■ 補遺 --- 月が泪をこぼす夜
突きあげられるような感覚に、それは全身全霊を傾けて、悲鳴をあげまいと己に命じた。
理性の指示など待たない直感に任せての行動は、どうやら正しかったらしい。反射的に駆け寄り、相手を庇う形で地に伏した腕の中には確かなぬくもりがあった。幾分ペースを早めた心音が、規則正しく伝わってくる。
失わずにすんだのだと、守ることができたのだと。そう思った瞬間、深く溜め息をついていた。自分のせいで失われる命など、もうひとつもあって欲しくはなかった。だから、間に合ったことに安堵したのだ。
頭上を、あらゆる音が飛び交っている。怒号と、悲鳴と、そして銃声だ。
どうか殺さないでくれと、それは切に願う。彼らが銃を手にしているのも、銃口を向けてくるのも、すべては彼ら自身の責ではないのだから。
「ここを動くな」
「待って、危ないよ!」
空気を吸い込めば、それだけで全身に痺れが走った。苦労してようやく声を絞り出したのに、返されるのは求める答えではない。もっとも、聞き入れるつもりはなかった。
屋上に待機していた人間が必死になって応戦するのとは反対側、自分たちの上ってきたドアの影に、それは飛び込んだ。
彼らが対峙しているのは囮だ。実際に攻撃を受けた身だからこそわかる。最も致命傷に近い一発だけ、軌道が違っていた。体は思うように動かないが、誰も気づいていないなら、自分が対処せざるをえない。向けられた銃口の向きを手で逸らし、蹴り上げて武器を海へと放る。
これでもう大丈夫だろうと、張り詰めていた緊張の糸が緩むのと、体が動かなくなるのとは同時。
思いもかけない行動につられて振り返ったのだろう面々の声が、遠くに聞こえる。そして、倒れこむ自分を引く腕の存在を知る。
無理やり引かれたことで仰け反った喉元のおかげで、気道が広くなって少しは呼吸が楽になったものの、今度は滴り落ちる血の感触が生々しく伝わってきた。引きずられるままに足が進めば世界は流れ、それは眼下に黒い海原を認める。
落ちていくのだと。どんな状況に追い込まれても冷静さを保つようにと訓練された理性が静かに、己の置かれた状況を教えてくれた。重力に引かれ、風が体の脇をすり抜けていく感触をまざまざと知る。
「――っ!!」
耳鳴りの向こうで、懐かしい音を聞いた。もはや、この世界で知っているのは己ともうひとりしかいない、大切な響き。誰にも告げたことのない、自分だけの名前だ。呼ばれているのだと、麻痺した思考回路の中で思い、それは音源に向けて、ゆるりと手を伸ばす。
霞んだ視界に、大切な人の顔と、その人の伸べてくれる手が見えた。もっとも、指先すらその人の元には届かず、おぼろげながらも、悲痛なその表情を見るだけにとどまった。
誰が、彼にこんなにも悲しげな、いまにも泣き出しそうな表情をさせているのか。思い当たらない理由が不思議で、彼を泣かせる存在が不愉快で。それは彼を慰めようと、目元を和ませ、唇を吊り上げる。伝えなくてはならないことも、伝え切れていないことも、山のようにあるのに。せめて言葉を届けたくて呼気に思いを乗せようとしても、うまく音にならない。
泣かないでほしい。辛くはない、自分は大丈夫だから。
残酷にも引き剥がされていく彼との距離は、加速度的に増していく。出せたとしてもはや声が届くこともなく、姿が見えることもなく。ただその方向だけをぼんやりと見つめて、それは背中から水面に叩きつけられる。
君がいるなら、悪夢だっていつまでも見ていたかった。醒めてなどほしくはなかった。
次に見る夢で、また会えるだろうか。
もっと側にいたい。ずっと、一緒にいたい。ひとりは、もう嫌だ。
君と共に。それだけでいいんだ。
