■ 第三話 --- 死を運ぶ天使
 相手からの思いもかけない反応続きのため、思考停止状態に陥っているロルを見つめる視線を、Jはゆっくりと引き剥がす。よくわからないながらも、あまりいい感じのしない空気が、じわじわと四方から距離を狭めてきているのは感じ取れる。
「誰なのかな? ここ、立ち入りが難しい場所だって言ってたけど」
「違う、逆だ」
 立ち入ることは簡単だ。ただ、逃げ出すのが難しいだけで。
 落とされた呟きに対して低く言い切ったロルは、Jに背を向けるようにして立つと、視線を周囲に走らせる。
「人数まではわからないけど、足音の感じからして、子供だな。ある程度の武器持ちってとこだろ」
 うまくロッジまで戻り、立てこもることができればあるいは。たとえわずかなりとも、可能性は増えると思った。だが、もう遅い。低く呟いて腰を落とし、ロルはいつでも飛び出せるようにと、臨戦態勢を整える。
 Jを先に行かせ、追っ手を少しでも減らそうと考えたのに、すべては裏目に出てしまった。後方での動きが気にかかり、やはり足を止めてしまったのだろう残りの面々も、動き出さずに辺りの様子を伺っている。緊張感を全身にみなぎらせたボディーガードの二人が左右を固め、ゆっくりと、彼らはロルたちの方へと下がってきた。
「手持ちの武器は?」
 じりじりと移動してきた相手の動きが止まるのを待って、ロルは短く問いかけた。一瞬目を見合わせたものの、二人のボディーガードのうち、年長とおぼしき男が口を開く。
「小銃が三つずつ」
「弾はもう使ったか?」
「まだ」
 答えに対してそうかと呟き、少年は思考を巡らせる。相手の詳細はわからないが、圧倒的にこちらが不利であることは明白である。それでも、どうにかして凌がなくてはならない。切り抜けなくてはならない。
 焦っては空回る思考に表情を歪め、ロルは唇を噛み締める。



 ひとりでチェスボードに向かい、男はゆっくりと駒を動かしていた。
 考え事をしたいときには、いつでもなにか別の作業を挿むことにしている。
 固執するだけでは新たな視野など拓かれない。知識に限らず、なにごとも偏ればパターン化の一途を辿るだけ。それでは意味がないことを、男は知っている。奇抜さを偏愛するでもなく、保守性に執着するでもなく。中庸を見極めて前へ進むことこそが、最良の方法だと信じて生きてきた。
 黙々と両陣営の戦略を展開させながら、男はなんとなしに回想に耽る。
 そう、あれはもう、十年ほど前になろうか。
 偉大にしてあまりに馬鹿げたこの計画を持ちかけたあの日も、やはり彼はチェスをしていた。


 老年期に差しかかってもう何年も経つ男が、グラスを片手にひとり薄く笑みを浮かべていても、絵になりはしない。見苦しい、とたった一言。容赦なく切って捨てると、男の向かいに座っていたもう一人の初老の男は手を動かした。前衛に出ていたポーンがまたひとつ、彼のナイトに蹴倒される。
「これは失礼した。こうして酒を飲むのも、ずいぶん久しぶりのことだと思ってな。将軍閣下」
「その呼び方は嫌味なのか?」
 いっそ、問い返す声の方がよほど皮肉な響を孕んでいる。とんでもないと笑い含みに返し、男は最後のポーンを前に進めた。
 言葉の表面上だけではない意味を前提に成り立つ会話も、酒を飲む速度も、チェスの戦略も。二人はなにも変わっていない。それが時間の感覚を奪い、遠く古い日に戻ったかのような錯覚を起こさせる。
「では、議員と呼んだ方がいいかな?」
「どちらも変わらんだろう、博士」
「大統領をも手玉に取る君にしては、皮肉があまりに陳腐だぞ」
 もっとも、呼びかけこそ堅苦しく相手を高める形はとるが、言葉遣いに格差はない。あえて相手への呼称を強調しながら繰り広げる会話を楽しみながら、ボードの上では、次々に駒たちが戦線離脱していく。
「先日のあれは、どういうことだ?」
 ふと手を止めて次の手を考えはじめたらしい男は、口調はそのまま、さらりと話題を変えた。代名詞ばかりでぼかされた対象をしばらく思案していた彼は、思い当たる節があったのか、訳知り顔で頷いてから口を開いた。
「わざわざ私になど聞かなくとも、所長や社長から詳しい書類はいっているだろう」
「ひよっこの言うことなど、いちいち真に受けていられるか」
「これはまた、手厳しい」
 それなりの成功を収めている、彼に忠実な子飼いの弟子であり部下である人物も、男にかかればまだまだ青臭いらしい。おどけた声で受け流すも、男は黙ってあごに手を置いたまま、じっとその先の言葉を待っている風情である。
 こういう無駄に貫禄に溢れたさまは、まさに大勢の兵士たちを仕切る将軍のようだと、彼はいつも思う。
 人の使い方を知り尽くし、策を弄すのに長けた男。彼が本来の職ではなくそのやり口と力のありかを揶揄して将軍と呼ばれるのは、実に似合っている。そして、陰で囁かれていただけのはずの呼び名を、皮肉ではなく持てる権力の代名詞たらしめる男の底知れなさを、彼は高く評価していた。
「どうせ、裏から手を回しているんだろう?」
「お見通しというわけか?」
「何十年の付き合いだと思っている」
 互いの手の内など、手に取るようにわかる。
 二人で共に低く笑いあい、腕をほどいた男は後衛の駒を動かした。


