■ 第五話 --- 祭壇の前で
 すっと息を詰め、それぞれにその場で背筋を正す子供たちに、ハースは目元を和ませる。いい反応だと、そう、素直に感じたのだ。
「どこまで知っている?」
 緩んだ表情筋を頷きひとつで引き締め、ハースは一人の子供に顔を向け、厳かに問いかけた。抽象的な言葉だが、言わんとしていることは正確に察することができる。穏やかさと険しさを内包する鋭い眼光に射抜かれ、Jは肩を揺らす。
「彼にまつわることなら、恐らくほぼすべてを」
 深呼吸をひとつ間に挟み、Jは男の瞳を見返して答えた。駆け引きにおいては、彼に一日の長がある。下手な嘘や誤魔化しは逆効果だと判じたのだ。
 喉を鳴らして息を呑む気配が隣から伝わってきたが、かまっている余裕はない。
「ならばその上で、君の真意を聞かせてほしい」
 臆することなく、挑むように見上げてくる幼い視線に興味深げに目を眇めると、ハースは静かに言葉を継ぎ足した。
「君は結末に、なにを望む?」
 曖昧にぼかされたセリフに単語以上の意味を察し、Jは思わず眉をひそめていた。
 これは駆け引き。言葉の裏を見て、意思の裏を量り、そして行く末を左右する。とんでもない岐路に、Jはいま立たされているのだ。なにが答えなのか。どんな言葉を返せば、望む方向へと時間は進むのか。いまここで、選択を過つわけにはいかない。相変わらず底の知れない笑顔を貼り付けているハースから視線を床へと落とし、Jは黙考する。
「私は、彼に問うているんだ。君ではない」
 沈黙にいたたまれなくなったのか、声を上げようと目線を向けてきたロルにぴしゃりと言い置き、ハースは苦悩する子供を泰然と見やる。
「約束を――」
 しばらく逡巡をみせていたJは、しかし。いざ口を開けば、迷いなど一片も感じさせなかった。
「約束の、成就を。いまはただ、それだけを望みます」
「約束とは?」
「再会と、未来の共有です」
 重ねられる問いに、躊躇なく答えを示す。凛と揺るぎない光を宿す蒼い瞳の奥に、悲痛に歪められた表情を垣間見た気がして、ハースは瞬き、口の中で返された言葉をなぞる。
「彼の業を知っていてなお、それが言えるのか? 未来が共有できるのか?」
「その業の裏には、ボクの罪があります。それに、守る覚悟のない約束なら、はじめからしません」
 呆然と目を見開いて座り込んでいるロルへと凪いだ視線を送り、Jは呟くように続けた。
「これ以上、彼一人に茨を負わせるような真似はしたくない。そのために必要なら、ボクはなにを切り捨てることをも厭いません」
 翻らない意志を感じさせる、細くも強い声だった。そうか、とだけ答え、ハースは顎に手を当て、なにごとかを考え込んでいる。
 なんとなく声を発すのが憚られ、誰もが居心地悪そうに身じろいでは互いに目を見合わせている。そんな落ち着きのない沈黙の中、ゆるりとまぶたを落として視界を闇に染め、ロルは一人、黙考する。
 これ以上誰かを、自分の纏う影に巻き込む権利などあるわけがない。なのに、もっとも巻き込みたくない相手である少年は、微塵の迷いもみせずにやさしく残酷な覚悟を告げる。そのことが耐え切れない灼熱となって、身を焦がすのを感じる。
 じっとハースの言葉を待つ一同にふと微笑みかけ、彼は、一人ただ困惑から抜け出せずにいる子供に視線をやって口を開いた。
「では、力になることを約束しよう」
 声はどこまでも深く、聞くものの脳にゆっくりと浸透していった。
「私は専門家ではないから、細かいことは知らない。だが、戦場における兵士の戦闘行為は、殺人罪には問われないと思った」
 断定は避けながらも、ハースの表情に自信なさげな様子は伺えない。思いもかけず降ってきた嬉しい話に、豪たちの顔にはじわじわと、安堵の笑顔が広がる。
「君の場合はまだ子供で、置かれた状況とそれまでの境遇に、情状酌量の余地がある。証拠もあるし、ガーフィンケル社の関係者もあらかた捕まった。事実関係が明らかになれば、無罪放免も十分にありうる」
「じゃあ、じゃあさ! これからはずっと、一緒にいられるんだな!?」
 肩をすくめたハースのセリフが終わるのを待って、豪が勢いよく身を乗り出した。
「すべてが片付いたなら、そうなるだろう。私はそのために、尽力することを確約する」
