■ 第四話 --- 背信者は嗤う
追憶の海を漂いながら駒を動かしているうち、局面は気づけば、昔と寸分違わぬ状況になっていた。かつて、目の前に座っていた男が舞台を下りた一手を打ちおえ、男はふむと考え込む。
あれ以来、男が議員とチェスを打つことはなかった。顔を合わせることがあるとすれば、それは研究所か会議室であり、お互い、そんな悠長な時間など過ごしていられなかった。
そしていまも、彼からの連絡はない。
最後に電話をしたのは半年前。珍しく彼から電話をかけてきたと思えば、意外な写真を送られ、ひどく驚いたのを覚えている。多忙を極める彼がわざわざ電話を寄越したということも、送られた写真の被写体にも大いに驚いたが、それ以上に。彼があれを覚えていたことに驚いたのだ。
交わした会話の詳細は覚えていないが、処理に責任を持てということだけは確認された。問題ないだろうからしばらく放っておくと返して、呆れたようにため息を疲れたのは確かだが、他になにか、特に反応はあっただろうか。
しばらく考え、男は小さく合点の声を上げる。
心配されたのだ。彼自身のことではなく、男の身を。
それも社会的な保身ではなく、純粋に、あれに命を狙われたりはしないかと案じられ、更なる驚きを得たのだ。
あれから最も恨まれるだろう立場にあることは知っていたが、男は、それがとてつもなく可能性の低い懸念であることも知っていた。あれは、そんな非効率的なことはしない。
諦めることを悟りながらも抗うことを忘れず、狂気に身を染めながら正気を保つ。
あれは己の内にあるなにかに縋り、それを護ろうとして、それ以外のすべてを犠牲にすることを選んだ。自我など手放してしまえば、よほど楽になれるのにと、男も問うたことがある。ただあれは、それを良しとせず、指示されるままに血を浴び、咎められても歌を歌っていた。だからきっと、あれには怨恨の象徴である男に牙を剥くよりも、優先させることがある。
表面上では相手の気遣いに謝意を示し、それから起こるだろう事態が愉快であることを期待して、頬の筋肉を弛緩させたことまで鮮やかに思い出すことができた。思考は表情筋に作用し、のどから低い笑声が零れ落ちるのを止められない。体中に溢れる愉悦はそのまま、男はあごに当てていた手を離し、自陣とは反対、黒のキングを動かす。
「チェック」
小さく呟き、男はボードの横で置き去りにされていたグラスを手に取った。あの日の彼も、こうしてわずか一マス駒を動かすだけで、自分を破ることができていたのに。
ゲームも現実も同じ。ほんのわずかな意思決定の差異が、すべての明暗を分ける。
目を上げた先、棚の上に置かれた古めかしい時計が、案外長い時間、チェスボードに向かっていたことを教えてくれる。
棚の横にある台に載せられたモニターが映し出すのは、なんの動きもないつまらない映像のみ。所長からも社長からも、そして議員からも。誰からも連絡は入らない。それはすなわち、すべてが男の描いたシナリオ通り、滞りなく進んでいるということ。
「あと、一時間といったところか」
思惑通りの現実に満足する一方、幕引きの合図が入らず、予想外のハプニングが起こることを心のどこかで期待しながら、男はグラスを傾ける。
考える時間がほしいから待ってくれと言われ、待つようならばそれは敵ではない。それは、なににおいても共通して言えることであり、彼らの置かれたこの場においても通用することだった。
岩場に身を寄せて伏せろ、と。複数の声に怒鳴られ、また同時に体を強引に砂地に押し付けられ、豪は口に入ってしまった砂を必死に吐き出しながら、文句のひとつでも言おうと首を持ち上げた。
「銃、一丁寄越せ!」
だが、その頭を容赦なく再び地面に押し付ける手があり、頭上からは物騒な言葉といくつもの爆発音が響いてくる。ようやく視界を得るものの、そこに降ってきたのは、映画やらで見慣れた空薬莢。小さく響いた呻き声の主を見やれば、頬に一筋の切り傷のようなものが走り、そこから血が滲んでいる。
もはや一刻の猶予も許されない。かといって、ここで応戦しきることは不可能。躊躇う暇もなく、ロルは一か八かの判断を下す。
「昼間行った洞窟、あそこに逃げ込め!」
ロッジに戻る方向からは攻めの手があるが、反対側からはなにもない。逃れるのなら、手の薄いところを一気に突くしかないだろう。
飛び交う銃弾が風を切る音と、それに対抗して引き続ける引き金が呼び起こす発砲音とにかき消されないよう声を張り上げ、ロルは地面に伏す相手に立ち上がるよう促した。なにを言っているのかと、彼を見上げる瞳はそれぞれ雄弁に疑問を語るが、質疑応答を繰り広げているゆとりはない。
「後ろはオレが喰い止める。だから、立ち止まらずに走るんだ」
