■ 第二話 --- 孤高の終着点
 気配を殺しての行動は自分の専売特許かと思っていたら、そうでもないらしいことに、ロルはしみじみ気づかされた。まっすぐと前を見据える表情にあからさまな険を刻み、ロルの隣をひた走るJもまた、ほとんど足音を立てていない。
「少し」
 下がって、と、最後まで言葉を続ける必要はなかった。
 ぴくりと片眉を跳ね上げたロルが短く告げれば、Jはそれだけで意思を察し、ほんの僅かに速度を落とす。反対に足を早めたロルが曲がり角の手前に軸足を置き、陰に向かってぐるりと大きく回し蹴りを入れる。打撃音が響くと同時に情けない呻き声が聞こえ、なにかが床に崩れ落ちる音が続いた。
 通り過ぎる際にちらりと視線を走らせれば、目を回した中年の男が、だらしなく床に伸びている。その手に握られているのは金属パイプだ。
「みんなは大丈夫かな?」
「護衛のプロがついてる。信じて平気だろ」
 目の前の男の身を案じる言葉でも同情の言葉でもなく、Jはただ、手前で別れた仲間たちを思う言葉を発した。これで、彼らと別れてから三人目の遭遇である。少なくない人数の関係者が、建物内にいると見てもいいだろう。せめてもの救いは、いままで見てきた相手がいずれも、白衣を身に纏った研究員という様相の人間であること。とてつもなく危険な武器を持っているわけでも、厄介な武術を身につけているわけでもなさそうなことぐらいだ。
 もっとも、油断は禁物である。警備員に自分たちが遭遇していないだけかもしれず、先ほど洞窟での追撃を振り切った相手が、いつまた姿を現すかもしれない。不吉な可能性なら、いくらでも考え付くのだ。表情を曇らせるJの不安は、ロルの言葉にも晴れない。
 親切なことに、廊下に並ぶドアにはいずれも名称を示す札がついており、目的地を探すのにいちいち部屋の中を確認する必要がないのはありがたかった。
「多分、こっちでビンゴだ。居住系の部屋がない」
 低く囁く声に無言で頷き返し、Jは自分に割り当てられた右側の壁に視線を走らせ続ける。目指すは警備室か執務室。そこにはきっと、外に繋がる連絡手段があるはずだから。
 はじめから途中で別れる予定はあったが、この人員配分はハプニングによるものだった。
 内部を知っているといえ、ロルが全体の構造を完璧に把握しているわけではない。ならば別れて動く方が効率がいいだろうから、道が分かれているごとに、二手になろうとは言っていた。ただ、一番はじめの岐路で、思いもかけず内部の人間とおぼしき相手に遭遇したのだ。
 突然の闖入者に驚いたのだろう。警報を鳴らされれば、近隣に居合わせた人間が続々と集まってくる。なんとか凌いで逃れたときには、Jはロルと二人に、相手を挟んだ反対通路に残りの面々とあいなっていたのだ。わずかに予定は狂ったが、ぐずぐずもしていられない。
 あくまでも目的は外との連絡手段を見つけ、ハースに告げることにある。探し物を見つけた、と。直接伝える必要はない。多少遠回りになろうが、とにかく彼の耳にその情報を入れさえすれば。そうすれば、彼はきっと腰を上げる。いよいよもって利用価値の増したロルを失わないために、手を尽くしてくれるはず。
 作戦はあらかじめ確認してある。あとからきっと合流しようと叫び、二人はいまの状況に至るのだ。


 走る先の廊下の明度がやけに高いことに気づき、Jは違和感に眉をひそめる。
「なんだろう、あれ」
「突っ切るから、なに見ても足を止めるなよ」
 意味深な返答の真意を問いただすより先に、二人は件の光の中に飛び込んでいた。明るい場所にいきなり放り出された瞳が、採光の調節を試みる。一旦ホワイトアウトした視界が正常に機能しはじめた瞬間。Jは、自分の見ているものに小さく悲鳴を上げた。
「止まるなってば!」
「でも、あれ!!」
 Jの反応は予測の範囲内だったのだろう。すぐさまその腕を取り、ロルは立ち止まってしまったJを半ば引きずるようにして足を進める。
「許せないと思うなら走れ。外に出られれば、この事実も明るみに出せる。あいつらも、外に出られる」
 叱咤するような声に導かれ、Jは唇を噛み締めて足に力を込める。
 廊下の右サイドには、いままで続いていたオフホワイトの壁の代わりに、大きなガラスがはめ込まれている。部屋の面積に対して中にいる人間は少なく、しかも遠目なので詳細まではわからない。それでも、ガラス一枚隔てた向こうで、自分たちよりも幼いぐらいの子供が数人、壁に繋がれ、白衣を着た大人たちに囲まれている様子だけははっきりと見てとれた。近くにしゃがみこんでいた一人が立ち上がるその手に握られていた注射器のようなものの中身が、なんらかの病に効く、正規の薬であることをと。ありえないだろう希望に、縋る気持ちは音を立ててしぼんでいく。
「やつらは自分の作業に基本的に夢中だ。上を見られない限り気づかない。一気に抜けるぞ」
 更に速度を上げると、Jはなるべく周囲を見ないように視線を伏せ、黙って前へと進む。
「君も――」
「オレは、生きて出られた」
 問題の場所はすぐに抜けたが、網膜に焼きついた光景は薄れない。握られている手首が痛むのを訴えることも忘れ、Jは口を開いた。だが、皆までセリフを言わせず、ロルは力強く遮る。
