■ 第六話 --- 祈りの歌
 ヘリコプターの準備ができたと呼びに来たマードックの先導で、一行は屋上へと出た。
「うわっ、こんなところにこんなもんがあったのかよ」
「なるほどね。ヘリでの行き来がメインって、こういうことだったんだ」
 ドアを開けた瞬間吹き込んできた風は、心なしか湿っている。地面の色といい、少し雨が降ったのかもしれない。ぼんやりと、他愛もないことを考えていたJは、先に外に出た友人たちの声に目を上げ、そこに広がる立派なヘリポートを認める。
 呆れたように呟く豪に同調し、烈もまた、往路での会話を思い返して低く呻いた。
「そういえば、あのときのパイロットのお二人や案内役の人は、グルだったんでげすか?」
「そういうことになるな」
 見送ろうと言ってついてきたハースを振り仰ぎながら藤吉が問えば、静かな肯定が返る。
「既に身柄は拘束しました。どの程度関わっていたかは知りませんが、この件にまつわる人間を、われわれとしても逃がすつもりはありません」
 溜め息交じりのセリフに、マードックが首から上だけを巡らせて続ける。
「期待しているよ。私も君たちも、彼らに煮え湯を呑まされているという点に関しては同胞だ」
 重苦しい呼気に言葉を乗せたハースは、首を緩やかに振って話題の打ち切りの意思を提示すると、おもむろに傍らに立っていたロルを呼んだ。
「君にはここで、彼らと別れてもらわなければならない」
「え? どうしてだよ?」
 言われてみれば、確かに待機しているヘリコプターは二機だ。だが、島に渡る際に一機で十分だったことは記憶に新しい。みんなで一緒に帰るんだろうと、豪が首をかしげてハースを見やる。
「さすがに、今回の一件は重すぎた。万一のことを考えて手元に置いておきたいというのがひとつ。あと、さっそくで悪いが、仕事がいろいろあるというのがもうひとつ」
 重々しい口調で返されて、豪は渋々ながらも文句を引っ込める。言われていることには理解が示せたからだ。もっとも、理性面ではわかっていても、感情が追いつかない。複雑に曇らせた表情でロルを見やれば、淡い苦笑をもって慰める言葉が降ってくる。
「ハースの言うことは正しい。早く終わらせるためにも、時間をあまりおかずに、できることはやってしまう方がいいに決まってる」
「でもさ、せっかく終わって、一緒に帰れると思ったのに」
「まだ、終わりじゃない」
 頬を膨らませてぶつぶつと呟く豪の耳に、厳しさを内包する凛とした声が届く。
「すべての真相が明らかになるまで、なにも終わらない」
 穏やかな瞳の表情の奥には、目にしたものを凍りつかせるような光がある。喉元まで出掛かっていた言葉を思わず呑みこみ、その光に視線を囚われて、豪はまじまじとロルを見返す。
 時間にすればさほどの長さもなかったろう。相手が瞬いたのを合図に、豪は口を開いた。
「おれたち、みんな待ってるから。だから、絶対帰ってこいよ」
 真剣な声音と表情に、ロルは一瞬、虚を突かれたように目を見開いた後、ゆるりとその双眸を眇めた。
「待ってなんかなくていい」
 悠然と言い放ったその声は、不敵さを孕んで鋭く輝いている。
「先に進めばいい。必ず、追いつくから」
 視線を巡らせた先に待っていたのは、やさしい笑顔たち。困ったように眉根を寄せながらも笑みを崩さないまま、己に向けて据えられた視線に、Jは小首を傾げる。
「約束だよ?」
「もちろん」
 破ることの許されない約束が、きっと揺るぎない支えになることを知っているから。
 鏡に映したような顔を互いに見合わせて、そして彼らは笑い合う。


 目的地までの距離を理由に、先に移動するようにと促されたロルは、ハースと共に動いていたうちの一人の男に付き添われ、待機しているヘリへと向かう。だが、彼は一歩を踏み出したところで、くるりと踵を返した。
「ごめん」
 月は天頂にかかり、だいぶ遅い時刻であることを示している。闇はいよいよ深くなり、海からも森からも、生き物の気配は感じられない。ただ、変わらず吹き続ける風に髪を遊ばれながら、ロルは小首をかしげて眉根を寄せる。
「なにも説明しないまま巻き込んで、危ない目にあわせて、怖い思いをさせた」
 悲痛さを滲ませながらも、どこまでも穏やかに。少年の細くて高めの声は、ゆっくりと続ける。
「君たちのやさしさに甘えるばかりで、いろいろなことを黙っていて、騙していた。本当に、ごめんなさい」
 ぐっと噛み締められた唇は色を失い、握り締められたこぶしは小刻みに揺れる。宙に投げ出された言葉が風にさらわれるのを待たずに、ロルは強張っていた表情を、なんとか穏やかなものへ変えようと、唇を歪める。
「それと、ありがとう。一緒に遊んでくれて、友達だって言ってくれて」
 かろうじて笑顔を浮かべるその顔は、漂う寂寥感に彩られ、青白い月明かりの元、いっそう悲しげに冴え渡っていた。
「オレの所業を聞いても、怖がらないでいてくれてありがとう」
 すうっと細められた瞳は、やわらかな光を弾く。
「オレの一番大切な人の、大切な存在でいてくれて、ありがとう」
 恐らく、その言葉を発した瞬間にみせた笑みは、出会ってから垣間見たあらゆる表情の中で、最も美しいもの。無理もなく、齟齬もなく。ただ自然と内側から湧き出るに従ったのだろう華やかな笑顔に、目を奪われた面々は言葉を見失う。
「さようなら」
 声と同時にかしげていた首を元の位置に戻し、ロルは返事も待たずに足の向きを変えた。そして、黙って隣で待っていてくれた男に小さく礼を述べ、歩き出す。
 そんなに長くもない距離を行く細い背中が、やけにゆっくりと進んでいるように見えた。正しい時間感覚が抜け落ち、暗闇と月明かりとに、幻想を見ているのではないかとの錯覚が脳裏を駆け抜ける。
 あまりに非日常的で、慣れない感覚だった。
 それゆえかもしれない。次の瞬間、なぜか険しい表情で踵を返し、駆け寄ってきたロルに抱きすくめられる形で倒れこんだという事実を認識するのに、Jは必要以上の時間を要した。
 覆いかぶさるようにしていたロルが機敏な動作で身を翻し、動くなとだけ言い置いてそのまま駆け出していく。ようやく鼓膜に届いたのは銃声だった。慌てて無謀な行動を引き止める声をあげて首を巡らせるが、もう遅い。
 そして目に映った、信じられない、信じたくもない光景。
 続くあまりに残酷な結末を示唆する状況に対し、Jは、即座の反応を返すことができなかった。



