■ 第一章 --- 途切れた糸
 控え室に戻り、それぞれがマイペースにユニフォームを脱いでいく中、メンバーの中で唯一毛色の違う少年が、上着を脱いだところでぴたりとその手を止めた。
「J?どうした?」
「あ、ううん。なんでもない」
 隣で黙々と着替えていた背の高い少年に問われ、Jと呼ばれた少年は着替えを再開する。
 ここは、第二回ミニ四駆世界グランプリ開催の地である、アメリカはフロリダ州のとあるスタジアム。Jに先ほど話しかけたのは、長い黒髪を一本に縛った、精悍な顔立ちの少年。名前を鷹羽リョウという。彼らは、グランプリ日本代表チームのメンバーなのだ。
「で、なんだすか?」
 ひょっこりとリョウの影から顔を覗かせたのは、鷹羽二郎丸。チームのアシスタント役であり、リョウの弟だ。
「なにか気になることでもあったの?」
 続けて声をあげたのは、リョウとはJをはさんで反対サイドにいる小柄な赤い髪の少年。星馬烈、彼らTRFビクトリーズのチームリーダーを務めている。
「まあ、あったといえばあったけど、やっぱり大したことじゃないから」
 わざわざ言うほどのことでも、と言葉尻を濁したJに、今度は烈のさらに向こうから声がかかる。
「でも、Jくんの大したことじゃない、は大したことが多いでげすから、もしかまわなければ聞いてみたいでげす」
「そうそう、藤吉の言うとおり」
 最後の声は、藤吉と呼ばれた一番向こう側の少年と烈との間から聞こえてきた。順に、先の声の主を三国藤吉、一見サルに良く似ているが、実は世界でも屈指の大財閥の御曹司と、青い髪の星馬豪、烈の年子の弟で、ビクトリーズのエースだ。
「豪のやろうが藤吉に賛成するだなんて、珍しいこともあったもんだすな」
「そうでげすね、なにか悪いものでも食べたんでげすか?豪くん」
「あんだとーっ!!」
 日ごろから低次元な口論の絶えない豪と籐吉の意見の一致に二郎丸が茶々を入れれば、さっと便乗する籐吉。そして、あっさり簡単な挑発に引っかかる豪。ぎゃあぎゃあと騒はじめてしまった年少組に烈がこめかみを引きつらせていると、彼らの後ろから苦笑交じりにかけられる声があった。
「ほらほら、先に着替えちゃったほうがいいよ…。で、Jくん。なにかあったのかい?」
「博士まで。ですから、大したことじゃないんですってば」
 声の主は、室内で唯一の大人。彼は、土屋博嗣といい、ビクトリーズの監督兼、Jの保護者だ。穏やかでほんわかとしたメガネの向こうの優しい笑顔と、いつでも手放さない白衣。きわどい生え際のラインが年齢を物語っている。

「このままじゃ気になって、午後のレースに集中できないかもしんねー」
 着替えといっても、彼らは一日がかりで行われるレースの合間の休憩を利用して、汗を吸ってしまったインナーを取り替えに来ていただけなのだ。土屋の助言に従って着替えをすませた豪が、とっくに着替え終わり、控え室に置いてあった小物を移動のためまとめているJにまとわりつく。
「ちょっと、スタンドの様子が気になっただけだよ」
 しつこく食い下がってくる豪に、Jは曖昧な笑みを添えて答えを返した。
「スタンド?知ってるやつでもいたのか?」
「ううん。そうじゃなくて、いつもより警備が厳重だなあ、と思って」
「それなら、マスコミも多いよね」
 Jの言葉に、烈も続けて考えるような素振りを見せた。
「確かに。ここまで注目が集まるほどのものじゃないのにな」
 リョウの同意を受け、Jは目線を流して頷いてみせる一方、思考の海に潜り込む。それだけではない。警備が単に厳重だっただけなら、方針が変わったのかと考えて終わりにすることもできる。だが、明らかにこんな平和で子供だらけの空間には不釣合いな、あからさまに硬い雰囲気をかもし出す人間がそこかしこにいるのだ。
 軍や警察の関係者といった風情の彼らが、こんなところに来る理由など特に心当たりはない。以前、どこかの国の王子様がお忍びでレースの観戦に来ているらしいと聞いたときに匹敵するほどの警備体制だ。ならば、それほどの重要人物が訪れているのだろうか。
 現在の合衆国内において、そこまでの警備をつけられる人物の候補は、大統領か、ハリウッド級のスターか、それともあるいは――。
『お知らせします。まもなく、午後の部のレースが開始されます。参加レーサーおよび関係者のみなさまは、至急ベンチへと移動、準備をお願いします。繰り返します。関係者のみなさまは、至急、準備をお願いします』
「えっ!?もうそんな時間?」
 平坦な女性の声が告げる内容に、烈が慌てて壁の時計を見やり、まだ準備の整っていない弟をせかす。思考を中断されたJは、何度か瞬きを繰り返すと、ひとつ頭を振って軽く息を吐いた。自分をなにかものいいたげな目で見つめている土屋に軽く小首をかしげ、ベンチへ移動しようと促す。そして、荷物を手に率先して控え室を出てしまった。
「それはおらの仕事だす」
「荷物多いんだし、ボクも手伝うよ」
「でも、おらが持つだす!」
 慌てて後を追った二郎丸がJに言い募る声が、だんだんと遠ざかっていく。言い合いのやまない星馬兄弟が小走りにその後に続き、ため息をつきながら藤吉が部屋を出る。
「さて、われわれも行こうか」
「博士」
 残された土屋がじっと動かないリョウを振り向けば、静かに落ち着いた声が返される。
「あいつ、この前の週末あたりから、様子が少し変だと思います」
「Jくんかい?」
「時々ああやってなにか考え込んでるし、思いつめたような顔をしているのも見かけます」
 チームの子供の鋭い指摘に、土屋は言葉を探す。
「そうだね」
 もともと一人でいろいろ抱え込むタイプの子だけど、今回のはちょっと傾向が違うようだ。それには土屋も気づいていた。
 ふだん口数の少ないリョウがわざわざ言ってよこすのだから、他の子たちも少なからず最近のJの様子に違和感を覚えているのは確かだろう。
「私もなるべく気をつけるようにはしているんだが、またなにか気づいたことがあったら、教えてくれないかな?どうも彼は、無理をするのが得意みたいでね」
「はい」
 素直に頷き、リョウは「時間を割かせてしまい、すみません」と律儀に会釈をしてチームメイトたちの後を追っていった。
 リョウは週末といっていたが、正確にはもっと前からだ。今大会がはじまってから間もない頃から、Jはなにか重たいものを胸のうちに抱え込んでいた。それがいままでの間に、ゆっくり時間をかけながら徐々に表面化してきたように思えた。
「とにかく、後で少し話をしてみるか」
 なにかにつけ溜め込むきらいのある少年に手を差し伸べる時期を、決して逃さないためにも。
 ひとり残された部屋で大きく深呼吸をすると、土屋は照明を落とし、喧騒の響く廊下へと滑り出ていった。


