■ 第二話 --- 偽りの鎧
 どれほどの時間が流れただろう。揺らぎを見せていたJの表情はいつの間にか凪ぎ、胸の内を読み取らせない。
「よくわかった。オレが甘かった」
 自分も同じような無表情を浮かべているのだろうかと、ぼんやりそんなことを考えながら、ロルはゆっくり、渇ききった口を開いた。声はのどに絡まり、うまく出てこない。そのくせ、やけに冷ややかで抑揚に欠けたものだった。
 見通しが甘かった。彼は、自分の追いかける闇からずっと遠いところにいると思っていた。それなのに、現実は真逆。踏み込んでほしくなかった領域に、彼は手を伸ばしてしまっている。
 とどまらせなくてはいけない。これ以上、危険な罠に近づかせてはいけない。
「その上で、あえて言う。なにも聞かないで、すべてを忘れて戻るんだ」
「じゃあ、まさか本当に……」
「そこまでいろいろ知っているなら、いまさらそれは愚問だろう?」
 どう足掻いても動こうとしない四肢に、ロルはもはや強硬手段に訴えることは諦めた。
 自分から率先してあの通り名を口にする気にはなれなかったが、事実を捻じ曲げて否定する気にもならない。ゆるりと遠まわしに肯定の意を返し、 戸惑うように震える声で問いかけるJに、唇の端を薄く持ち上げ、ロルは儚くも凄絶な微笑みを向ける。
 先ほどよりも目に見えて血の気の薄れたJに、申し訳なさとどことない嬉しさを覚える。そうだ。彼はこうやって、他人の痛みを我がことのように気遣い、そして心を痛めてくれる人だった。勝手だと知っていても、心を寄せてもらえることへの喜びは、なににも換えられない。
「手荒なことは、したくない」
 傷つけたくなどない。ようやく出会えたのだ。どれだけ記憶が薄れようとも、その存在感だけは決して褪せることのなかった相手。自分の存在意義のすべてですらあったから。だから、彼に手などあげたくない。
 不思議なほど穏やかな内面に、ロルは少しだけ表情を歪める。
 もしかしたら、この展開を望んでいたのかもしれない。
 巻き込みたくないと願う一方で、知っていてほしいと、わかってほしいと思っていたのかもしれない。彼だけはきっと、わかってくれると思っていたのかもしれない。ようやく得られた、誰にもできなかった話の出来る存在に、張り詰めていた糸が緩む。そして同時に、自分の身勝手さに嫌気がさす。眇めた瞳の奥に見え隠れするのは、きっと自嘲の色。
 静かに、いっそ宥めるような口調でロルの紡いだ言葉に、Jは表情を引き締めて口を開く。
「ボクはまだ、答えを貰っていない。どこに行こうとしているの? なにをする気なの?」
「大丈夫、朝までには戻るし、これ以上の迷惑はかけない。約束する」
 落とし前をつけなくてはならない。それにあたって、彼と自分との境界線を見誤ってはいけない。
 この先に足を踏み入れるのは自分だけ。胸の内をわずかにでも吐き出させてくれただけで、Jには感謝して、そして退場してもらわなくてはならない。
 いつの間にか強張っていた肩からそっと力を抜きながら、ロルはできるだけ自然な笑顔を浮かべようと努力する。
「だから、いまはおとなしく部屋に戻ってくれ。なにも見なかった振りをしてくれ」
 もう充分だ。口をつくのは思いのほか穏やかな声で、ロルはそっと、安堵の吐息をこぼす。
 戻ってこられるかなどわからない。迷惑をかけずにすむかも自信がない。だから、せめて少しでもいい顔を見せておきたい。すべてが終わった後、憎しみと共にでもかまわない。ほんのわずかにでも、どうか、思い返してもらえるように。



 虚をつかれたように、ロルのあまりに鮮やかな微笑みに目を奪われていたJは、数瞬の後、慌てて口を開く。触れれば崩れ落ちてしまいそうな風情を伴う笑みの意味を、Jは悟っている。
 ロルは、なにかを諦めていた。
 諦めて、覚悟を決めて。そしてどこか、Jがいくら手を伸ばしても届かない場所へ行こうとしている。
 得体の知れない不安と焦燥に駆られて、かけるべき言葉も見つけられないまま、引き止めるための理由を探す。
「見逃せるわけなんかない。だって、もう知っちゃったんだ」
 知らない振りなどできない。なにもわからないままに通り過ぎるには、あまりに多くを知りすぎてしまった。
 いまこの瞬間を逃してはいけない。直感にも似た確信に従って唇を震わせるJを痛ましげな表情で見やっていたロルは、しかし、唐突に表情を強張らせ、首を巡らせた。ただならない様子にJが問いを発そうとすれば、素早く伸ばした手でその口元を覆い、黙るようにと目で促す。
 思わぬ気迫にたじろぎ、突きつけられた手の下、息を詰めてJもまた同じように気配を探る。だが、特に変わった様子はない。対峙する相手の向こう、月を映して光る海からは潮騒が響き、さわさわと、木々の梢が風に揺れる音が聞こえるだけだ。それでもロルはただ、鋭い表情でじっと耳をそばだてている。
 と、舌打ちをひとつ漏らし、ロルは視線を巡らせ、木立の合間を伺う。
「どうしたの? なにかあったの?」
「誰か来る」
 見える範囲で同じ方向を確認したJには、なんら異常は感じられない。思わず声をひそめながら問えば、嫌な感じだとひとり呟き、ロルは改めてJに向き直った。