霞み、歪み、無数の泡に包まれる視界。閉じるのを忘れていた唇から大量の水が流れ込み、肺から空気が失われていく。目を開けているのはもう限界だと、無駄に冷静な思考回路が低く囁く。
君にもう一度会えたなら。
すべてが夢で、この上ない悪夢で。それから醒めて、もう一度。あの日が戻ってくると思ったんだ。奇跡にだって、手が届くはずだったんだ。信じていたんだ。
光が失われ、意識が零れ落ちていく中でも、やさしい光はまだわかる。
この水の向こう。遠く、果てしない天空から、冷たい色の光が降ってきては揺れている。
最後に見えた気がしたのは、きっと、ずっと願っていたものであるはず。
見果てぬ夢と切なる希望を託し。探していたのは、月影の夜に架かる虹。
その麓に行きたかった。
君の架けた虹の麓に追いつきたかった。君の虹になってみたかった。
自分の願いは、そんなものだった。
それにはもはや、明確な意識を保つゆとりさえ残されていなかった。だからただ、胸の内に己の声の続きを聞く。
君とならば、きっと。ひとりでは無理でも、でもきっと。この悪夢を打ち破って、そして。
――きっと、月に浮かぶ虹だって、見つけられる気がしたんだ。
月虹の麓にだって、辿りつけるはずだったんだ。
肩を揺さぶられ、彼ははっと目を開けた。
「大丈夫か? だいぶ、うなされていたようだが」
覚醒していく意識に響く声が、現状の把握を促す。背筋を伝う汗も、胸郭の内で暴れている心臓も、すべては現実。いまの自分は、夢を見ていたに過ぎないのだ。
「聞こえているか?」
覗きこんできた心配そうな瞳を一瞥して頷くと、クッションの効いたシートに、彼は改めて体重を預ける。いろいろと巻き込んでしまった相手の帰国日に際し、お忍びで挨拶に出向いた男が、ターミナルビル上層に用意されている特別室まで帰ってくるのに、そんなに時間はかかっていない。
迂闊にこんな場所で眠り込むのはらしくないと思う一方で、いまだ本調子ではない体に舌打ちを禁じえない。わがままを言って出かけたりなどせず、おとなしくまだベッドに納まっているべきだったか。もっとも、それはありえない選択だ。彼の姿を直接網膜に刻む、もしかしたら最後のチャンスなのだ。ふいにする気はない。
それにしても、短いにしてはずいぶんと濃い夢だった。
いつまでも覚めることのない悪夢。その残滓はいまだに胸のうちで燻り、隙を見ては触手を伸ばし、心を、身体を呑み込もうとする。
いま夢を見ていた、あのあと救いを得てここにいる自分が現実なのか。
夢の中、救いを得る前の自分が現実で、ここにいる自分はそのあとの終わらない眠りの中に見ている夢なのか。
混乱して、わからなくなる。存在を確信できない底知れぬ不安感から、いつになったら解放されるのか。そう思う自分はずいぶん貪欲になったものだと、彼は薄く自嘲の笑みを浮かべる。
「ああ、大丈夫。ちょっと、夢見が悪かっただけ」
ゆっくりと息を吐き出しながら目を閉じれば、隣の気配は小さくそうかと呟き、それ以上はなにも言わないでくれた。
光を拒絶した視界の中、心音のリズムを拍の目安に、彼は低く旋律を紡ぐ。
「しかし、よかったのか?」
「なにが?」
「彼も、他の皆も、君のことには心を痛めていた。せっかく出歩けるようにもなったし、証人保護プログラムも断ったなら、せめて、彼らに無事を伝えるなり顔を見せるなりするぐらいしてもかまわなかったと思うのだが」
旋律の途切れを狙い、隣の人物は唐突に問いかけてきた。脈絡のない質問に意図を量りかねて彼が首を傾げれば、男は言い辛そうに続ける。そんなことかと、ようやく掴めた核心に、彼は薄く笑む。
