■ 第七話 --- 彼の受けた仕打ち
 突然の闖入者に一応の説明をされて、なんとなくは全容が読めてきた一行だったが、いまだ、事態の把握は追いつかない。むしろ、混乱が増したぐらいだ。
 ナイフを投げつけた名残で宙に差し伸べていた腕を下ろし、睨み据えていたカメラから視線を外して。
 力なく地面を眺めていたロルは、誰に聞かせるためでもない声を、低く発した。
 こちらの策はことごとく潰され、もはや手札は残っていないに等しい。なのにあの男は、のんびり観察して、わざわざ口出しをすることで場をかき乱し、あまつさえヒントを残していけるほどのゆとりをみせていた。
 それはすなわち、彼の筋書き通りにすべてが進んでいるということ。
 あえて情報を与えることでこちらの反応を伺い、それをスパイスにして愉しむだけの余裕を持っているという意味だ。
 絶望的だ。
 冷静に状況を悟った瞬間、ロルは岩肌に思い切りこぶしを打ちつけていた。鈍い音に続いて細かな石の欠片が零れ落ち、裂けた皮膚から、血液がその後を追う。
 向けられる当惑を知りながらも、少年は他に、思いの吐き出し方がわからなかった。徐々に近づいてくる微かな足音が耳朶を打つのとあいまって、ロルの焦りは加速度的に増していく。
 遠い昔に抑えつけ、二度と甦ることのなかったはずの喪失への恐怖が湧き上がる。それに伴うのはいつだって、奇跡を希求する内心の叫びと、そんなものはあるはずがないと、残酷に宣言する理性の声だ。
 責められるのはかまわない。恨まれるのも甘受しよう。
 ただ、自分の浅はかさが悔しく、不甲斐なさが口惜しく。
 力なさが、苦しかった。
「大丈夫?」
 労わるようにしてかけられた声に、もはや誰の耳にも明瞭に届く、幾重もの足音が重なる。そっと傷ついたこぶしを両手で包み込みながら、声の主、Jは視線を巡らせ、洞窟の入り口方面を、細く眇めた瞳で剣呑に見やる。


 不気味な沈黙を破ったのは、振り向いたJだった。
「この中は、少なくともここよりは安全なんだよね?」
 ようやく岩壁に押し付けていた腕を引いたロルが視線を巡らすのをまっすぐに受け止め、Jは凛とした声で問う。
「さっき、そう言ったよね」
「言った」
 この場にとどまっていたところで、追い詰められて逃げ場を失うのは火を見るよりも明らかだ。逡巡を孕みながらも頷き、掠れる声で言い切ったロルにJは不敵な笑みを浮かべる。
「なら行こう。開けられるんでしょ?」
 ぼんやりと立ち尽くすロルの目の前にあるキーボードに自ら向かい、Jは暗証番号を告げるよう促した。
 思考が追いつかないのか、なんの抵抗もなく応じた声がぼんやりと告げる番号を、細い指が素早く弾く。
 軽く乾いた音に大きな金属音が続き、扉はぎこちなくも確実に開いていく。洞窟内とは対照的に、扉を一枚隔てた向こうは、どこにでもありそうな、いかにも研究室といった様相だ。
 慎重に、まず足を踏み入れたドゥルーズが周囲の安全を簡単に確認し、ひとつ頷いて残りの面々を促す。背後を固めるアーヴィングにせかされ、土屋や他の子供たちもそこに足を踏み入れるが、ロルは動かない。
「ボクは、諦めないよ」
 ちょうど中と外との境界にあたる位置で振り返り、Jは言い切った。
 はらはらと、背後と、そして半端な位置に立って動かなくなった烈とを見やる土屋たち大人の様子も、一体なにをしようとしているのかと、とにかく黙って見守っている仲間たちの様子も、Jはきちんと察している。自分がどれほど危険な賭けに出ているのかもわかっていたし、それがどれだけ馬鹿げた行為かということも、理解していた。
「早く中に入るんだ!」
 もう、迫る足音の主たちとの距離はろくにない。
 尋常ではない、目の前に立つ子供の空気を察したのだろう。なにかを憚るようにひそめながらも焦りを滲ませる声で、アーヴィングはいまだ動かない子供をせかす。それでも、ロルの表情は凍りついたまま、整った顔にただ貼り付けられていた。輝きを失った瞳が、その内心の戸惑いを雄弁に語る。
 摩耗しきった精神力のため、意識と肉体との間をうまく接続できていないのだろう。もはや声すら失い、揺れる視線に不安と絶望とを隠さず溢れさせているロルに、Jはゆったり微笑み、場違いなほど悠然と手を差し伸べる。
「大丈夫だから、諦めないで」
 根拠は見えないものの、揺るぎなく示された自信に裏打ちされ、声は力強く響く。さあ、と微笑むJに誘われるように、突きつけられ、揺らされた手を、知らず小刻みに震える手が取りかけたその瞬間。ロルはどこか茫洋としていた表情を一気に引き締めてぴくりと肩を揺らし、伏せろと叫んでJを巻き込み、その場に倒れこむ。
 間を置かず、洞窟内にいくつもの銃声が轟いた。