 一年を通じて行われる大会の中で、もっとも大きなインターバルとなる夏期休暇を前にした最後のレースは、全参加チームを二分してのドリームチャンスレースだ。ここで一位を取ることができれば、ポイントは五点の加算。逆転を狙うチームにもいまのポジションを固めたいチームにもおいしい、まさにチャンス満載のレースである。
 日ごろのレースよりもこういったリスクの大きいレースで本領を発揮しやすいのは、第一回大会から共通するビクトリーズの特色である。今日もまたそのジンクスを裏切ることなく、豪の一見めちゃくちゃな独走により、チームは見事首位を勝ち取った。上半期の細かな失点を補うには、十分とは言わないものの嬉しいポイント加算だ。
 勝利の余韻に浸りながらベンチから控え室に戻ろうと慌しく行動していたビクトリーズの面々は、しかし、荷物を抱えて顔を上げたまま動こうとしないチームメイトに気づくと、視線を集めて動きを止めていた。
「Jくん?どうかしたのかい?」
 とりあえず近場にいた土屋が問いかけるが、Jはその蒼い双眸を見開いたまま、周囲のことなど完全に意中にない様子でなにかを凝視している。
「なにかあんのか?」
「VIPルームだよね?」
 ちょうど彼らのいるベンチの真向かい上空には、ガラス張りの、FIMA役員やその他の特別な観客専用の観戦室がある。どうやらJは、そこを見て硬直しているらしい。判然としないが、ガラスの向こうにはいくつかの人影がある。特別招待客でもいたのかもしれない。だとしたら、やたら厳重だとJの指摘していた警備にも納得がいく。ぼんやりそんなことを考えていた烈は、ゆらりとようやく動きをみせたJに焦点を合わせた。
「ごめん、なんでもないよ」
 詰めていた息を細く吐き出しながら、彼はようやく言葉を紡ぐ。荷物をきちんと抱えなおし、Jはチームメイトににこりと微笑んでみせた。
「でも、何かあったんじゃないの?」
「いいんだ。きっと、ボクの気のせいだから」
 食い下がる烈にも、もの言いたげな豪にも、Jはちっともなびかない。
 さあさあ、と止まってしまったベンチ内の時間を動かして、中に戻ろうと彼は周囲を促した。貼り付けられた笑顔はやわらかいが、こういうときのJは、誰がなんと言おうと決して自分を曲げたりしない。
 意外に頑固な性格を知っていればこそ、釈然としない空気を残したまま、彼らはスタジアムの内部へと足を向けた。






 関係者以外立ち入り禁止のスタジアム内は、さすがに子供たちが数十人集まっているだけあり、騒然としていた。かたや敗北を悔しがる声もあれば、ライバルチームのメンバーと氷点下の嫌味の飛ばしあいをしている声もある。もっとも、なんだかんだと言いつつ、みんな仲がいいのが大会メンバーの良いところだ。
 サーキットではしのぎを削りあうライバルでも、いったんそこを下りれば大切な友人同士。かけがえのない、国境を越えた友情がある。
「お疲れさん!」
 軽いノリで、姿を見せたビクトリーズに真っ先に声をかけてきたのはエッジだった。
「まったく、相変わらずクレイジーな走りをしてくれるぜ」
「そっちこそ、また新しいモーターに変えてくれたくせに」
 シュミットとの嫌味の応酬戦から離脱し、続けたのはブレット。かろうじて勝利の軍配はあがったものの、新兵器の投入に苦戦させられたことを思い出しながら烈が返せば、肩をすくめて「強者からの嫌味か?」ときた。
「まあ、君たちは勝てなかったんだからそうなるよね」
 なんと反論したものかと烈が思考をフル回転させている脇から、あはは、と軽やかな声で痛烈な一撃。思わぬ直球ストレートにこめかみを引きつらせるブレットを尻目に、ビクトリーズ、アストロレンジャーズとは別ブロックで首位を奪い取っていたミハエルがひょっこりと顔をのぞかせる。その背後には、お約束のようにシュミットとエーリッヒが控えている。
「お疲れさまです」
 やわらかくエーリッヒがその場に声をかければ、目元を意地悪く細めたシュミットがさっそく傷心のブレットをいじりにかかる。
「レツくん。今日の公開練習、一緒だったよね?」
 ほどほどにしておくように、と自チームの参謀役に本心の見えないアドバイスを送ったミハエルは、天使のごとき微笑みを添えてビクトリーズのリーダーに話を振る。
「え、そうなの?」
 スタジアム内に戻るなり、事務処理と報告書類の提出のため姿を消した土屋の連絡不備を呪いながら、烈は背後を振り仰いだ。豪をはじめ、他のメンバーはそれぞれ適当な相手と話に花を咲かせているが、そこにはきっと一人、自分のためにひっそりたたずんでいてくれるメンバーがいるはずだ。
「Jくんは?聞いてた?」
「てっきり烈くんも知っているものとばっかり…」
 烈の予想通り、その場で静かにやり取りを聴いていたJは、こんなことなら教えておけば良かったと眉根を寄せて謝罪の文句を続けた。謝る必要はないと軽く流した烈は、雑務の追加にげんなりしながらも、そこはさすがにチームリーダー二年目の経験値の高さ。顔をあげて、ばらばらに散っているチームメイトを集め、次の場所に向かうべく指示を飛ばす。
「ボクらも行くよ」
 さっとミハエルが踵を返せば、気づいたアイゼンヴォルフのメンバーがその後に続く。
「今日は僕たちだけ?」
「ウチもだ」
 なんとなく隣を歩くミハエルに烈が疑問を飛ばせば、反対サイドから静かな声が落とされる。いつもなら五分の戦いを繰り広げられるシュミットを相手に、今日ばかりは撃沈したブレットだった。


