■ 第六話 --- 裁き裁かれるもの
誰からともなく足を止めた中、少年は一人、迷いなくつかつかと扉に歩み寄る。そして、すぐ脇の岩肌を軽く触れて回ったと思えば、ぱかりとその一部をめくりあげた。
「それは?」
「電子ロック?」
覗きこむようにして豪と烈がそれぞれ問いかければ、ロルは埋め込まれていたキーボードに目を走らせてからわずかに口元を歪め、じっと視線を注いでくる一行を振り返った。
「ここ、造りはなかなか複雑だけど、通路は単純だし、防犯設備とかは特になかったはずだから、突破に問題はないと思う」
「お前、この中を知ってるのか?」
「知っている」
真剣な面持ちで突如語りはじめたロルに、豪が目を見開いて問えば、彼はほんの一瞬だけ、暗い笑みを刻んで軽く頷いた。ざわりと走った疑念のさざ波に瞳を眇め、ロルは続ける。
「侵入すればそれなりに排除しようとはされるだろうけど、中にいる人間は別に軍人とかでもないし、十分対処できると思う。島の外に出るための手段もどこかにあるだろうから。それを探して、逃げるんだ」
説明を一気に終わらせると、少年はキーボードに向き直る。
「番号が変わってなければ、一発で開けられる。開いたらすぐ走って――」
「君は?」
言いながらキーボードに伸ばしたロルの腕を取り、問いかける声があった。
「なんでそんな他人事みたいな言い方をするの? 一緒に来るよね?」
「行く。でも、中に入って、そこまでだ」
もう一度、切実さを孕んで問いかける声に、ロルは間髪入れずに答えた。
「オレはここで、やらなきゃいけないことがある」
一呼吸おいて、やっと声の主に合わされた瞳には鋭い光があり、有無を言わせぬ強さがある。告げられた言葉に、その腕を取っていたJはわずかに息を呑み、どういうことかと、掠れる声を落とした。
「巻き込んじゃったのは、悪かった。危ない橋だとわかっていて、それでもあえて、オレはお前たちを利用した。謝って足りることじゃない。だから、責任をもって幕を引く」
繋ぎとめるぬくもりを静かに振り払うと、二人を見つめる八対の瞳を順に見回し、ロルは毅然と言い放った。所在をなくした腕を体の脇に降ろし、Jはただ拳に力を込め、なにかに耐えるような風情をみせる。それを目の端に捉えながらも、表情も声のトーンもそのまま、ロルは淡々と言葉を紡ぎ続ける。
「中のやつら、プロじゃないけど、一応の足止めは必要だろ。お前たちに、銃口なんか向けさせない。全部オレが引きつけて喰い止める。それが、せめてもの責任の取り方だから」
誰ひとり死なせない。怪我もさせない。血の一滴も、流させてなるものか。
当初の目的を外れた決意であることも、そのための覚悟が、追いかけていた目標を目の前にして断念せざるを得ないだろう可能性を意味していることも、かまおうとは思わなかった。ただ、ここで選ぶべき道を見誤ってしまったら、きっと自分は自分自身をも見失う。そう、漠然と感じたのだ。
「すべては仕組まれていたに決まってる。さっきの連中にしろここの存在にしろ、都合よく行き過ぎている。そしてオレは、きっとその黒幕を知っている」
「なに、わけわかんないこと言ってんだよ? お前も行くんだろ?」
「そうだよ、君が一番危ないんじゃないの?」
「オレの場合、自業自得だし」
薄闇の中、閉じ込められた檻から外など見ようとせず、雲の向こうなど望もうとせず生きていれば、こんな岐路に遭遇することもなかった。希望も絶望もない混沌の中で、なにも知ることなく時間が尽きるのを待つだけのはずだった。そこから這い出すにあたって、はじめに決めた覚悟だ。
純粋に身を案じてくれていることを伝えるやさしい声に、ロルは笑みを送る。そして思う。短い時間を分かち合っただけでここまで親身になってくれる彼らを迂闊にも巻き込んだ自分は、なんと愚かだったのだろうと。
「それに、こういうのには慣れてる。信じてくれって言えた立場じゃないけど、任せてくれて大丈夫」
