてみせる。だから、だからどうか。
 なにも気づかずにいてはくれまいか。
 たとえ傍にいることが叶わなくなっても、その穏やかな笑顔を、自分に向けていてはもらえないだろうか。
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