「豪華ですねえ」
「豪華というか、仕組まれたんでしょうけどね」
 人気、実力共に上位を争う三チームが揃い踏みとは、なんともおいしい取り合わせである。部屋の上部に設置された通路から、コース上の子供たちを見渡しつつ土屋が呟けば、苦味をにじませたデニスの声が応じる。
 公開練習といっても、内実は単なる内輪のレースと個々の練習走行だ。情報戦でもあるWGP本戦に影響のあるようなことはしない。
 ファンサービスとPRをかねたプロモーションのようなもので、その辺は子供たちもきちんとわきまえている。見られて困る技や新パーツは使用せず、単純にレースを楽しむ。腹の探りあいも情報収集もなし。マスコミ向けの、純粋なチーム間交流イベントだ。
 本来ならレース前の調整などに使われるコースルームでビクトリーズ、アストロレンジャーズの両監督と合流した子供たちは、軽い打ち合わせの後、いまは思い思いにマシンを走らせている。
「見学者の話は聞きましたか?」
「ああ、VIPルームの客でしたよね」
 なぜか声を落として呟くデニスに、思わず土屋もトーンを落としながら頷いた。
 レース後の公開練習の担当に関しては単なる土屋の連絡ミスだったが、見学者の話は先ほど書類を提出に行ってはじめて聞かされた。なんでも、今日のレースには特別招待客があり、その客が練習の見学に訪れる、と。
「子供たちにも、一応教えておいたほうがよかったでしょうか?」
 どうやら個々の走行は切り上げ、レースをすることにしたらしい。さっさとコースから退散したメンバーはマスコミからの簡単なインタビューをこなし、レースに参加する面子は仲の良さとミニ四駆の楽しさを存分にアピールする。実によくできた構成だが、別に世間での受けを狙ったわけでもなく素でこなしているのだから、この子たちは末恐ろしい。
「いや、教えたところで、騒ぎになるだけでしょう」
 特に、一部のメンバーによって。
 デニスが何気なく切り返してきた言葉が暗に示す相手は、ビクトリーズのちびっ子たちだ。確かに、客は子供たちに大きな衝撃を与えかねない話題性を備えている。理性の先行する年長組メンバーはともかく、年少組の反応は、土屋にも予測がつかない。なんとなく申し訳なくなり、土屋は意味もなく視線をさまよわせる。
「まったく、選挙のためのいいキャンペーンマスコットだ」
 そんな土屋に気づいているのかいないのか、デニスは続けて低く言葉を吐き捨てた。日ごろの穏やかで冷静な様子からはなかなか見受けられない、感情に駆られた声だった。
「FIMAも話題づくりに利用する気でいますしね」
 言わんとすることを正確に察した土屋もあわせて首肯し、二人の監督たちは重くため息をつく。
 綺麗ごとばかりでは世の中は立ち行かない。そんなこと、生きた年数を重ねた分、骨身に沁みてわかっている。だが、つくづく嫌気のさす瞬間というものもある。
 あの客人をあらゆる思惑と駆け引きの交錯する渦の中に巻き込んでいる大人たちのやり方には、眉根が寄るのを止められない。自分たちがそんな大人と同じ側に立っていることを口惜しいと、何の力も持てないことを悲しいと、そう思う。
 と、彼らの背後から複数の足音が聞こえてきた。もたれかかっていた柵から身を起こして振り向けば、一人の若い男と、スーツを着たいかつい二人の男たちが入り口に姿をみせたところだった。






 案内してきたらしいFIMAの職員、たしか広報担当だったはずの男が一歩前に踏み出し、土屋とデニスに、連れ立ってきた見慣れない男たちを簡単に紹介する。言葉を受けて二人が軽く会釈を送れば、スーツの男たちも申し訳程度に頭を下げてくれた。
「名誉会長はこちらにはおいでではありませんか?」
 互いの存在認識が終わったところで、職員の男が慌てた口調で二人の監督を見やった。まったく身に覚えがなかったため、知らないと返せば男は蒼白になって声を失っている。
「どうか、しましたか?」
「彼を連れて消えてしまったんです」
 言葉をうまく使えずにいる職員はとりあえず放っておき、スーツの男の一人が淡々と状況を説明してくれた。
「警備システムと簡単なスケジュールの確認をしている間、レースやらマシンやらの話をしていたようなので少し目を離したら、その隙に」
 次に声を失うのは、デニスと土屋の番だった。なぜわざわざこんなにも場にそぐわない男たちがスタジアムを訪れているかというと、それは話題の“彼”を護衛するためだ。そんなこと、いかに鉄心が常識から外れた次元で思考と行動を成り立たせていようとわかっていそうなものなのだが。
「スタジアム内に不審者が入ったという情報はありませんが、万一のことがあれば困る相手なので」
 こうして探し回っているらしい。
「心当たりは一通り見てまわりましたが、どこにもいらっしゃらないんです」
 ようやくどこか遠くに飛んだ状態から戻ってきた職員は、いまにも泣き出しそうな表情だった。それはそうだろう。あの老人のことは、一番付き合いの長い土屋にもいまだ計り知れず、老人が連れ出した彼に万一のことがあれば、FIMAの責任は重大である。
「監視カメラで探したほうが早くありませんか?」
「映っていないんです」
「ああ、鉄心先生なら…」
 どこにいそうかわからないかと問われてデニスがそっと言葉を返すも、間髪おかずに否定される。土屋は妙に納得するだけだ。鉄心なら、監視カメラの隙をかいくぐってどこかに雲隠れして、周りが慌てふためく様子を飄々と楽しんでいるのがよく似合う。
「でも、その彼が一緒なら、彼の興味を持った場所が妥当じゃないんですか?」
 鉄心とて、子供の嫌がるようなところに連れて行ったりはしないだろう。もし特別客たる少年の興味がどこかに集中していたなら、そこに関連した部署を探したほうが見つけられる可能性は高い。どこかないのかと土屋がスーツの男たちを見やれば、彼らは一様に眉根を寄せてしまった。
「彼は、求められたパフォーマンスは完璧にこなしていますが、基本的に極度にすべてへの関心が薄いので」
「そうなんですか?」
 各種の報道媒体を通じて見るのとは違った、偶像の意外な素顔だった。
「今回の観戦は珍しく本人も乗り気だったのですが、それ以上の細かな関心対象はわかりかねます」
 苦味の混じった声音に、土屋はそっと同情を寄せる。仕事という名目ではあるものの、彼らは四六時中かの少年と接している。至近距離で大人が子供を長時間見ていれば、情が移るのなどよくあることだ。まして、心を砕いて相手を徹底的に守り抜くという状況なのだから、なおのこと。
 きっと彼は、頭がよすぎるのだろう。そういうらしからぬ子供を相手にするのは、互いの距離が近ければ近いほどやりづらい。なんとなく直接は会ったことのないその子供に自分の養い子の姿を重ね、土屋は視線をサーキットへと流す。そして、そこにとんでもない人物を目にしたのだ。
「え?あ、鉄心先生?」
 行方知れずだった老人は、サーキットで子供たちに一つの小さな人影を放っていた。正体を正確に察したらしく、唖然としてしまっている過半数と、きっと何も考えず、素直に客をレースへと誘う豪。そして、いろいろを知っているだろうにそこに便乗しているミハエル。
 思わず見守り体制だったが、はたと我に返ったデニスに促され、土屋は連れ立ってサーキットへ続く通路へと駆け出していく。職務に忠実なスーツの二人組もその後に続くが、あまりに突飛で常識の範疇から外れた老人に、反応を示せなくなってしまった哀れな職員は一人、その場に残されたのだった。

