第三章 --- 選択になかったはずの道

■ 第一話 --- 越えられない境界線
 万が一の事態など考えたくはなかったが、驕りこそが身を滅ぼすことを知らないわけではない。
 足音を殺して歩くのは、意識をする以前にもはや癖になってしまっていた。もっとも、柔らかな絨毯の上を移動する分にはまるで必要のないこと。小走りに廊下を進みながらふと気づいたことに、ロルは嘲るような笑みを刻む。本当はなにか、適当な火器でも見つけられればなお嬉しかったのだが、この際わがままは言わず、立ち寄ったキッチンで発見したナイフを数本、拝借する。
 いまだ眠ろうとせず、それぞれに玄関と裏口とを交代で見張っているらしい二人の護衛役たちの実力を高く評価すればこそ、正面突破などという非現実的な手段を、ロルは候補には入れない。使っていた部屋に隣接する書斎の窓から外に出て、脱出完了だ。頭の中で動きをシミュレートしながら足を進めていたロルは、素早く目的の部屋まで戻ると、窓を大きく開け放った。
 瞬間、風が吹き込んでくる。
 潮の香りをいっぱいに含んだ、冷たくて心地よい風だ。
 カーテンを揺らし、背中にはらった長い髪をかき乱すそれに薄く瞳を眇めると、ロルは窓枠に足をかける。
「さようなら」
 ほんのわずかに背中を振り返り、少年は小さく口を動かした。
 告げる言葉がどうか、この場限りの嘘となるように。
 誰にともなく祈りを呟き、その小さな体は、宙へと舞った。


 月明かりが照らす海と砂浜は、昼の太陽のもとで見たものとはだいぶ様相が違う。明るくて眩しくて、心の沸き立つようだった場所が、いまや静謐で、どこか神々しさすら感じられるほどの不可思議な色合いに染まっていた。
 木々の合間から見える青白い砂浜を横目に、少年は暗い森の中を、足場の悪さも気にせずにひた走る。水分をたっぷりと含んだ地面はやわらかく、踏み込んだ足を包み込んで、音をはじめとしたすべての痕跡を呑み込んでいく。自身の胸郭から鼓動すら聞こえてきそうな、静まり返った空間に囚われそうな錯覚を覚えて。ロルは前を見据えていた視線をわずかに伏せた。
 自分に、予知能力だの透視能力だのがあるとは思わない。ただ、勘が鋭いという自覚はあった。
 そのおかげで切り抜けた修羅場は少なくなく、そのおかげで知りえた、気づきたくもなかった深い闇もある。こと嫌な予感というものは、これでもかというほど的確に当たるのだ。
 小さくも重い息を吐き出すと、ロルは進路を変更し、砂浜へと飛び降りた。そのまま二、三歩進んだところでぴたりと足を止め、背筋を伸ばして周囲の気配を探る。
 ロッジを出てからずっと感じていた微かな気配は、気のせいではなかったらしい。わずかな逡巡を見せはしたが、覚悟を決めたのか、その気配の主もまた、砂浜に姿を現す。さくり、と、砂の小さな粒子が踏みしめられる音が静寂を破り、陸から海へと向かって吹く風が、小さな声を運んできた。
「なにをしてるの?」
 一番聞きたくて、そして、聞きたくなかった声だと。ロルは感情の整理のつかない自分をそのままに、ゆっくりと背後を振り返る。
 薄く雲の走る天から差す月明かりに染められてそこに立っていたのは、沈鬱な表情を浮かべるJだった。
 なぜこんなところに彼が立っているのだろう。先ほど、部屋を抜け出したときには確かに彼は眠っていて、目を覚ます様子などなかった。物音も、気配の揺らぎも立てないように気を配ったし、すべては完璧なはずだったのに。
 姿を目にしてもなお、現実を認めたがらない己の内心に驚愕と後悔を覚えながらも、表面はあくまでとぼけたように。ロルは小首を傾げてみせた。
「起こしちゃったか? そっと出てきたつもりだったんだけど」
「たまたま目が覚めて、外を見たら、君が見えたから」
