■ 第八話 --- ごめんねでは足りないけれど
痛みに耐えていられた時間は、そんなに長くなかったと思う。
しばらく走ったところで意識が途切れ、道端に倒れ付したところまでは覚えている。けれど、それまでだ。
次に意識が戻ったとき、なにかに横たえられているのはわかったが、それ以上のことはなにも理解できなかった。体中が重くて痛くて、あまり長い間、起きていられなかった。すぐに沈みゆく意識の端に、人の声を聞いた気がした。望む声が聞こえたなら、きっと夢見も最高だったろうにと。泥のような眠りに落ちる寸前、そんな、のんきなことを考えていた。
ようやくきちんと目が覚めたら、助けてくれたらしい老婆が覗き込んできて、四日も眠り続けていたのだと教えてくれた。とにかく身体を起こそうと身じろぎをしたものの、両腕の長さが不揃いだったため、支えを失ってぐらつき、そのまま倒れこんでしまった。その段になってようやく、片腕を失ったことを思い出した。
途中から感覚の途絶えている右手を持ち上げてその事実を確認している自分に気づいたらしく、水を持って戻ってきた老婆は、慌てたように慰めの言葉をかけてきた。
絶望してはいけないよ。生きていられただけでもありがたいんだよ。
あんたは運がよかった。あの町は、全滅だと思ったのに――。
言いながらなにを思ったのか、老婆はコップを机に置き、そっと袖口で目尻を拭った。どうやら、自分は近くでなにかしらの犠牲となった集落の、生き残りと思われているようだ。道端に倒れていたところを、この村の子供に拾われたのだという。
事実とは相違があるものの、面倒な説明をする気にもならず、老婆の言い分をそのまま借用することにした。なにより、手傷を負った身を休ませる場所を幸運にも入手できたのに、それを手放すような愚は犯したくなかったのだ。
なにもかもが不足している情勢下で、足りているのは半端な武器ぐらいなもの。薬も包帯もないため、腕の先は薄汚れた布で適当に縛っただけだ。傷口は絶えず膿み、骨も剥き出しのまま。痛みも熱も引かず、回復を大いに妨げる。それでも、持ち前の体力と気力、叩き込まれた知識と経験のおかげか、三日も休めば簡単な雑用くらいならできるほどまでに回復した。
それから数日を経て、雑用の一環で、使えそうな武器をはじめ、適当に拾い物をしてくるとの名目つきで、腕を失っただろう現場を探しはじめた。特にこれといった理由もなかったが、どうしても、うやむやの内に立ち去ったあの場をもう一度、訪れたかったのだ。
我がことのように案じてくれる村の人間は、自分の目で見ておきたいのだという言葉を受け入れ、倒れていただいたいの場所を教えてくれた。
意識を失うまでの己の行動は、なんとなくではあるが覚えていたため、それを手がかりに少し歩き回れば、そこは案外簡単に見つけることができた。ごつごつとした岩が転がっている、生き物の気配など感じられない砂地。地獄絵図の痕跡は、そこここに転がっている武器の残骸ぐらいなものだ。
なにものかによって、持ち去られたのだろう。屍も残っていなかったが、使いものになりそうなものも特に、なにも落ちていなかった。
乾いた熱風が吹き渡る。
日よけと砂よけのために頭からすっぽり被っていた布をわずかにずらし、ゆるりと口を開いた。唇から零れ落ちるのは、ただ静かな旋律。いつ、どこで聞いたかはもはや覚えていないが、残されたわずかな記憶の断片のひとつであることは確かだった。
忘れまいという思いを込めて。そして、散り逝った命たちへ手向ける、せめてもの償いと贖罪にふさわしいと思って。
聞いてほしいとも、許してほしいとも思わない。それでもどうか、これほどに悲しく残酷な夢の続きではなく、いまは安らかな眠りにたゆたうように。願いと祈りを込めて、音を紡ぐ。歌をもって、肉体から切り離された魂を送ることに決めていたのだ。
一日中遊びまわり、疲れ果てた子供たちが日の暮れたあとどのような状態になるかといえば、ぐったりとベッドに沈み込むだけである。夕食も早々にすませ、年少組が目をこすりはじめた段階で、一向はあっさり各寝室への引き上げを決定した。