 職業柄、彼は大きな賭けもするが、なにごとにおいても非常に慎重な性格をしていた。周到に用意を行い、罠と伏線を張り巡らせた上で、自分ではなくて他人を動かす。政治上の駆け引きも、経済面でのやりとりも。すべてにおいて彼に火の粉がかかることはなく、その手腕は鮮やかだった。
 どう攻めたものかと、先の展開を幾通りも予測し、次の一手を考えながら、博士と呼ばれた彼は口を開く。
「面白そうだと思わないか?」
「またお前の気紛れか」
 呆れた様子でグラスの中身を飲み干し、議員はがっしりとしたその体躯を、深々とソファーに沈める。返された言葉はあえて否定せず、彼は笑みを刻む。
「そう、そして退屈しのぎだ。だが、メリットも大きい。それはわかっているんだろう?」
 控えめに提案した企画書の内容に、上司たる所長があまりいい顔をしなかったのは事実だ。それでも、彼と議員が旧知の仲であることを鑑みれば、それが更に上の社長の手元に届くのが常であり、そこでより大袈裟な企画に書き換えられて議員の耳に入るのは、火を見るより明らかだった。そのコンセプトに、議員が興味を示すということも。
「確かに、現在の方針には伸び悩みがみられる」
 軍で払い下げになったものをはじめ、あらゆる武器を密かに各国に輸出する巨大企業。それが、彼の所属するガーフィンケル社の隠された素顔だった。表向きにも、各国の正規軍に対して火器をはじめ、戦車や戦闘機を販売する母体であり、議員にとっては最大の献金源でもある。
 議員は、いわゆる軍閥の人間だ。かつての大戦での華々しい戦歴や、いくつか前の政権での国務長官を務めた経験は、軍務関係者への絶大な影響力と、彼らからの大きな信頼とに繋がっている。社の設立者にして現重役陣もみな、議員の息のかかった人間ばかりだ。おかげで、黒い噂も大きなうねりにはならず、裏稼業も実にスムーズに進行する。
 蜜月関係というにはあまりにドライであるものの、素知らぬ振りなどはできない。一蓮托生のように見えて、最後の最後には互いを切り離せる、絶妙な距離感。ガーフィンケル社と議員は、それこそ三十年ほど前、社の設立された当初から、細く強く、そして脆い一本の糸で繋がっている。
 真意の見えない淡々とした口調でただ事実を告げ、議員はボードの上を見つめる。
「採算はあるのか?」
「無論」
 声の温度は変えないまま、別の方向から質問を投げかけてきた相手に、男は即答してみせた。
 議員が表舞台での功労者なら、彼は裏舞台での功労者として名を馳せていた。記憶力にも自信があるし、当時の資料も、議員のつてを当たればすぐに取り戻せる。地ならしはある程度終わっている。後は、そこに実践を積むだけだ。
「冷戦時には既に、一定以上の成果は得られていた。あいにく時代が変わったため国からの予算が見込めなくなり、中途に投げ出された分野だ。だが、いや、だからこそ。可能性に満ちている」
「まあ、他の誰に無理でも、お前にならできるだろうがな」
「わかっているなら、悩む必要はないだろう?」
 渋る様子をみせる議員の中で、既にこの件については決定済みであるのは手に取るようにわかる。男は悠然と微笑み、ようやく決めた一手に、ナイトを移動させる。
 二人の関係は、昔から不思議だった。単なる仕事仲間というには密接で、友人というには淡白。だからこそ腹の底までは割らなかったし、他の誰よりも互いが信頼できた。誰がなんと言おうと、二人はお互いの才能について、一番の理解者同士であった。それこそが重要な事実だった。
「私から手を回すことはあるか?」
「古い資料漁りを頼みたい」
 一介の研究者では見ることの適わない資料の中から、この研究と類似した過去の実験データと、使用していた研究所、関わっていた人間のうち、口を割ってくれそうな人間とを。
 チェスボードの上では戦況があっという間に変化し、次々と駒たちが蹴落とされていく。
「わかった。他には?」
「材料はこちらで適当に揃える。あとはしばらく待っていてくれ」
「どのぐらいで成果が上がる?」
「初期研究は過去の事象整理で大方済ませられるだろうから、二年とかからないな。あとは実践だが、これはいかんせん、生身の人間を使うんだ。どうなるかはなんとも言えない」
「リスキーな賭けだ」
「リスクの分、リターンを約束しよう」
 大袈裟に肩をすくめた議員のナイトに蹴落とされたビショップは一顧だにせず、男はその後ろからクイーンを進める。
「そう、バーサーカー計画とでも呼ぼうか」
「質のいい戦士を期待しているよ」
 腕を組んで唸りながらも、議員は男の軽口に応じながら視線を上げ、にやりと微笑んでみせる。
 お手上げだ、と敗北を宣言した議員に、ふと思い出して男は付け足した。
「社長に、ゴー・サインを出すのを忘れないでくれ」
 議員は、男の予想を微塵も裏切らず、豪快に大声で笑ってくれた。
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