 静寂が支配する小島を舞台にしていればこそ、遠くで起きたことも、木霊する音からなんとなく推察することができる。
 鼓膜を打った微かな銃声に、森の中、木の根元に腰を下ろしていた男は、うっすらと笑みを刻む。そして続けざまに、おぼつかない旋律を低く紡ぎはじめた。
 フレーズの区切りがついたところで男は腰を上げ、ゆっくりと歩き出す。目指すは、自分以外の誰もが知らないだろう、島の裏手にある洞窟。そこには、万が一のときのため、小型のモーターボートが駐留してある。
「だから言っただろう」
 感情に流されてはいけない。情にほだされてはいけない。己以外はすべて敵と思い、決してとどめを刺すことを忘れるな、と。
 はなむけにと、パスワードに添えてあえて残してきてあげたのに、そこに潜む真意に気づけなかったとは。ある意味予想通りであり、まったくもって期待はずれだ。
 もう一度、ゆっくりと一音一音を確かめるように旋律をなぞり、男は哂いながら足を進める。自らの境遇を重ね見て決心が鈍ったか、それとも周囲の甘さに染められて感覚が麻痺したか。真相はすべてあの少年の中にあり、男の知ったところではない。
 気絶させるだけにとどめたのは少年のやさしさで、手足の骨を折るなり縛るなりして動きを奪わなかったのは少年の過ちだった。
 目を覚ましさえすれば、あれらは完璧な人形。与えられた指示に忠実に動くだけであり、男には気絶している相手を叩き起こす方法も、あれらに指示を与える術もわかりきっていた。だから少し、油断しきっているだろう少年に最後の余興をプレゼントするため、転がっていた人形たちを元に戻してあげたのだ。
 どうなっているかをこの目で見られないのだけが、少し悔しくて、憂鬱だった。


 小さな島だ。夜が明けるまでには十分、目的地に着くことができるだろうし、上空でばたばたと騒ぐ航空機たちが一段落したところを狙って、逃げおおせればいい。すべての目を欺いて安全圏まで逃げ切ることなど、造作もない。
 こういうとき、下手な権力や地位は邪魔になるだけだ。身軽な立場を貫き通してきた己の先見の明に、男は少しだけ酔ってみる。
 本土の上層部の人間は、この事態に気づいているのだろうか。気づいているのならそれなりに、また気づいていなくても、それはそれで楽しい気がした。慢心に囚われ、身動きの取れなくなっている人間たちの、末路のわかりきった悪あがきは、傍で観察すればどれほど愉快だっただろうか。
 そして同時に、男は少年を思う。
 その身は悲劇の立役者にして惨劇と狂気の代名詞。与えられた名は、新たに擁立された仮政権と、治安維持のため駐留している多国籍軍とが血眼になって探し続けている、第一級の危険度を誇る大罪人を示す符号。残された屍の山と、そこに響く鎮魂歌を揶揄する蔑称。
 大量殺戮を行なっていた張本人で、誰もが化け物と呼び、近づくものは一人もおらず。
 向けられる視線は、畏怖と軽蔑。差し伸べられる手には武器があり、かけられる声は例外なく呪詛を吐く。
 風と共に広まった名とそれにまつわる逸話には、真実はいくらも含まれていない。一体どれだけの人間が知っているのだろう。少年が鎮魂歌を歌うことの意味と、手を血に染めるほどの悲壮な思いを。
 もっとも、知っていたところで、それを利用する自分に言えたことではないだろうと、男は暗い笑みをいっそう深めた。
 大切な約束を、大切な存在を。守るために護るために、血を浴びては魂鎮めの歌を歌う。実際の現場を目の当たりにしていないなら、いくらでも綺麗事は言える。ただし、現実に君が血を浴びて、他者の命を冷酷に奪う場面に直面したら、彼はどう思うだろう。
 梢の向こうに見えた月には、薄く白い、虹が架かっていた。
 舞台は完璧だ。少年の求めていたすべてが一堂に介す夜など、ありえないことだと思っていたのに。
 最後ぐらい、選択肢をあげよう。君には血の雨こそが似合う。
 彼を守りたいなら、彼の前で血の雨を浴びればいい。どうしても己の狂態を見せたくないなら、彼の血の雨を浴びればいい。
 与えられた時間の終焉に、哀しい鎮魂歌を、誰のために歌うのか。
 その選択権をも奪うほど、自分は無情ではないのだ。
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