 子供たちの中ではおそらく、烈が最初に変化に気づいていた。
「どうかしたのかな?」
 もう何度目かも数えるのが馬鹿らしくなったレースに向いていたはずのマスコミの関心が、いつの間にか薄れていたのだ。ざわざわとどこか落ちつかなげなその様子の正体を探るより先に、一息入れていたミハエルがひょっこりと烈のすぐ隣に顔をのぞかせる。
「マスコミの絞り具合から、何かあるとは思ってたけど」
 やっぱりね、と愛らしい鉄の狼は妙に楽しげだ。
 意味深な声音に、何か知っているのかと烈が疑問を口にしかけるのと豪がわめき声を上げるのとは同時。
「くっそー!!どうして勝てねえんだ!?」
 レースが終わったのだ。結果は、ブレットが一位、次いでリョウ、エッジ、豪の順である。一緒に走っていたはずのシュミットは、途中、豪の無謀なコーナリングに巻き込まれてコースアウトしている。
「豪、コースに対してセッティングにどうせ無理があるんだろ?何も直そうとしないで、周りにすぐ八つ当たりするんじゃない!」
「だって、納得いかねえっ!」
 一瞬で兄としての顔になり、烈がしつこく再戦を申し入れてまわる豪を諌める。この手のやりとりは子供たちも取材陣もすでに見慣れた光景だ。もっとも、そのまま兄弟げんかに発展することはまずない。二人がいったん本気の喧嘩モードに入ると止めるのは至難の業であるため、そうなる前に誰かしらが間に入る。
「もう、豪くんも烈くんも。やめなよ」
 基本的に、その役目はJにある。
 今日も今日とて、壁際で静かにセッティングを変えていたところから腰を上げ、いまにもつかみ合いになりそうな星馬兄弟の間に体を滑り込ませた。タイミングを逃さず、体格で有利なリョウが烈を、Jが豪をそれぞれ担当していつものごとく引き剥がす。ここで第一段階が終了だ。
 喧嘩相手から離されてもいまだ不満げな豪と、すぐに冷静になり、失態を恥じ入る烈。だが、片方のボルテージが下がったからといって、そこで安心してはいけない。興奮しているエースを宥めつつ諌め、チームリーダーが自己嫌悪の無限ループに陥らないうちにうまく浮上させる。アフターケアまで完全にこなして、初めて兄弟げんかを防いだといえるのだ。
 自分の正当性を主張し続ける豪に対してJも口を開きかけたが、紡がれるはずの言葉は、音となる前に霧散していった。
 場の空気をまったく読もうとしない恐ろしくマイペースなしわがれた声が、サーキットに居合わせる子供たちを呼ぶ。なんだなんだと子供たちが目をやれば、声の主は引っ張ってきた人影を彼らの方に無造作に放った。彼らの中心部によろめき出て、崩れかけるバランスを整えているのは彼らとさほど年の違わない子供だ。
 転ぶことなく、なんとかその場に落ち着いた子供があからさまに肩を落として息を吐くと、しわがれた声の主がのんびりとした足取りでその隣にやってくる。
 ごく近くにいる人間が、ひゅっと音を立てて息を呑んだ。
 耳朶を打った不可思議な音への豪の関心は、次に鼓膜に届いた台詞によって、あっさりと忘却の彼方へ。
「お客さんじゃぞ。ほれ、ちっとはサービスしたらどうじゃ」
 年の近い客人で、仮にもオフィシャルのトップに君臨する鉄心のお墨付き。ならば、豪にとってもてなしの方法は一つだ。
「お前、マシン持ってるか?レースしようぜ!」






 その日のその不思議な感情は、よく憶えている。
 最初に感じたのは、狂おしいまでの喜びと果てしない罪悪感。そして、わずかに影を落とす、どことない違和感だった。
 別人ではないかとの考えがふと脳裏をよぎったが、まさか彼を見間違うわけがないと、瞬時に否定する。やっぱり彼は約束を守ってくれた。不安に思うこともあったし、諦めようと、忘れようと思ったことも何度もあった。それでも、心の支えにして信じていたのは正しかったのだ。そう思うと、わけもなくとても誇らしかった。
 おぼろげな記憶をたどり、わずかに残る、モノクロの映像を思考の隅に呼び起こす。
 フィルムの千切れた無声映画を見ているような、断片的な情景がいくつか。音も色もにおいも、郷愁すらもない。寂しさや切なさではなく、ただ己の無力さへの虚脱感を刻み込まれた思い出たち。そして今は、彼への微かな違和感を徐々に明確なものとさせる記憶たち。
 もちろん、離れていた時間の分、自分も成長したし相手も成長している。身長だとか体つきだとかだけではない。顔立ちだって、ずいぶん幼さが抜けた。それも少し不思議な感じはしたが、すぐに慣れることができた。たとえどこにいようと、二人の時間は等しく重ねられていて、相手に起きている変化は、自分の身にも起きていたのだから。
 見れば見るほどに膨らんでいく不思議な齟齬。
 状況の特殊性ゆえのものとも違うし、記憶が改竄されたゆえのものでもない。根拠はないものの、それは確信をもって断言できるのに。
 なんだろうなんだろうと、必死に考えても原因は思い浮かばない。ただ、一方で疑念が次々と浮かんでくる。
 なぜそんな場所に君はいるのか。
 いったい君は、どんな時間を送ってきたのか。
 どうしてこんなことになってしまっているのか。
 声を聞きたい。話をしたい。そうすればきっと、胸の奥にさざ波を立てる違和感だって軽やかに吹き飛ぶだろう。彼ならきっと、吹き飛ばしてくれるだろう。
 彼は、こちらの存在を知っているだろうか。
 知らないなら知ってもらいたいと、知っているなら会いたいと願う。だから、会うためにまず、動き出そうと思う。いつだって手を引いて先に進むのは彼だったから、今度くらいはこちらが先に足を踏み出そう。
 複雑に入り組んだ迷路の向こう。そこが彼の今いる場所で、二人が出会うにはあまりにも距離がありすぎる。彼がそこから抜け出す力を持っていないなら、こちらから会いに行く方法を探せばいい。そして、二人であの祈りを現実のものとしよう。

 大勢の人間が集う場所特有の、ざわざわと、捉えようのない喧騒がそこには広がっていた。ゆったりと流れる人波から少し外れて、少年はじっと、一枚のパネル写真に見入る。
「――約束」
 ぽつりとこぼされた言葉は、場の喧騒に溶け込んで反応を示す人間はいない。その言葉が意味を持って響いたのは、少年の心の内のみであろう。
 視線を伏せて、深呼吸をひとつ。寄せていた眉根を元に戻し、少年はするりと身を翻して人ごみを抜けていく。外に出れば空は眩しいぐらいに晴れていて、頭上から降り注ぐ陽光がなんだか切ない。
 特別なわけなどないけれども、ただ、泣き叫びたい衝動に駆られた。