「オレは生きてここを出て、いまも生きてる」
 追求を拒絶し、詮索を忌避する声に、Jは軽い相槌を打つにとどめて言葉を打ち切った。過去の事実を確認したところで、当面の問題の解決にはなんの足しにもならない。まず、自分たちの直面している事態を打破して、その後だ。この場を切り抜けることが、次のステップへの足がかりになる。
 廊下の奥へと目をやれば、あからさまにそれまでの部屋とは風体の異なる、大きな扉がある。
「きっとあそこだ」
 目の前に立ちふさがる障害はない。わずかに弾んだ声音を残し、先に立つロルが取っ手を捻る。
 ドアの開く重苦しい音に紛れて、Jにはそれはよく聞き取れなかった。ただ、慌てて身を捩ったロルの左袖をなにかが引き裂き、血が滲むのが視界に映る。電気のついていないがらんとした部屋の中。誰もいないかと思われたそこには、窓から差し込む月の光を背に、ひとつの人影が佇んでいた。



 建物自体がすっぽりと洞窟の中に入っているのかと思いきや、外に出ている部分もあるのだと、窓の向こうに覗く夜空と月が示している。薄明かりの中、その人影は腰を下ろしていた椅子から立ち上がり、デスクを回り込んでじりじりと距離を詰めてきた。
 たったいま受けた銃弾から、相手が持つ武器は想像に難くない。
 鈍く、引き攣るような痛みを訴える腕で、ロルはそっと、腰に差した小銃を探る。扱えるのなら持っていけと、部屋を出る直前、ドゥルーズから渡されたものだ。もっとも、弾数は残り二発。どれほどの抵抗が試みられるかは、わかったものではない。
 攻撃を仕掛けてはきたもののまるで殺意の見られない相手に、ロルもJも、動くに動けない。ただじっと動きを注視し、次にとるべき行動を頭の片隅で思案する。
「ようこそ、所長室へ」
 デスクの正面で動きを止めた影の主は、深く、威厳に満ちた声を発した。
「歓迎するよ」
 いっそ穏やかな、まるで子供を宥めるかのような口調。どこかで耳にした覚えのあるその響に、警戒しながらも記憶を漁っていたJは、思い当たった候補に小さく声を上げる。もしも予測が正しいなら、あまり会いたいと思える相手ではない。だが同時に、一度は直接見てみたいと、密かに願っていた人物でもある。
 もっとも、真偽を量る術はJにはない。判断材料にしようとそっと視線を隣に流せば、ロルは表情の削げ落ちた瞳でひたと正面を見据え、ゆっくりと口を開く。
「こんな所でなにをしている、ルーカス・ダントン?」
 候補は、大当たりだったようだ。
「君を待っていたに決まっているじゃないか」
 地を這うような低い声にも、影は動じない。つれないな、と軽口を叩きながら、唇を歪めて笑みを作る。気持ちのいい笑い方ではない。相手を卑下し、蔑む思いが薄膜を通して伝わってくるような。直接に罵られた方がましだと思えるほど、不愉快なものだ。
 ぴくり、と、ロルの頬が引き攣る。だが、それでも彼の横顔にはなんの表情の変化も生まれない。押し殺され、誤魔化されればその分ロルの内側で煮えくり返っている思いが余計に伝わる気がして、Jは知らず、身が強張っているのをぼんやりと悟る。
 手の中の凶器をくるくると弄びながら、影はデスクに腰を預ける。
「まったく、君はいつでも私の予測を裏切ってばかりだな。まさか、こんな強硬手段に打って出るとは思いもしなかったよ」
「それは、お前がオレと違う感覚を持っているからだ」
 いかんともしがたい差異なのだと、ロルはやけに静かに返す。
「オレは、自分自身の存在以上に重い存在を知っている。その存在を失えばオレは狂うだろうし、守るためならば死をも喜べる。お前には、そういう感覚がないんだろう?」
「ないな。私は己以外の存在に、己以上の価値など認めない」
「なら、わかるわけがない。もっとも、わかってもらおうとも思わないけど」
 きっぱりと断言した子供に目をやり、ルーカスはくつくつと笑いはじめた。場違いなほどのんきな笑い声は次第に大きくなり、高らかに響き渡る。
「ああ、だから君は素晴らしい。やはり、手放すべきではなかったかな」
 笑いの波が収まらないのか、微かに震える声で告げると、ルーカスは愉悦に満ちた視線を部屋の入り口へと向けた。
「君の勝ちだ」
 意図のさっぱり読めない行動にロルとJとがそれぞれに身を固めて警戒心を引き上げれば、影はゆっくりとデスクから離れ、窓の前まで戻ったところで足を止めた。自信なのか侮蔑なのか。背中を無防備にもロルとJとに向けた状態で、彼は続ける。
「所長はいま、本社の方に行っていてね。ここにはしばらく戻らない。中の連中は、君から見れば弱すぎて相手にならないだろう?」
「なにが言いたい? 今度はなにを考えている?」
「賭けていたんだよ。私の予測が勝つか、君の行動が勝つかを」
 選択肢を二つ用意した。
 自分が勝てば、すべては筋書き通りに行くようにと。相手が勝てば、筋書きの結末が誰にも見えなくなるようにと。
「言っただろう、退屈凌ぎだと。一番面白い過程を得られるなら、別に誰が勝とうと、どうだっていい」
 私には関わりのないことだと、振り向いたルーカスはあっさり言い放った。
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