『もっとも、お前が裏切らないという保証は、どこにもないがな』
反論は受け付けないとの意思を明確に提示してくる笑みに、烈と豪は思わず口を噤み、互いに目を見合わせる。だが次の瞬間、岩肌から降ってきた知らない声に、居合わせる面々は首を巡らせ、思わず身を硬くしていた。
いくら光の届く範囲が狭いとはいえ、音源もそう遠くはない。視認できるはずだと辺りを見回すものの、そこにはここまで一緒に走ってきた相手の姿しかなく、新しい声の主は見当たらない。
一行から姿は見えなくても、相手からはどうやら見えているらしい。笑い含みに、そう警戒せずとも、自分は危害を加えたりはしないと告げられ、痺れを切らした豪が天井に向かって吼える。
「てめえっ、誰だよ!? 出て来い!」
『それは無理だな。あいにく、映像まで転送できるほどの設備はないのでね』
実に楽しげに、声だけの相手は続ける。
『ようこそ。旧アメリカ陸軍第三生化学研究所へ。きっと君なら、辿り着けると思っていた』
「今度はなんのつもりだ? なにを企んでいる?」
目を凝らしてみれば、音の降ってくる辺りには監視カメラとおぼしきものが設置されていた。殺気立たんばかりの勢いでそちらを睨み据え、ロルは低く吐き捨てる。
「知り合いか?」
『育ての親にしていまの彼の名付け親、といったところか。ああ、ルーカスと呼んでくれたまえ』
いぶかしむように問う豪に、ロルは答えなかった。代わって言葉を与える声は、なんの気なしにそう名乗ると、ふうとひとつ息をつく。
『それにしても、愛想のなさは相変わらずだな。ここまで彼らを巻き込んでおきながら、君はまだ説明のひとつもしていないのか?』
「うるさい、黙れ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
『筋合いはなくとも、責任はある。そう、元はといえば、私の気まぐれに端を発しているのだからな』
姿は見えずとも、ルーカスと名乗った声の主が笑みを浮かべているだろう気配は、存分に伝わってきた。脈絡の取れない単語に眉をひそめる一同とは対照的に、ロルは声と表情とを押し殺す。
『もっとも、君がなにも言わないだろうことも、すべては予想の範疇だ。言いたくとも言えないだろう。君の素顔を知ったらば、きっと彼らは、君の一切を信じなくなる』
すっと、豪の耳元で息を詰める音がした。不審に思って見上げた先では、Jが表情をなくし、呆然と音源を見つめている。
『ほお、最も気づかれたくなかったろうに、そちらの彼には隠しきれなかったか。残念だったな、ロル』
いっそ憎たらしいほどに気の毒がっている風を装う声音で、ルーカスはロルに呼びかけてから、わざとらしく言葉を区切り、いや、と残酷に続けた。
『血濡れのローレライ』
かけられた言葉に、ロルはなにも言わず、ただ俯き、ぐっと唇を噛み締めた。
唐突に提示された情報に思考回路が追いつききらないものの、蔑み切った声に対して感情が示す反応に任せ、豪は痛いほどの沈黙を破った。
「どこの誰だかしらねーけど、わけわかんないこと言うなよ!」
『わけのわからないこと? これだから、子供は嫌いなんだ』
根拠のない抗議に心の奥底からの嫌悪を込めた声を放ち、ルーカスは深々とため息を落とす。沸点に達した怒りからか、息を吸い込みはするものの言葉の出てこない豪が暴れださないように烈と藤吉とが押さえ込む。その様子を横目に、それまで沈黙を保っていた土屋が一歩、足を前へと踏み出した。
「聞き逃すには、物騒な単語だな。ロルくんのことは、今日一日ずっと見ていたが、そんな形容が当てはまるような子には思えない」
『そう、一見しただけでは、誰の目にも力のない子供の姿にしか映らない。まさに、最高傑作だった』
向けられた指摘に、穏やかな口調へと戻しながら、声だけの相手は愉快そうに続ける。
『ならば私から問おう。君たちは、彼が妙に事情に通じすぎているという事実を、どう考える?』