確かに、最近までは全身に負った重傷のせいで、自由に動き回ることができずにいた。もっとも、何発もの銃弾を浴びた上、海に落ちたのだ。どれほどの怪我を負おうと、命があっただけでも儲けものだと医者に言われていたし、それは彼もわかっていた。そして、動けなかったのなら会いにいけなかったのは致し方なく、動けるようになったらば会いにいってもいいだろうという男の言い分は明快だ。だが、彼には彼で考えがあり、意地がある。
「知ってる。でも、その証人保護プログラムっていうのを断ったからこそ、オレはオレなりのけじめとして、すべてが片付くまで、あいつにも、みんなにも近づかない」
それが、彼らを守るための一番の近道だと考えるから。
力強く言い切った少年に、男は釈然としないといった表情を浮かべている。
「なら、先日の手紙は?」
わざわざ変装までして届けてきたのに、と、大袈裟な仕草で今日もまた取り替えていた眼鏡を戻しながら問いを重ねてくる相手に、彼はやはり笑んだままだ。
「ちょっとした処方箋。忘れてほしいと思うことはできないけど、枷にして立ち止まらせるのは、もっと嫌だったから」
わかりづらい細工をいくつも施してはあるが、気づいてくれるかどうかには、しかし。彼にも自信はなかった。
普段ならばすぐにも気づいてくれたろうが、昨今の状態では、もしかしたら騙されたかもしれない。でも、それはそれで、ひとつの結末のあり方だとも思っている。なんにせよ中途半端は良くないと、そう考えて苦労して作成したのだ。普通の手紙にも、遺書にも読めるようにと。
これ以上その話題に固執されていても嬉しくなかったので、彼は立ち上がり、側に控えていた護衛役の人間に、テラスに出たい旨を伝える。困惑気味に雇い主を見やった護衛に頷いて見せ、男はおとなしく話を打ち切った。
最も目にしたい相手の顔を見ることは叶わないだろう。それはわかっていながらも、彼はせめて、その後ろ姿ぐらいは鮮明に記憶にとどめようと、手すりから身を乗り出すようにして目を凝らす。
数多の報道陣に囲まれながらタラップに向かって歩く少年たちを視界に認め、やってきた思わぬ瞬間に唖然として。彼は、声を失っていた。
「さすがに、勘が鋭い」
様子の変わった少年に男もまた隣に並び立って目を眇め、楽しそうに含み笑う。
飛行機の離着陸の轟音と風の音に掻き消され、音は聞こえない。おまけに滑走路とテラスとの距離は遠く、互いの姿はほんの小さくしか認識できない。それでも、不意に足を止めて上向けられた視線はまっすぐに彼を射抜き、泣き顔とも笑顔とも定まらない表情で、ゆっくりと唇を動かす。
その動きを必死に凝視して追っていた彼が小さく、確かに頷くさまを視界の隅に、男は笑みを深める。
まとわりつく青い髪の少年に急かされ、相手はゆるりと踵を返し、飛行機の中へと消えていく。それを確認して、彼は強張っていた肩から力を抜いたようだった。
二人だけの会話の中身を問うなどという無粋な真似を、男は好まない。ただ、低い声で提案する。
「この件が片付いたら、私は日本まで外遊に行くつもりだ。ついてくるだろう?」
不審と期待がせめぎあう蒼い瞳に見つめられ、男は目線を流し、頬の筋肉を弛緩させる。
真意など答えてやらない。いつか、自分で気づけばいいと思うからだ。あの子供も、この子供も。鋭いくせに妙に鈍くて、周囲で見ていて大人がどれほどはらはらさせられているか、思い知ればいいのだ。
いくらでも、約束を積み重ねればいい。ひとつずつ果たして、また重ねて、そして失ったものを取り戻していけばいい。
そのためになら、いくらでも力を貸そう。
それは、彼とあの子の約束であり、自分とあの子との約束であり、自分から彼への思いだから。
よくわかっていないらしい子供と愉快そうな老人をよそに、注目を浴びる一機の飛行機が、滑らかな動きで空へと飛び出しいく。
そして半年後。
時に埋もれ、忘れられかけていた悲劇の終末に用意されていた予想だにしない展開に世界が沸き立つのは、また別の話。