 息せき切ってサーキットに出た土屋は、並んで走ってきたデニスと共に、子供たちと、いつの間にやら子供たちの周囲を半円状に囲んでいたマスコミとの注目を浴びてたたらを踏んだ。が、こんなところで気圧されている暇はない。こんなめちゃくちゃな形での客と子供たちの対面は予定になかったのだ。相手の正体を察して沈黙している子供たちがパニックに陥っていないいまのうちに、とりあえずでもいいから説明をしないといけない。
 豪の唐突な問いに、呆気にとられながらも首を横に振った客人は、リニューアル前のマシンを持っているからそれを使えばいい、と横から提案してきたミハエルにマシンを手渡され、手ずからセッティングを教えてやろうという二人の餌食になっている。
 一体なにからはじめて、どこまで話せばいいかと思考回路を必死に回転させていた土屋は、しかし、視界の隅に捉えた子供たちの表情の中に、予想外のものがあることに気づいた。
 面喰らっていたり驚愕していたりするのならわかる。困惑や不審も許容範囲だ。そのどれにも当てはまらない、怯えにも似た表情で、一人の例外が客人を見つめていたのだ。
「お前、片っぽしか腕ないのか?」
 と、豪が素っ頓狂な声を上げた。マシンなど触ったこともないという客にあれこれと講釈を垂れ、いざ実践と思った先の驚愕の事実。さすがに片手では、自分でセッティングを行うのは難しいだろう。じゃあどうしようか、とミハエルと一緒に悩みだしてしまった。
 隻腕という相手の状態にパニックを起こされなかったのは助かったが、その一言に、茫然自失となっていた子供たちが次々と我に返りだした。慌てて烈が豪を客人から引き剥がそうとすれば、横合いからミハエルがなだめる。そればかりか、烈の困惑を無視して、そのままコースのタイプと初心者であることを考慮した上でのセッティングのアドバイスを求めはじめた。他の子供たちも、状況整理のため、周囲とひそひそ話しはじめている。
 土屋が、説明責任への義務感から思考を言葉に変換するよりも早く、こんどはブレットが沈黙を破って口を開いた。
「あちらは?」
 低く地を這うような声が向けられたのは、もちろん飄々と状況を見守っている鉄心でも、読めない表情でただ静かに、豪や烈、ミハエルの言葉を聞き流している客当人でもない。ブレットの一番身近な大人である、デニスだ。
「今日のレースにお招きしていたゲストだ。せっかくの機会だから内部視察も、ということになって、おいでいただいている」
 戸惑いも明らかにいったん土屋と目配せを交わし、デニスはひとつため息をつくと、説明役を買って出た。






 簡潔に告げられた事情に、相手の正体を確信した子供たちはどよめいた。
 やたら厳重だった警備も、常ならず多かった割に公開練習の取材に来ているのは少ないマスコミにも、やたらおいしい取り合わせの今日の取材担当チーム陣にも、すべてはこの客で説明がつく。
 平和でこれといった話題もなかった昨今。マスコミの注目をWGPレーサーたちと二分していた、彼らとほとんど年の変わらない一人の少年。一国の内乱を終わらせるきっかけとなった写真展で、世界的なヒーローと化した悲劇の象徴。
 彼には命の借りがあると、写真展を主催したボブ・アデナウェアーの発案で先日、肘から先の失われた右腕に適切な治療を施すため、米国政府の全面的なバックアップの中、NGOがアメリカへと連れてきた時の人。
「ザ・ブラッディー・ファイア」
 焦点をぼかしたデニスの説明と本人の存在だけでは正解にたどりつけなかった二郎丸は、決して大きくはなかったエーリッヒのこぼした声に、思わぬ有名人の登場をようやく悟り、驚きの声を上げる。
 邦題は『獄炎』。ボブ・アデナウェアーが自らキャンペーンに起用した写真のタイトルであり、いまや世界における、この客人の代名詞。
 二郎丸自身は写真展を見に行ってはいなかったが、あまりにも有名になりすぎたその一枚には、見覚えも聞き覚えもあったのだ。だが、エーリッヒの声に反応したのは、彼だけではなかった。
「その呼ばれ方は、好きじゃない」
 けっきょく、セッティングは自分がやってやるから、とマシンを取り上げ、本来の目的を忘れて熱中している豪をなんとなしに眺めていた客が、視線を上げてふと口を開いたのだ。実に流暢な英語だった。
「ボブにもその写真にも感謝してるけど、それはオレの名前じゃない」
「失礼しました。ミスター…」
「敬称もいらない。君たちとそんなに年も違わないと思う」
 どこか硬い表情ではあったが、声音は思いのほかやわらかく、あたたかかった。軽く腰をかがめていた状態から、客人はすっと背筋を伸ばす。
「ロル。ただのロルだ」
「ではロル。不快な思いをさせてしまったようで、申し訳ありません」
「もう慣れたから。謝ってもらわなくても、別に平気」
 予想だにしなかった相手のやわらかい反応に呆気に取られる周囲をまったく意に介した様子はなく、ロルと名乗った客人とエーリッヒは、穏やかな微笑を交し合った。

 思いがけない対面とはなったものの、やはりまた思いがけずなんとか丸く収まりそうだと大人たちが胸を撫で下ろしたのも束の間。おもしろそうにエーリッヒとロルのやりとりを眺めていた鉄心が、一段落したところを見計らって爆弾を落としたのだ。
「で、お前さん。こん中の誰かに会いたかったんじゃろ?」
 穏やかだったロルの身にまとう空気が、一瞬にして凍りついた。
 明らかに困った様子で視線をさまよわせ、マスコミと、土屋たちの背後に控えているボディーガードたちとを見やり、言葉を紡ぎあぐねている。
「レースん時も、じっと見とったじゃないか」
 意外と鋭い観察眼を披露した老人のセリフに、幼い客の表情は、左右非対称に歪められた。冴え冴えとした底の見えない深い碧の瞳には、痛みに耐えるような色が浮かべられている。
 真意の見えない鉄心の言葉に子供たちがざわめく中、弱いものいじめを見ている気分になってきた土屋は、どうしたものかと眉を寄せる。だが、その思案は意外なところから上がった声によって阻まれた。
 ごく小さな、震える声で紡がれたのは、土屋の知らない言語。場に居合わせた面々もそれは同じらしく、セッティングに夢中だった豪でさえその手を止め、隣に立つ兄と、きょとと目を見合わせて音源に視線をやる。そこには、先ほど土屋が目にした、場にそぐわない怯えの表情を浮かべたJ。
 彼が見つめているのは客人で、その瞳もまた、焦点をずらすことなく相手を見返している。
 もう一度、同じ音を舌に乗せ、Jはぐっと両手を握り締めた。
 動きたいけれど動けない。言葉にしたいけれど声にならない。
 触れたいものに手を伸ばしては寸前で引き戻すような、そんな逡巡をみせるJに、周囲は沈黙をもって次の動きを待つ。
「憶えてる?」
 息を深々と吸い込む音に続き、次に発されたのは英単語。だが、それはJではなく、ロルの紡いだ言葉だった。
 はじかれたように目を見開き、一気に表情を緩めてJがゆるりと頷くのと、ロルが軽やかな足音を残して豪の脇から駆け出したのとはほぼ同時。次の瞬間には、抱きつかれ、勢いに圧されて二、三歩よろめくJと、その首元にすがるように、残された腕を回すロルの姿があった。