「逃げろ」
「え?」
「いまならきっとまだ間に合う。急いでロッジに戻って、中でじっとしてるんだ」
「なにを言ってるの? 間に合うって、なにが? どういうこと?」
 混乱しながらも状況把握に努めようとするJの腕を取り、なかば強引に引きずりながら、ロルはロッジの方へと向かう。
「ここは危ない。見つかる前に、逃げるんだ」
 隻腕といえど、ロルはJよりもよほど力がある。自分よりずっと細く、骨ばった指先が腕に食い込むことに抗議することも忘れ、Jはただ、わけのわからない忠告に問いを重ねることしかできない。
「どういうことなの? わからないよ」
 抵抗もむなしく、あっという間に方向を転換させられ、戻れと無言の圧力をかけられながら、Jは必死に抗ってみせる。
「ここにいたら殺される。時間がない。いいから、逃げるんだ」
 早口にそれだけ告げた次の瞬間。静寂が支配していたはずの空間に、場違いなほどにぎやかな足音が響き渡った。ぎょっとして音源を振り向いたJは、慌てて木立の中から駆け出してくる、ベッドの中にいるはずの仲間たちとロルの護衛役との姿に目を見開く。彼らの背を追うようにして、何かが風を切る音が宙を走る。
 眉間にくっきりとしわを寄せたロルは、さして驚いた様子もなく彼らを見ていたが、すぐさまJの腕を取って走り出した。急いでロッジに戻るように叫びながら移動する相手に慌てて並んだJは、鼓膜を打った言葉に視線を巡らせる。
「オレが、甘かった」
 目をやった先にあった少年の鋭い表情は知らないもので、Jは思わず息を詰める。それにはまったく意識を向ける素振りもなく、ロルは低く、絶望の滲む声を落とした。


 都合の悪い人間は消せばいい。もっとも確実な口封じの方法は、対象からすべてを奪うこと。光を、音を、記憶を。そして、命を。
 なぜこんなにも初歩的な手段を忘れていたのだろうか。
 焦りと共に噴き出した自己嫌悪は、額に、背筋に、嫌な汗を流す。
 ここは洋上の監獄。逃げ場はなく、地の利もない。どんな窮地に立たされても醒め切ったまま、決して揺り動かされることのなかった恐怖心が、いまさらのように体中で暴れている。迫ってくる気配は複数。正確な数はわからないが、殺気はおろか、敵意もなにもない、不自然なまでに凪いだ空気の持ち主を、ロルは恐らく知っている。
 巻き込んでしまう。その予感に、ロルは恐怖した。
 世界規模での知名度を誇るから大丈夫だなどと、どうしてそんなに生ぬるい前提に立ってしまったのだろう。彼らの命を摘み取ることに、あの人たちはきっと微塵の躊躇いもない。真実の隠蔽も大義名分の捏造も、きっとお手のもの。あまつさえ、自分のみならずこの場に居合わせるすべての人間を亡き者にしてしまえば、誰もその言い訳に異議や疑問を呈するものなどいないだろう。
 目撃者は誰も、いなくなるのだから。
「ねえ、どうしたの?殺されるって、どういうこと?」
 距離ができたためか攻撃は一旦やんだものの、じりじりと包囲網を狭めてくる気配に、眉間の皺を刻んでいたロルは、そっと束縛されている腕を引くことで注意を引くJに、意識を流す。手を取られるままに走りながらも、すぐ前を行く友人たちと、背中やら横手やらから迫る不穏な気配とにきょろきょろと目をやり、その表情は憂いをはらんで揺らいでいる。
「行け!」
 思考の渦に囚われ、気配を察する感度に鈍りが出ている。なにもかもが、いままでの通りにいかない。焦りと不安にじわじわと侵食される全身を知りながら、ロルは押し殺した声を発し、掴んでいた腕を放した。
 破壊するための力は知っていても、護るための力など知らない。もし目の前で彼を失いでもしたら、きっと自分は気が狂うだろう。
「君もだろう?」
 唐突に解放されたことに驚きを示しながらも、Jは足を止めたロルを振り返り、やはり立ち止まった。それまでの頼りなげだった雰囲気は微塵も感じさせず、きっぱりと告げる言葉は、その他の選択肢を認めようとしない意思を明示している。わずかな逡巡をはさみ、ロルは「すぐに行くから、先に行け」とJを促す。
「そんな見え透いた嘘には誤魔化されないよ。一緒じゃないなら行かない」
 間髪おかずに返された内容に、ロルは言葉を見失って相手の顔を凝視する。先ほどよりも不信感を濃くして木立を睨むJは、ただ無意味に呼吸を繰り返すばかりで、音を発せずにいるロルを見やり、薄く笑んでみせた。
「今度君のことを見失ったら、きっともう会えない気がする。だから、目の届かないところになんか行かない」
「なに、バカなこと」
 ようやく絞り出された声は、小刻みに震えていた。
 口では呆れ果てたと言っているくせに、その声は何かに怯え、脆さを露呈している。彼の本心を隠している見えない鎧が、崩れ落ちていくのをJは知る。
「馬鹿でかまわない。君に関しては、もう過ぎるほど後悔したんだ」
 だから今度は、後悔しない道を選ぶ。
 たとえどれほど残酷な道であっても、彼を見捨てて、その犠牲の上に生きるほどの悔悟は、もういらないから。
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