日程はまだ、あと丸一日と半は残っている。ここで無理をするより、明日に備えて体力を温存しようという考えだ。
やわらかく身を包むベッドに潜り込んだまま、ロルは気だるくも冴えている目を凝らす。暗がりの中、窓の外からさす月明かりのおかげで、隣のベッドで横になっているJの寝顔は見ることができた。
しっとりと冷ややかな光に縁取られる相手を見るたびに感じる、鏡のようだとの陳腐なたとえのはまりように、少しだけおかしくなる。見かけはまるで同じようで、そして正反対の存在。鏡という表現は、自分たちを揶揄するのにあらゆる意味でぴったりだと思えたのだ。
内面が荒れ狂っているロルとは対照的に、緩やかに上下する背中と、わずかに開かれた唇からこぼれる穏やかで規則正しい寝息に、動悸が少しずつ治まっていく。
少しだけ眠ろうと考えて目を閉じた自分を、荒れてしまった呼吸を落ち着けながら、ロルは冷静に思い出した。二つのベッドの間に置かれた時計を見れば、眠ることに決めてから一時間を少し過ぎた程度であることが知れる。
いつでも周囲にざわざわとうごめいていた、捉えようのない雑音は、ここにはない。耳朶を打つのは潮騒と風の音。あとは、傍近くから聞こえる、小さな寝息だけだ。久しぶりの静かで違和感の少ない空間に、思いがけず深く眠り込んでしまったらしい。額に浮いた嫌な汗を着衣で拭いながら、少年は静かに身体を起こす。
夢を見るのも、実に久しぶりのことだった。
遠いとは言いがたい記憶の再生に、傷口の痛みが戻ってきた気がして、ぎりりと二の腕を握り締める。呻き声を殺しながら背を丸め、これは幻痛だと、ひたすら己に言いきかせる。
あの日、自分は体の一部を失うことで、枷の一部から逃れることができた。違和を感じ、齟齬を知りながらもそれでも繋がれていた契約が、破られるきっかけだった。見ることも知ることも叶わなかったろう真実の一端を察する足がかりとしては、腕の一本ぐらい、安い代価だったのかもしれないとも思う。
しばらくすれば痛みは消え、すべては元に戻った。同室の相手を起こしてはいまいかと盗み見て、変わらぬ寝息にホッと息を逃す。
動き出さなくてはならない。
この場に入り込むことができたのは、ひとえに彼のおかげだ。たまたまつれてこられた場所に目的のものがありそうなのが、偶然なのか仕組まれた結果なのか、それはわからない。いずれにせよ、早々に決着をつけるに越したことはない。気づかれる前に、巻き込んでしまう前に。すべてにけりをつけなくてはならない。
気配を殺すことなど、慣れたものだ。スプリングのきいたベッドは軋み音ひとつ立てず、シーツをあたためていた主を黙って送り出す。
これ以上巻き込む気はない。利用する気もない。
それでも結局、自分は彼を騙して利用していることになるんだろうと考え、ロルは見下ろす静かな寝顔に、言いようのない罪悪感に駆られる。
許しを願うことはとっくの昔に捨てたし、いちいち謝罪をしていても切りも意味もないから、それもやめた。自分の行為が、そんなもので贖いきれるほど軽いものではないことぐらい、自覚はある。謝罪の文句を口にするだけ、それは相手への冒涜になるだろうとも考えている。いまでも、その思いに変わりはない。その一方で、矛盾したことを思う。
ついに言葉が唇を割ることはなく、ぐっと眉根を寄せて寝顔を網膜に焼きつけると、ロルは音もなく部屋を忍び出た。
どれほどの言葉を尽くしても謝りきれない。許されるわけなどない。それでもどうか、もう少しだけ。自分が罪の上塗りをするのを、受け止めてはもらえないだろうか。
憎んでくれてかまわない、恨まれるのは当然のこと。だけどもう少しだけ、巻き込んでしまうのを、許容してはもらえないだろうか。
火の粉など、微塵たりとて降りかからせたりしない。すべてを投げ打ってでも、絶対に守り抜いてみせる。だから、だからどうか。
なにも気づかずにいてはくれまいか。
たとえ傍にいることが叶わなくなっても、その穏やかな笑顔を、自分に向けていてはもらえないだろうか。