 滞ってしまった場の時間の流れを、いち早く取り戻したのはマスコミだった。シャッターを切る音やら録画を命じる声やらが騒がしくなり、子供たちもまた我に返る。だが、言葉が出てこない。あまりに突飛な目の前の状況に、言語中枢が追いついてこないのだ。
 背に腕を回し返そうとして、だらりと下げられたままだった相手の右腕に触れ、Jはぐっと唇を噛んで視線を伏せる。それに気づいたのか、ロルは黙ってJの頭を己の肩口に抱き込み、ぽんぽんとあやすようにして後頭部を軽く叩く。
「大丈夫。もう、痛くない」
 どこまでも穏やかな声で静かに口を開いたのはロル。凪いだ湖面のような、ただ静かな声だった。
 決して大きくはない。むしろ囁くように告げられる言葉は、マスコミによる無神経な喧騒の合間を縫い、空気を震わせ、消えていく。
「やっぱり、お前だった」
 首筋に顔をうずめたまま、時間をかけて背中に回した手で、服が皺になるほど強く自分を抱いてくるJの後頭部にあごを乗せ、ロルはくすりと笑む。それは、彼が今日みせた表情の中で、もっとも自然なもの。
「元気そうでよかった」
「うん」
 くぐもった震える声に、子供たちは彼らのよく知る少年が泣いていることを知る。それはとても珍しいことで、慌てた豪が飛び出していきかけるのを、咄嗟の所作で烈がおしとどめる。
 もの言いたげな弟の頭の中身は、別にわざわざ音にしてもらわなくてもわかる。息を吸い込んだ豪がこの場の空気を打ち破らない内にと、烈はすばやく己の口元に指をあて、真摯な表情で首を横に振ってみせた。
 いつもの豪ならば、それだけでは到底納得しなかったろうが、その向こうのミハエルにも同じような内容を身振りで示され、しぶしぶ口を噤む。豪とて、いつもとあまりに違う、触れればなにかの線がまとめて切れてしまいそうな友人の様子は察せている。
「生きてて、よかった」
 いつのまにやらしんと静まり返った空間に、ぽつりと落とされた音。
 声は軽やかでも、言葉は重い。
 Jはそれにはなにも返さなかった。ただ、腕の中の相手をさらに強く、強く抱きしめていた。






 えもいわれぬ沈黙は、当事者の片割れによって、唐突に打ち破られた。
 穏やかにJの背を軽くなでさすっていたロルの手が、不意にその肩を軽く押して互いの体を引き剥がしたのだ。不審そうに眉を潜めるJの目元を袖口でそっとぬぐい、なにごともなかったかの様相でロルが背後へ振り向くと、通路の向こうからやかましい足音が響いてくる。
 こんどはなにごとかと思いきや、姿を現したのは、一様に仕立てのいいスーツを着こなした、初老の男たち。
「ミスター・テッシン!?」
 先導してきたのは比較的若い男で、彼は足を止めるや否や、ことの発端となった傍迷惑な老人の姿を求めて視線をさまよわせる。土屋は、彼に見覚えがあった。先ほど置き去りにした、広報の職員だ。きっと面倒ごとを知り、別室でいろいろ裏方の話をしていた権力ピラミッドの上位の人間たちを呼んできたのだろう。
「なんじゃなんじゃ、騒がしいのお」
 やってきた人間がみな、どこか殺気立っているのなどどこ吹く風。鉄心はのんびり応じながら、こめかみをかりかりとかきむしる。
「今回ばかりはおとなしくしていてくださいと、あれほどお願いしたではありませんか!」
「そうですよ、これでもしものことがあったら…」
「ええじゃないか。悪いことはなーんもなかったし、ロルくんはJくんに会いたかったみたいじゃし」
 いじけた様子で紡がれた言葉に、大人たちの視線はロルの背後に隠されるようにたたずんでいるJへと向けられる。居心地悪そうに身じろぐJをかばうようにロルが立っているため、彼らはそれ以上の反応は示せない。だが、ちょうどいいターゲットを見つけてうごめきはじめたマスコミへの反応は早かった。
「申し訳ないが、マスコミの方は外に」
 やってきた集団の中でも後方に位置していた中から一つ声が上がると、土屋とデニスがやってきてから入り口付近にずっと立っていた男たちがずいと動き、後ろ髪を引かれている様子の報道関係者を追い出しにかかる。
「あれ、誰だ?」
「バカ、FIMAの役員の方だろ!」
「それと、政府筋の人だね」
 その一方で、豪はボリュームを落としながらも実に場違いな質問を兄へとぶつけていた。鋭い声で返された返事には、思わぬオプションがついていた。思わず首をめぐらす星馬兄弟を、ミハエルはにこりと天使の微笑で受け止めるだけでそれ以上はなにも言おうとしない。
 無言のままロルに腕で促され、Jが数歩、子供たちのいる側へと下がってきた。
「大丈夫かね?」
 どうしたものかと身動きのできない子供たちと土屋を知ってか、そっと声をかけたのはデニスだった。ぱっと振り仰ぎ、Jは周囲をぐるりと見回してからこくりと頷く。いまだ目元は赤くその奥に潜む表情はどこかぎこちなかったが、問題はなさそうだ。
 なにか言おうと口を開きかけたJを、デニスはまだぐずぐずしているマスコミと、あからさまにもの言いたげな視線を向けてくる政府関係者たちとを無言で示しながら押しとどめる。
 のれんに腕押しとは知っているだろうが、一応叱責の文言を綴らずにはいられないFIMAの役員と鉄心との問答にならないやりとりが展開される。その間にも政府筋の人間たちはなにごとか言葉を交わしあい、一人が代表としてマスコミを追って外へと出て行った。