 それでついてきたのだと簡単に種明かしをして。Jはもう一度、同じ問いを繰り返した。
「散歩でもしようかと思ってさ」
 相手の聡明さを知っていればこそ募る不安を表面に出さないようにするには、思った以上の労力を要した。それでも、眠れないのだと何気ない調子を装って答え、極力穏やかな表情を浮かべるよう努めながら、ロルは願う。
 どうかなにも言わずに立ち去ってくれ。自分を行かせてくれ。
 せめぎあうロルの思いを知ってか知らずか、沈黙をもって相対するJは、表情を動かさない。ほんのわずかに寄せられた眉に、すべてを見透かすかのように眇められた瞳に。そこかしこに漂う悲痛さを見てとり、ロルは褪めた声が脳裏に響くのを聞く。きっと彼は、黙って自分を見逃してくれはしないだろうと。
「なにをしに行くの?」
「だから、ちょっと散歩――」
「なにをしようとしているの?」
 ゆっくりと息を吸い込み告げられた問いに、ひょいと肩をすくめてみせれば、相手の表情は歪みを増した。
 ロルの言葉を遮って、Jは口を開く。
 抑え気味であればこそ、声に込められた思いの強さは際立ち、表情が削ぎ落とされるがゆえに、瞳の奥にある意志の強さがひしひしと伝わってくる。
 顔色が芳しくないのは、照らす明かりが青白いからだけではないだろう。
 絶え間なく響いているはずの潮騒さえ、いまは耳に入らない。それなのに、この奇妙に静まり返った空間では、彼の握り締めたこぶしが小刻みに震えるさますら、音となって鼓膜を打つ気がする。
 なんと答えたものだろうかと。ロルは打開策を見つけられない現状とは恐ろしく場違いなほど、冷静に思考を巡らす。
 相手の手の内が読めない以上、迂闊な発言はできない。情報が漏洩すればするだけ、自分が不利になるだけ。かといって、下手な言い訳は通用しない。なにも知らないでいて欲しいが、ほんのわずかにでもなんらかの情報を得ている場合、見え透いた言い訳は疑惑をより強めてしまうだけで、逆効果だろう。
 現実味のある、それでいて決して真実を悟らせない理想的な言葉はないのか。
 不思議な焦燥に彩られた、張り詰めた空気。いままで踏んできた修羅場では味わうことの決してなかった心の動きに、ロルは自分が躊躇っていることを知る。
 出すべき答えは、誤魔化すための言葉の探索ではなく、とても簡単なこと。
 最良の手段はただひとつ。行く手を塞ぐ障害は、撃破して通り過ぎればいいのだ。
 なにも、とどめを刺すことはない。いまこのときだけ、静かにしていてもらえればいい。
 二人の距離はたったの数歩で、相手はまったくの素人。
 右足で地面を蹴って、左足で間合いに飛び込む。さらにそこから背面に回り、首筋の裏を手刀で一撃。これだけでいい。気絶させるだけなら、痕も残さず、それこそ一瞬で実行できる。それだけの実力と実績を、自分は培ってきている。あとはロッジに戻り、ベッドまで運んでおけばいい。きっと彼は朝まで目を覚まさなくて、すべてはそれで、滞りなく前へ進む。
 そこまでしっかりわかっているのに、足が動かない。体中の関節が強張ってしまい、思考を行動に移せないのだ。
「教えてくれないの? 君は、なにを隠しているの?」
 なにもかもが異常な感覚の中で、視覚と聴覚だけが正常に機能しているらしい。きゅっと眉根を寄せ、Jは深く息を吸い込んだ。単調さはそのままなのに、どこか詰問する色味の強かったそれまでの声とはまた違う、温度のない音が絞り出される。
「答えて。 “血濡れのローレライ” 」
 硬く無機質に響くくせに、小刻みに震える。泣いているのではないかと心配になるぐらい、それは、悲愴な声だった。



 最悪だと、凍りついて動かない表情の下で、ロルは知らず、ため息をこぼす。邂逅が叶ったあの瞬間から、彼が時おり覗かせていた暗い表情は、そんな単語に端を発していたのか。