「それは――」
『私は、君たちの知らない真実を知っている』
口ごもり、俯いてしまった土屋に追い討ちをかけるように、声はさらりと言葉を紡ぐ。
『一体どれほどの猫を被っているかは知らないが、それの正体はあどけない子供なんかじゃない。獰猛で残忍な、けだものだ』
嘘だ、と。烈は小さく呟いて、俯くばかりでなにも言い返そうとしないロルの横顔を振り仰いだ。いますぐこの場で、すべてを否定してくれることを願って。すべてが嘘で、声を送ってくる相手が自分たちを惑乱しようとしているだけだと。名指しで槍玉にあげられている彼自身の言葉で、断定してくれることを祈って。
「言っただろ。オレは、殺したいと思われるほどの恨みを買うようなことをしてきたんだって」
切なる思いを込めた視線に返されたのは、自嘲の笑み。決して目は合わせないまま、ロルはまぶたを伏せ、深く息をついた。
困惑と、そして戦慄だろうか。自分を見つめる視線の色合いが変わったことを肌に感じながら、少年はマイペースに落とされる声を聞く。
『私はお前のことが、気に入っていたのだよ』
「迷惑な話だ」
まるで幼い子供を宥めるようなトーンで告げられた、心など一片も込められていない言葉に、ロルはゆらりと視線を上向ける。
「なにを企んでいる? オレの口を封じたいなら、もっとシンプルな方法がいくらでもあっただろう。なぜこんな回りくどくて、不確定要素だらけの策を選んだ?」
『退屈だったからに決まっているだろう』
なにを馬鹿なことを、とでも言い出しそうな弾んだ返答に、ロルは肌が粟立つ自分を知る。怒りと憎しみと、そして悔しさと。あらゆる負の感情がないまぜになって、体中で暴れまわっている。皮膚を突き破って、いまにも噴き出そうとしている。
「お前の退屈凌ぎのために、一体どれほどの命が犠牲になったと思っているんだ……!」
『努力の割に報われることが少なくて、実に新鮮だった』
必死になって抑えつけても、声の震えが隠しきれない。
この一時だけではなく、向ける思いは積年を経たもの。奥深くまで関わっていただろう自分ですら、ほんの切れ端にしか触れることの出来なかった悲劇の連鎖を、男はなんとも思っていない。積もり積もった思いの重圧を、微塵も感じてはいない。やりきれない思いのすべてを込め、ロルは音源を睨み据える。
『うまくいったのは君ぐらいなものだったが、その君でさえ、完璧ではなかった』
心底なにかを悔やむような、深い思いを垣間見せる音。残念だ、と自分勝手に呟くと、ルーカスはため息ひとつで一切の感情を締め出す。
『まあ、昔話はここまでにしよう。私はそろそろマイクを置いて、入り口で待ってくれている彼らに、舞台を譲ることにする』
はっと目を見開き、一行は背後を振り返った。追うものの存在を忘れていたわけではないが、それまで注意を怠っていたことを後悔すると同時に、不可思議な言葉の意味を量る。
『無粋なのは嫌いだから、少し待っていてもらった』
相手の顔は見えないものの、彼らの姿をルーカスに伝えているだろうカメラが動き、レンズに光が反射したのは見てとれた。耳障りな音を立てるその焦点が、ロルへと絞られているのが察せられる。ひたと見つめ返すまっすぐな瞳に、ルーカスはやはり、愉快そうに笑い声を立てる。
『約束は覚えている。糸口はまだ残っているし、明け方まではまだ猶予をあげよう。最期ぐらい、選択肢をあげると言っただろう』
「こんな選択肢なら、いらなかった」
『それは君しだいだ。そう、最後にもうひとつ、いいことを教えてあげよう。ここに、外に出るための手段はない。それを知ってなお足掻くもよし。もう無理だと諦めるもよし。好きにするといい』
健闘を祈る。
挑発の言葉とも祈りの言葉ともとれるひと言を最後に、カメラはぶつりと、断絶音を残して沈黙する。その本体に、目にも留まらぬ速さで投げつけられていた、一本のナイフを突き刺した状態で。