 外部への情報漏洩をシャットアウトしたところで、大人たちは内部の処理へと取りかかった。促され、黙って従う様子をみせたロルに、それまで黙していたJが口を開く。
「また、会えるよね?」
 空間を縫ったのは、必死さに彩られた、悲痛な声だった。
「これで最後とか、言わないよね」
 咎めるような視線も、いぶかしむような表情も、ロルを境に反対側にいる大人たちの様子は微塵も気にかける素振りなく、Jは立ち止まってじっと床を見つめている少年に問う。
「わからない、そんなこと」
 一呼吸おいて、ロルは簡潔に答えた。
「神のみぞ知る、だろ」
 決して視線は合わされないままの、あいまいな笑みを添えた少年の声音は先ほどとは打って変わり、静けさの中に暗さと凄みを潜ませていた。

 せかすようにして連れて行かれてしまったロルと入れ替わりに、Jの目の前に立ったのは初老の男だった。
「君は?彼を知っているのか?」
 見覚えはなかったため、FIMAの人間ではないと思われる。あからさまに何かを探るような視線と声音に、土屋やデニスをはじめ、豪たち子供らもぴくりと表情を硬化させるが、Jは聞いている様子もない。
「いま、自分が何をしたかをわかっているのか?彼は、単なる観光客じゃない!スパイ疑惑だって浮上しているというのに」
 それは、少年にまつわる風評の中で、必ずついて回るもののひとつだった。
 NGOに連れてこられたとはいえ、入国に必要な書類だのなんだのが揃っていたはずのない少年のために、アメリカ政府が一肌脱いだことは記憶に新しい。だが、ホワイトハウスの住人たちが、たかが一人の少年のためごときに、しかも人道的理由だけでその重い腰をあげるだろうか。
 誰からともなく、誰にともなく、まことしやかに囁き交わされる。
 きっとこの美しく演出された舞台の裏には、国際政治のドロドロとした駆け引きがあるに違いない。たとえば少年は、米軍を中心とした多国籍軍が追う標的の情報を持っていて、それを交渉材料に持ちかけられたのではないか、と。
 錯綜する情報の中心部にいるだろう人間の発言なだけあり、場の空気はざわりと揺れ動く。しかし、それらを一切気にした風もなく、Jはつと、読めない表情で相手を見据えた。
「あなたがそれを言って、いいんですか?」
 言葉を紡いだのは、聞いたものに氷の刃を首筋に当てられているかの錯覚を起こさせるような、怜悧な鋭さを内包する声だった。
 思いがけない反撃にたじろいだ相手に、Jはゆったりと、大きな瞳を眇める。その表情がひたと凍りついているのを、土屋は見逃さなかった。
 Jが声を荒げて激昂したりという場面には土屋も居合わせたことはないが、怒りが心頭するにつれて、身にまとう空気が冷ややかになっていくところには何度か出くわしたことがある。Jの怒りの表し方は、さながらブリザードといったところだ。滅多なことで爆発させることはないものの、逆鱗に触れられたときの反応は案外はっきりしており、その一事に関しては沸点が相当に低い。
 ここまでわかりやすい反応を彼が示すということは、先の男の言動は、あからさまにJの感情を怒りへと駆り立てるものだったのだろう。そしてきっと、同時に傷ついている。この子供の逆鱗は、自分自身にではなく、彼が大切に思う対象に属しているから。彼の怒りは、悲しみの沸騰を意味することが多いから。
 どこか冷静な思考回路で土屋がJの心理状態を分析している一方で、一気に沈み込んだ雰囲気に、日ごろは温和な友人の内面の変化を察知したのか、子供たちも顔を見合わせている。
「君は、いったい彼の?」
「兄弟です」
 瞬時に変質してしまった雰囲気を振り払うかのごとく、頭をひとつ振って口を開いた別の男に、Jはぽつりと答える。
「この世界に残されたたった一人の。血を分けた、大切な家族なんです」
 ロルの立ち去った廊下を見やりながら続けられた声は、独り言といってもいいような大きさだった。






 慌てて制止をかけたものの間に合わず、思惑のそれた大人たちは、さぞや臍を噛んだことだろう。
 この際、場面を作り上げた本人たちがどう思っているかは関係ない。ただ、わずか五分にも満たない衝撃映像は、アメリカ全土はもちろんのこと、WGP中継の行われている世界中のメディアに流されていた。その事実こそが大きな意味を持つ。
 子供たちが主人公の、平和の祭典の象徴でもあるWGP参加レーサーと、血生臭い惨劇の代名詞となった一人の少年の邂逅。
 時の人を二人も中核に据えたこの話題に飛びつかないメディアがあるはずもない。秋の大統領選を狙ってのパフォーマンスだと揶揄されながら、むしろ開き直ってロルの渡米後の面倒をあれこれ見ていたアメリカ政府も、NGOと共同で同日の夜、緊急会見を行うことを明らかにした。

 飽きることなく、同じ場面をえんえん繰り返すテレビを眺めていた男は、鳴りはじめた携帯を耳に当て、ゆっくりと口を開く。
「どうしました?」
 真昼からカーテンをきっちりと引いた薄暗い部屋の中。光源はテレビと、携帯のディスプレイぐらいなもの。鋭く青白い光に照らされた男の、側頭部は白髪に覆われている。そこそこに年老いているようだ。スピーカー越しに響いてくる焦りもあらわな声に、彼は悠然と、微笑さえ浮かべてただ耳を傾けている。
「そのようなことをこちらに訴えられても、困ります」
 工作はそっちの仕事だろう、と言外ににおわせ、男は相手の反応を楽しむ。受話器の向こうからは、男が予想したのと寸分たがわぬセリフが返ってきた。いわく、工作の必要がないと判じられる報告をしたのは、男の方ではないか、と。
 確かに、かつてあれが死んだと報告したのも自分なら、実は生きていたことがわかり、表に顔を出すようになったとき、放置していたとてなんの害もないと言ったのも自分だ。だが、それはあくまで一個人としての意見であり、そこからの対策を最終決定したわけではない。文句を言われても、それは筋違いというもの。
 二、三の屁理屈の応酬だけで、相手はあっさりと攻め方を変えてきた。権力をかさに脅しにでもかかるのかと思いきや、泣き落としである。
 なんとかしてくれ、なんとかならないのか。あまりにも情けない声音に、男は唇の角度をわずかに変える。
 くだらないと思った。できもしないことに手出しをするべきではなく、自分で対処が出来ないのなら、リスクの高い賭けなどするべきではないのだ。
 心の底から相手を嘲る表情を浮かべながらも、声だけは慇懃丁寧に。男は言葉を選ぶ。
「所長から、既に対応策はそちらにも回っているのではありませんか?」
 力強く首肯する一方で、それだけでは頼りない。策は多い方がいいし、万全を期したいのだと訴えられ、男は声に出さずに笑う。変なところで頭の回る相手が、おかしくて、哀れだった。
 万全を期したいのなら、そもそもなぜ、こんな危険で馬鹿げた話に乗ったりしたのだろうか。
 それは言っても仕方のないこと。そんな相手の愚かさゆえに、自分はこうして楽しませてもらっているのだから。
「では、マスコミ向けにパフォーマンス用の資料を取り揃えられればよろしいでしょう」
 あれの真の業績は、かの国の政府の公式資料にも載っている。数量にある程度という制限はかかるものの、国際社会にも信憑性が高いと認められるだろうそれらを、いまからでも取り寄せることが可能だ。その内容は、この国をはじめ、世界に悪として受け止められるはず。
 世論は移ろいやすい。あれに対する風当たりが厳しくなれば、その言葉を真実として受け入れるものもなくなるだろう。大切なのは、本質の真偽ではない。周囲がそれを、真と信じるか、偽とみなすか、なのだ。
 短い言葉からも正しく意図を汲み取り、相手ははじめと同様、慌ただしくノイズの向こうへと消えていった。
 テレビの画面は切り替わっており、そこには、今日までのあれの様子を納めた映像が編集されて流れている。
「いまさら表に出てきて、どうするというんだ?」
 お前はけっきょく、なんの力もないただの子供にすぎないのに。
 クローズアップされ、画面に大写しになった横顔には、薄っぺらい笑顔が貼りつけられている。その表情の奥を見透かすかのように瞳を眇め、男はくつくつと笑声をこぼした。
 どこでなにを察したかは知らないが、余計なことを知りすぎたのだ。
 聡明なのは哀しいこと。せっかく拾った命を、お前はその賢さゆえに、永らえさせることができないだろう。ならばせめて、と男は思う。
 残されたわずかな時間で、あまりに単調な日常に、退屈な世界に。刺激をもたらしてくれればいい。
 色のない、つまらないことこの上ない空間が、鮮やかに彩られていく予感がする。
「…楽しませてくれ」