 静かな肯定の言葉に、沈みきっていた空気は一気に舞い上がった。わっと歓声を上げ、わがことのように喜ぶ子供たちと、あからさまな安堵を浮かべて、深い笑みを刻む土屋。体中から力が抜けてしまい、ソファーに沈み込みながら泣き笑いのような表情を浮かべ、天井を仰いでいるJ。そして当事者であるロルは、反応を示せずに硬直している。
 自分が傍にある未来に、なぜ彼らは快哉を叫ぶ。
 一体どれほどの罪を犯し、どれほどの闇を引きずっているかも知れない。
 思いを馳せればひたすらに心が塞がれるというのに、罰さえ与えられないと言われてしまえば、どうすればいいのか。
 答えの導けない自問に、ロルは改めて、己の業の深さと意味を思う。
「君の背負う罪は重い。ただ、置かれていた環境を鑑みることができないほど、世界は非情ではない」
「建て前だ」
 緩やかに降ってきた声に、ロルは視線を巡らせ、喉に絡む声を絞り出した。
「君は、もっとも責められるべき人々を、命を賭けて暴き出した」
 冷然と反論しようとする言葉を遮り、ハースは続ける。その行動に、世界は少年の贖罪の意思を認めるだろう、と。
「帰ろう」
 視線を落とし、むっつりと黙り込んでしまったロルの目を覗き込んで、黙って話を聞いていた土屋が乞うた。
「すべてが終わったら、君を待つ人の許に帰っておいで。そして、君が帰ってくることをいつまでだって待っている人の中に、私がいることを、忘れないでくれ」
 息を呑み、怯えたように肩をすくめて、少年は反射的な動作で穏やかな土屋の目の奥を見つめ返した。甘い言葉に隠された思惑はないか、やさしさに誤魔化された残忍さはないか。生き抜くための必須項目であった猜疑心をもって対峙しても、その奥底に隠されているはずのものが見当たらない。偽りのない言葉がいよいよ信憑性を増す。
 馴染みのない違和感に、ロルは足元からぞろりと背筋を這い上がる恐怖を覚える。


 ずっと、闇の中で生きてきた。
 頼るものはなく、信じるものもなく。縋るのは遠い昔の記憶だけ。
 誰も呼んでくれないから、ともすれば忘却の彼方へと運ばれそうになる己の名を祈りの言葉に、たった一人の家族を神の代わりに。遠い約束を預言の代わりに、息を殺して生きてきた。
 光など、望んでも手に入るはずがあらず、血を浴びるたび、闇はその深さを増す気がしていた。
 希望を思う暇はなく、絶望すらする余地もなく。そしてただ無感動に時間だけが積み重なり、犯した罪を糾弾されて終わるのだと思っていた。
「もう、大丈夫だよ」
 力強く宣言し、不意に頭部を包み込んできたぬくもりの主に、ロルは八つ当たりと知りながら、殺気にも似た怒りを覚える。時間をかけてようやく、すべてを諦めて、投げ出すことを心に覚えこませたのに。やさしく無責任な夢を見た後ほど、目覚めが辛く、悲しいものだというのに。
「大丈夫、終わったんだ。――辛かったよね」
 耳に届いたたった一言に、築き上げてきたすべてが瓦解していく。
 堰き止め、体中に澱んで溜まりこんでいた思いが、一気に溢れ出していく。
 知らず喉が鳴り、抱き寄せてくる腕の隙間から見える部屋の光景が、滲んで揺らいでいた。カタカタと体は勝手に震えてしまい、なにもかもが制御できなくなる。どうすればいいのかわからず、どうしようもなく。ただ戸惑いに表情を歪めれば、回された腕が力を増す。
 帰っておいでと、別の声が告げた。
 いくつもの声が優しく折り重なって、ロルの上へと降り積もる。
 自分たちは友達だから。仲間だから。だから、ずっと待っているから。いつでもいいから。帰ってきて、そしてまた、一緒に過ごそう。
「君が君自身の罪を赦せないなら、ボクが君を赦すよ。だからお願い。もう、いなくならないで。そういう約束だったじゃない」
 いつまでも待っているから、と、頭上から響く震える声に、ロルは泣き笑った。
 そうだ。約束をしたのだ。
 それは再開を願ってのものであり、行き着く先に、悲しい別れなどいらない。互いの笑顔が見える距離で、穏やかな時間を刻むための約束だ。まだ果たされていないのに、反古にするわけにはいかない。
 そっと瞼を伏せ、浮かぶ笑みを感じながら。少年は小さく、それでもはっきりと頷いた。
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