「どこで聞いたかは知らないけど、オレがそれだと思っているのか?」
 まったくもって心外だと、あからさまに不快な表情を添えて返しても、Jは怯まない。答えの代わりとばかりに向けられる揺るぎない視線は、嘘であってほしいと訴えながら、事実なのだろうと責め立てる。波ひとつ立てない静けさを湛えているくせに、問い質すその声と、表情と同様に、苦しそうに歪められている。矛盾だらけの瞳の色に、ロルはJの内心を量る。悩んで迷って、そして彼は、賭けに出ているのだろう。
 ただし、と、ロルは思考の渦から浮いてきたひとつの疑問を、素直に口にする。
「その質問の意図は、どこにある?」
 自分を試すための問いなのか、信じるための問いなのか。
 見極めることのできない一線を、ここで引こうとロルは思う。答えいかんによって、いまだ燻る躊躇いを断ち切れる己を知っている。きっと彼の声が鼓膜に届いた瞬間、自分は駆け出して彼の意識を奪い、そしてすべてが元に戻るのだ。
「君の、力になりたいんだ」
「答えになっていない。お前はなにを思って、オレにその疑惑をかける?」
 誰に疑われようとも、彼にだけは信じてほしかった。けれどもいまは、是が非でも裏切ってほしい。
 相反する欲望を捻じ伏せ、ロルはただ静かに、戸惑いを含んで揺れるJの瞳を見据える。裏切って、自分の信頼を蹂躙して、その身が闇に絡めとられる前に立ち去ってくれ。自分がもはや、彼に対して未練や執着など残さなくてすむように。醒めた目ですべてを睥睨して、躊躇いなくすべてを薙ぎ払って進めるように。
「オレがそれだと、お前は信じているのか?」
 冷ややかな声音を意識して更に問えば、Jはひとつ瞬きをしてから息を吸い込んだ。
「君をようやく見つけられたのは、あの写真だった」
 震え、掠れる声はしかし、滑らかにその唇を割る。
「それまでだって、君があれからどうしているのか、できる限り調べた。ボクと同じように、誰かに引き取られたものだと思ってた。もう一度会いたかったんだ。だから、必死になって探した」
 だけど結局、生死すら知ることは適わなかった。
 なにごとかを返そうとしたらしいロルに口を開くことは許さず、Jは胸の中に溜まっていた思いを立て続けに吐き出していく。
「あの写真だけで疑いを持てる人はいないと思う。でも、ボクは違う。君があの場に立っているというそのこと自体がおかしいことなんだ。それを知っている」
 きっかけは、あまりにも有名な一枚の写真。それまでJがどれほど手を尽くそうとも見つからなかった相手は、あまりにあっさりその姿を世に晒した。ありえない場所に立っていた。
「そこに黒い噂を総合すれば、仮説は簡単に立てられる」
 言葉を出し切り、大きく息をつきながら。Jはずっと無表情を貫いているロルを見据える。
「君は、否定しなかった」
 隔てていた時間の分、二人の間には距離があった。それまで積み重ねてきた時間や、過ごしてきた環境の違いにもよるのだろう。とにかく、二人が同一であるとすら錯覚できた時間は、遠く過去に過ぎ去ってしまった。それでも、些細な点に不変の部分を見出すことができるのだと、Jは意外さと切なさのないまぜになった、不可思議な喜びを感じる。
 違うと言ってほしかった。
 あの国で生き抜いてきたのなら、聞いたことがあるどころではないだろうその名前で呼ぶことを、嫌悪感をもって否定してほしかった。なのに彼は、はぐらかすにとどまった。
 誰かに嘘をつくときはいつも、演技過剰になる。
 それは昔も今も変わらない、彼を構成する要素のひとつ。その不器用な実直さが記憶のままであることをくすぐったく思いながら、Jはロルの答えを待つ。
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