 顔を見合わせてなにごとかを話し合っていた男たちは、やがて結論に達したのか、互いに頷きあって足早にサーキットを後にする。その集団から一人外れ、最初にJに話しかけてきた男が口を開く。
「マスコミに何を聞かれても、決して余計な話は漏らさないでください。後日、こちらから改めて話を聞くと思います」
 視線の先にいるのはJで、言葉遣いは丁寧なもののどこか高圧的な口調に、場に居合わせる子供たちは思わず目を見合わせる。
「口を噤んでいることが、あなたとご友人たちの身を守るためであるということを、くれぐれも忘れないように」
 不信感もあらわにまっすぐ睨み返すJに、男は皮肉げな冷笑を口元にひらめかせる。
「無論、彼のためでもあるのですから」
「わかっています」
 硬い声を絞り出したJがふいと視線を逸らすのを視界の隅に、男もまた早々に出口へと向かう。高らかに響く足音が廊下の向こう、暗がりの中に消えるのを見送ってから、土屋はそっと息を逃して、無表情に床を見つめる少年へと意識を向ける。
 状況の把握をせねば、と思う心がある一方、ここでそれを問いただしても大丈夫なのかと、戸惑う気持ちがあるのもまた事実。
「なあ、戻ろうぜ」
 足をその場に縫いつけられたまま、ただ空回る思考だけを持て余していた土屋は、だから。動きをみせた子供に、気づくことができなかった。
 唐突な発言に対し肩を大きく揺らし、Jは慌てた様子でその背後を振り返る。声を発した豪と、自分のことを雄弁な表情で見つめている周囲の人間とを見比べ、Jは苦しげに眉をひそめた。わずかに開かれた唇を、動かしては喰いしばり、なんとか言葉を紡ごうとするのだが、うまくいかないらしい。その様子を知ってか知らずにか、豪はもう一度、周囲を見渡しながら、同じセリフを繰り返した。
「中に戻ろう」
 限りなくやさしい、それでいて力強い声だった。
 困惑気味に向けられるJの視線をまっすぐ受け止め、豪はただ首をかしげている。いったいなにに困っているのだといわんばかりの表情だ。
「言葉が見つからないんだろう?」
 息を吐き出しながら、次に声を取り戻したのはリョウだった。周囲を促しながら、唇の端を持ち上げる。
「焦っても、いいことなんかなにもない」
 その瞬間、空間が時間の流れを取り戻した。
 めいめいが慌てて足元やらに転がっている自分の荷物を纏め上げるのをぼんやりと見やり、Jは必死に深呼吸を繰り返す。
 言わなくては、告げなくてはいけない言葉がある。逃げてはいけない。機を逃してもいけない。なんとしても喉の奥に絡まった言葉を引きずり出そうと、意を決して顔をあげたJは、目の前からの不意打ちを喰らい、声を発し損ねる。
「謝らないでね」
 告げたのは、烈だった。

 なぜ自分の言おうとしたセリフがばれてしまったのだろうかと、Jは思わず目を見開く。そのさまに淡い微苦笑を滲ませ、烈は続けた。
「君の考えていることなんて、お見通しだよ」
 伊達にリーダーやってるわけじゃないんだからね、と軽くおどけてみせてから、烈はすっと真剣な眼差しを向ける。
「大切な人、なんだよね?」
 問いかけるというよりは、確認に近い口調だった。
 息を吸い込みはするものの、どうしても音が唇を割らず、ただ困惑したように眉間にしわを刻むJに、烈は淡く微笑みかける。
「会ったことを、後悔でもしてるのか?」
「わからない」
 横合いから滑り込んできたのは、低く落ち着き払った声。鈍く言葉を返しながら首を振ったJに、声の主、リョウは薄く笑む。
「それは、自分で自分の感情を把握できないぐらい、必死だったってことだろう?」
「そうだね。そのぐらい、どうしても会いたかったんでしょう?」
 思わぬ方向からの質問に声を取り戻すことはできたものの、動き出すことはまだできずに佇んでいたJの目の前で、子供たちは優しく微笑を浮かべて頷いてみせる。
「会いたかったんなら、会えてよかったじゃんか」
 すぐ脇から覗き込むようにして問う豪に目を向け、もう一度。サーキットに居合わせる面々を見渡して、視線をゆっくりと床に落とす。そしてJは、両のこぶしを握り締めて震えながら頷いた。
 そのさまを目にして、場の空気はふわりと、やわらかさとぬくもりを増し、子供たちは口を開く。
 ならいいよ。会えてよかったね、彼が無事でよかったね。
 いまはなにも聞かない、なにも言わなくていい。だけどいつか、きっと話してくれると嬉しい。彼に紹介して欲しい。
 君の大切な人は、自分たちにも大切な人だから。
 包み込むようなやさしい思いと言葉に、Jはただ、泣きそうな笑顔をあげ、わずかに小首を傾げて応える。
「大切な、相手なんだ」
 決して離れてはならなかった。離れたくなどなかった。
 だけど自分は、彼の犠牲の上に生きて、君たちに出会った。

 彼の存在はすなわち、最大の罪の証。この身を救ってくれた、鏡の運命。
 決して忘れてはならない真理を告げる、生き証人なのだ。
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