■ 終章 --- 去来する幻想群
 第二回グランプリは、夏期休暇後、より気迫を増したビクトリーズが一気に巻き返し、ディフェンディング・チャンピオンの座を守り抜く結果となった。
「あっれー、おかしいなあ。どこ行っちまったんだ?」
「どうしたんだい、豪くん?」
 首を傾げてはうろうろと宿舎の廊下を歩き回る豪に、どうせまたなくし物かなにかだろうと、通りがかった土屋は苦笑しながら声をかけた。彼は、物をなくすことにかけてはチーム内でも群を抜いている。もっとも、今回は違ったようだ。
「博士、Jは?」
「部屋にいないのかい? ならばきっと、教会だね」
「そっか。じゃあいいや」
 夏の休暇にあった一件以来、Jがこっそりと、時間があれば宿舎を抜け出して教会に通っているのは、チーム内における公然の秘密だった。あえて指摘をするものも問うものもいないが、見え透いている隠し事。その目的が察せればこそ、お互いに触れないようにして今日まで来ている暗黙の境界線を前に、豪はあっさりと身を引く。
「なにか用だったのかい?」
「あいつ、もう準備終わってるだろ? 手伝ってもらおうと思ったんだ」
 本来ならば一人でこなさなければならない作業に、裏技を使う気だったらしい豪は、やっぱり自分でやろうと気合を入れなおし、部屋へと引き上げていった。
 来たる帰国日に向け、荷物をまとめるのにおおわらわのビクトリーズの宿舎に、脈絡もなく一人の老人がふらりとやってきたのは先日のこと。眼鏡を取り替えるだけというお手軽な変装をした彼の出現は、ごく一般的に、その立場を思うと衝撃的なものだった。だがそれ以上に、土屋はその姿を認め、気まずげな、微妙な表情を目の奥に走らせた。
 あの日から、表面を取り繕うだけでうまく心情の整理をつけ切れていない子供たち、こと一人の少年には、彼の登場は刺激が強すぎると判断したのだ。
 そんな土屋の懸念を知ってか知らずか、届け物を渡しに来ただけだと、彼は言った。わざわざ彼自らが届けに出向くほどのものなのか。そんな疑惑の視線の中で差し出されたのは、飾り気のない白の封筒だった。受け取ったJは、遺留品が見つかったのなら嬉しかったのにと、そう微笑む。
 手紙のようだったその届け物を機に、少年の心がどこか違う場所を向きはじめたことを感じ取りながらも、迂闊に踏み込むこともできず、誰も触れられずにいるのが現状だ。
 そういえば、と、一人で渇を入れている豪の背中を見送りながら、土屋はぼんやり思う。件の封筒を受け取ってから、Jは一人でふらりと姿を消すことが多くなった。
 そっと見守るだけで、あえて触れずにいるのがやさしさなのか。
 傷つける覚悟で踏み込んで、手を伸べてあげるのがやさしさなのか。
 己のあるべき立場をいまだ見出すことができず、動き出せずにいるのは土屋とて同じ。願わくば、この心配が聡い彼を更に追い詰める要因になっていないことを。彼の心に平穏が一日も早く戻ってくることを。
 窓の外、そろそろ星の瞬きはじめた冷たい空を仰ぎ見て、土屋は祈ることしかできずにいる。


 たった一晩で、合衆国の政局をはじめ、社会の風潮は大きな転換点を向かえた。暴きだされた巨大な闇は白日の下に引きずり出され、世界各地における紛争の裏舞台がいくつも明るみに出た。
 中でも世間の同情を買った、人形と化した子供たちは、適切な治療により回復が可能との見解が出され、暗く沈みきっていた世界に一筋の光明をもたらす。
 国境を越えた巨悪を知るのに、世界はたった一つの損失ですんだ。
 失われたそれは、生き抜いてきた戦場において血濡れのローレライと呼ばれる、有名な狂戦士。悲劇の象徴としてもてはやされていた子供の正体が割れた瞬間の戸惑いと、騙されていたのだという怒号は、聞くに堪えないものばかりだった。
 あまりに重い罪を負った子供の命ひとつ。生きていたとて、法の裁きにも変わりはあるまい。安い代償だったと、そう言う者もあった。だが、声高にその意見が叫ばれることはなかった。その子供のみせた、命を賭してまでの償いへの覚悟を哂えるほど、世界は病んではいなかったのだ。
 加害者にして被害者。子供の立場を想い、罪を思い。天秤の傾きはやがて定まる。だが、それらの思いが向けられるべき対象は、世界にもはや存在しなかった。
 運命の分岐点ともいえるだろうあの夜。暗い海に飲み込まれた一人の子供のために、空前の規模の救助部隊が結成され、一ヶ月に渡り捜索が続けられた。潮の流れを読んでは範囲を広げ、海底を洗いざらい調べるために、何人ものダイバーが海へと潜った。
 誰もが固唾を呑み、生きていることをと祈った子供はしかし。なんの痕跡も残さず、広い海原へと消えていた。



 心配そうに自分を見つめる土屋をはじめとしたチームメイトたちの視線に、もちろん張本人たるJは気づいている。だからこそ、申し訳なさにつまされる。実のところ、そこまで心配されるほど自分の内面は崩壊していないと、Jは知っているのだ。
 いつまでも待っていると約束した。だから、誰になんと言われようと、彼の生存を諦めてなどいない。強がりかもしれないが、だから自分は大丈夫なのだと。そう、うまく伝えられないのがもどかしかった。
 すっかり通いなれた教会の、最後尾から二番目の椅子に浅く腰掛け、Jは一枚の紙を眺めている。
 一度目に読んだときは、言葉の意味がうまく汲み取れなくて、ただ困惑するだけだった。二度目でようやく字面の意味がしみこんできて、三度目になって、言葉の裏を考えるゆとりが出てきた。そうやって繰り返し読むことで、空っぽになってしまった心の中に、思いを蓄積させていく。
 今日のこれが何度目なのかは、もはや覚えていない。ただ、綴られている言葉の意味を裏も表も読み取ってしまった次にやってくるものがわからなくて、彼の声を思い出しながら、ただ筆跡を追っていく。
 視界がふいに歪んだ。
 あれから一度も滲むことすらなかったのに、零れ落ちんばかりの勢いで溢れる涙に辟易して、意地でも流さないようにと拭い、唇を噛み締めて。便箋と封筒を握り締めた両手で、頭を抱える。
 目尻に溜まる涙の感触に、Jは己の中の叫びを聞く。聞きたくなくて耳を塞いでいたそれらは、深く心に突き刺さり、全身を内側から、じわじわと蝕んでいく。
 最後に二人で交わした約束の成就を、一度ならず疑いかけた自分が情けなかった。弱気になった自分が恥ずかしかった。
 綴られていた言葉は思いを示し、約束の証と成す。
 彼は一度も約束を忘れたことなどなかったのに、その約束の先にいる自分が手を離しかけて、なんとするのだ。


 ずっと待っていよう。先に進んで、自分の道を探して。君が追いつくのを待っていよう。
 時間は決めない。期限などいらない。
 ただ、そう。場所は、虹の麓がいい。
 辿りついたらばまた新しい約束をして、次の虹を探しに行こう。


 そして目を弓の形に、待ち人の名を呟いたJはようやく、小さく嗚咽と涙をこぼした。
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ありうべきか、ありうべからざるか。行く末は幾重にも分岐している。