 岩壁が削れ落ちる軽い音に混じり、銃弾がそこかしこに当たっては跳ね返る物騒な音が反響する。
「早く、近くの部屋に!」
 音源に視線は向けたまま、後退しつつ応戦するアーヴィングの指示が飛ぶよりも早く、ドゥルーズの手によって、面々はすぐ近くにあった扉の中へと押し込まれる。
 強引に壁沿いに押しやられ、先に逃げるようにとロルから手振りで示されて身を翻しかけたJは、暗がりの中、勘だけを頼りに撃ち返すアーヴィングに声をかける。
「パネル、壊して!」
 脈絡のない発言に一瞬の驚愕をみせたものの、アーヴィングは向かってくる相手に対する手は止めないまま、黙って片手の小銃の照準を手近にあったパネルに合わせると、引き金にかける指に力を込める。
「伏せたまま、こっちに来るんだ!!」
 壁を防弾壁代わりに応戦するドゥルーズのもとになんとか這い寄ると、Jは部屋の中に転がり込む。続けて洞窟内から建物へと入り込んだロルは、そのまま壁板の一部を乱暴に剥がした。
「閉めるから、退がれ!」
 現れたボードにざっと目を走らせ、最後まで外に残っていたアーヴィングに声をかけると、ロルは迷いなくいくつかのボタンを押す。目線は襲いくる敵から逸らさず、背中から味方のいる方へと飛び込んだアーヴィングの目と鼻の先。仰々しいほどの音を立てて閉まった金属の扉が、追跡者の攻撃をその身に呑み込み、彼らから遮断した。
 壁板を適当に元あったように押し込めると、ロルは肩を落とし、ゆっくりと立ち上がるアーヴィングへと視線をやった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、平気だ」
 攻撃が止んだことを悟るや駆け寄ってきたドゥルーズに手を貸され、体を起こす男はしかし、口で言うほどの軽傷ではない。眉をしかめ、ゆっくり起き上がる様子を大した感慨ものぞかせずに見やると、ロルは扉の開け放たれている部屋を示し、口を開いた。
「人、来るかもしれない。中に入って、それから応急手当をしよう」
 色のない瞳が、先を見据える。唇の角度と、目元の険しさと、そして、微かに力の込められたこぶしと。ほんの僅かな変化だけで、ほっそりとした全身から、鋭利な感情の刃がほとばしる。
 先までの、攻撃を仕掛けてくる相手に向かって反撃をしていたときとは違う。もっとずっと昏く重く、感づいてしまった人間の五感を奪い、意識を呑み込んでいくもの。
「君も、手当をしないと」
 なんとか自力で立って部屋に向かうアーヴィングに付き添いながら、ドゥルーズが立ち尽くす子供に声をかける。
 たった一言でも、それは目には見えない呪縛が解き放たれる契機だった。
 思いもかけないロルの気迫に圧され忘れていた呼吸を、覗き見ていた烈たちは不意に取り戻す。瞬時に身に纏う空気の温度を変え、頷きをひとつ返したロルはおもむろに息を吐き出し、一拍置いてから彼らの後に続いた。


 胸や腹に被弾していたものの、アーヴィングの傷はいずれも、致命傷には至っていなかった。明暗を分けた鍵だったろう防弾チョッキを脱ぎ、ドゥルーズが携帯していた救急セットで手早く処置を行なう。その傍らに座り込んだロルは、傷を見せろと言って血の滲んだ上着を強引にめくられ、相手のなすがままにされていた。
 夢中になっていて気づかなかったが、肩を掠めただけだと想っていた銃弾は、浅くない傷をその肌に刻んでいたらしい。肉まで抉れた傷を、上着の裾を裂いて作った簡易包帯で巻き込みながら、Jはむっつりと黙り込んでいる。横合いから作業を覗き込んできた豪が、あらわになった素肌を見て息を呑むのを受け、ロルはようやく唇の端を持ち上げた。
「どうやったらこんなに傷がつくんだよ?」
「それはまあ、いろいろと」
 どの傷跡がいつどこで負った怪我の名残かなど、もう覚えていない。いちいち覚えていられないほど、すべては日常的なことだった。
 あいまいに言葉をぼかし、それ以上の質疑をロルは拒絶した。問われたところで、答えられることはなにもない。だが、豪をはじめ、室内にいる人間の注意が、いまだ体中に刻まれた傷跡に集中しているのは感じられる。
 向けられるのは、赤の他人の、それも完治している傷を我が事のように痛ましく思う視線。含まれている悲しみと苦しみには、偽りなど一片もない。そのことがやけに居心地悪く感じられ、ロルはついと、あさっての方向に目を逸らした。
 考えなくてはならないことは山のようにある。こんなところで、不慣れな感覚に冷静な思考を浸食されてしまうわけにはいかない。
「もう平気?」
 ふと烈に問われ、ロルは首をかしげながら視線を合わせる。
「傷なら別に、痛まないけど」
「そうじゃないよ。さっき、なんだか壊れちゃいそうだったから」
 淡い苦笑に瞳を歪め、烈は穏やかにロルを見つめた。
「苦しいなら、我慢しない方がいいぞ」
「抱え込んでどうしようもなくなるぐらいなら、吐き出しちゃえばいいんでげす」
 続けざまにやわらかく声をかけるのはリョウと藤吉で、締めくくるのは二郎丸と豪のセリフだ。
「無理はなしだすよ」
「おれら、友達だろ?」
 次々と向けられる言葉の力強さと迷いなさに、ロルは目を見開いた後、微かに表情を歪めた。
 気遣われ、思いを寄せられているのが嫌というほどよくわかる。だが、それゆえにますます内心に暗澹たる思いが募ることを、彼らにどう伝えればいいのか。そもそも伝えるべきか否か。そんなことすら、よくわからなかった。
 いまの言葉を編み出したその思考の組み立て方こそ、彼らとロルとの、身を置く世界の違いを突きつけるものだというのに。
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