ごく一方的に、脈絡の見えない指示を飛ばしたロルに、だが、意外にも真っ先に協調する様子をみせたのは二人の男たちだった。ちらりと目配せを交し合い、年少の方の男が動くに動けずにいる子供たちに手を貸し、いつでも走り出せるようにと姿勢を変えさせる。
弾を打ち切り、銃を足元に投げ捨てて、袖口から先ほど拝借してきたナイフを取り出すと、ロルは慣れた様子で相手のいると思われる方向に投げつける。そのまま素早く岩陰にしゃがみこむことで向けられる銃弾をやり過ごした少年は、その頭上で引き金を引く男に新しい弾倉を押し付けられ、思わず彼を振り仰いだ。
「使うといい。そして、君も行くんだ」
攻撃の第一波が、少し穏やかになりはじめる。それでも緊張は解かず、目で確認することの適わない敵を見据えた視線はそのままに、男は素早く続けた。
「君をここに残しては仕事にならない。われわれは、君を守ることを第一義としている」
だから後衛は自分たちが預かろうと言い切った男に、もう一人の男も口を開く。
「銃の扱いには手馴れているようですし。前衛は任せます」
頭上から降ってくる言葉の意味を認め、更に二人の目に嘘がないのを悟ると、ロルは呻きながら眉根を寄せた。
この二人は、得体の知れない子供を守ることを命じられただけに過ぎない。彼らにとって、ロルの護衛はただの仕事なのであり、無理をする必要も体を張る義理も、どこにもないのだ。なのに二人は、己の命を危険に晒したこの状況でもなお、少年を守ろうと言っている。それが最優先事項だなどとのたまっている。妙に手馴れた銃器の扱いにも、襲いくる正体のわからない敵にもなにも言わず、ただ、全幅の信頼を寄せて逃がそうとしている。
なにもかもが滅茶苦茶だった。
自分だけがリスクを負えばすむはずだったのに。仮に誰が巻き込まれても、きっとなにも感じずにいられるはずだったのに。
なのに、どうしてこうも余計なことばかり考えてしまい、思惑から外れてことが進むのか。
「どうしてオレが、怖がらなきゃいけないんだ」
知らず唇を割った己の声の震えに、ロルは自嘲の色を深める。
なにも気づかれず、誰も巻き込まないはずだったのに、どうしてこうも範囲が広がるのか。どうして範囲が広がるごとに、恐怖心が煽られていくのか。
そっと肩に添えられた小さな手のぬくもりに、感情のせめぎあいはピークに達し、慣れない己の状態に、少年はより混乱を深めていく。
「できれば、殺さないでほしい」
説明も理屈も当てはまらない感情は強引に振りほどき、ロルは頭をひとつ振って思考を切り換えた。処理の追いつかないものにかまけていられるほど、いまは暇ではないのだ。
「難しくてわがままな注文だってことはわかってる。でも、できる限りでいいから」
「わかった」
なにかを吹っ切ったように鋭く、そして切実な瞳で見据える子供に、年長の男が真剣な表情で頷けば、善処するから安心していいと、もう一方の男はやわらかく微笑んでみせる。返された言葉にはにかむような笑みを浮かべ、ロルはすっと表情を引き締めると視点を豪たちの方へとずらした。
「森に飛び込んで、一気に進むんだ」
障害物が増えれば、それだけ着弾のリスクも低くなる。自分は援護に回り、後ろからすぐに追いかけるからと、ロルは豪たちを見回した。無駄口など叩かず黙然と頷き返す彼らに、合図をしたらすぐに走り出すようにと告げると、少年は手の中の小銃に視線を落とし、わずかに瞑目した。
傍近くで過ごすようになってから一月あまり。ここにきてはじめて見せた弱気な、なにものかに縋るような儚い子供の表情に驚いている男たちを、再び開けられた鮮やかな蒼の瞳が映し出す。
「アーヴィングさんとドゥルーズさんだったっけ」
呼ばれた男たちは互いに目を見合わせたが、すぐに年長の男、アーヴィングが黙って少年をまじまじと見据え、なにごとかと問い返す。
「絶対、死なないでくれ」
二人の横顔を瞬きひとつで脳裏に刻み、ロルはひと言、残すべきもうひとつの願いを言葉に乗せた。彼らには通じない言語であることを知りながら、口の中で続けて小さく、耳に馴染んだ祈りを紡ぐ。
どうか、神と仰がれるものの加護があるように。
責めを負うべきはこの身のみ。咎を課せられるのは、自分だけで十分なのだから。
手向けられた意外な言葉に、呆気にとられどうしだったアーヴィングは、すぐさま真面目な表情で力強く首肯した。
「君たちこそ」
「名前を覚えていてもらえたとは、思いませんでしたよ」
「オレ、これでも頭は悪くないんだ。一度知った相手の顔と名前は誰でも、ひとつも忘れてない」
笑い含みに告げたもう一人の男、ドゥルーズに軽く目を瞠り、ロルは淡々と言葉を返す。それから、感触を確かめるように手中の銃のグリップを握りこみ、ただ酷薄に笑んだ。