■ 第七話 --- 水に映る月
 いつの間にやら洞穴の入り口付近までやってきていたロルの護衛役の二人に、「ここは見ておきましょう」と言われたので、烈はJと共に、また夕食の追加品目漁りを続行していた。
 彼らの行動は、護衛というよりは見守るに近い。それだけこの島の安全性が確立されているということでもあるのだろう。あくまで子供たちの邪魔はせず、つかず離れずの絶妙な距離を保ってくれている。
 すでに上着もズボンも脱ぎ捨て、あらかじめ着ていた海水パンツ一枚で二人は行動している。転んだ拍子に見えた海底の様子に、潜りこんでもみるものの、食用に適した素材などそう簡単に見つけられるものでもない。結局、波と戯れるだけの結果に終わろうとしているが、それもまたよし。
「あ、烈くん!」
 烈よりも息が長く続くため、より深いところまで潜りこんでいたJが、海面に顔を出すと同時になにかに気づいて、烈の背後を指で指し示した。反射的に振り向いた烈は、無事に戻ってきた仲間たちに、笑顔を浮かべてJと共に砂浜へ戻る。
「どうだった?」
 不満そうな豪の顔から、あまり物珍しくもなかったのだと判断した二人だったが、烈に問いに返ってきたのは、予想だにしない一言だった。
「行き止まりには行き止まりだったが、なにかあるらしい」
「どういうこと?」
 抽象的なリョウの言葉に、Jが首を傾げれば「俺もよくはわからないが」と眉をひそめる。
「扉があった。開きそうにないから退き返してきたがな」
「扉?」
「怪しそうなでっけーやつ!」
 中には入れればもっと面白かっただろうにと、烈の反芻に対して豪は不満げに唇を尖らせる。
「政府の島だし、きっと、なにかの施設とかなんじゃない?」
「まあ、そんなところでげしょうな」
「それより、なにか収穫はあったんだすか?」
 Jの無難な発想にさもありなんと藤吉は頷き、探検出発時よりもさらに身軽になっている留守居二人組に、二郎丸が問いを返す。最初は確かに食料を漁っていたが、途中から目的を忘れて遊んでいた烈とJは、思わず目を見合わせて苦笑をかわす。
「全然、なにも」
 図らずも異口同音になってしまった二人に声を上げて笑い、洞窟探検組もまた着衣を脱ぎ捨てる。
「どっちが深く潜れるか、競争しようぜ!」
「臨むところだす!!」
 リーダーの一喝を受けて、かろうじて海に飛び込む前に来ていたものを土屋が座っているあたりへと持ち運びながら、弟たちはさっそく火花を散らしていた。


 お守りを兼ねてやはり海に出ている烈やリョウを尻目に、ロルはJと二人、土屋の元へと向かう。ロルは普通の服しか身につけていないため、これ以上いたずらに塩水まみれになることは避けたかったし、Jは炎天下に長時間いたためか、若干、日射病の様相を呈してすらいた。
「大丈夫か?」
 わずかに寄せられた眉根とこめかみにもっていかれた左手に気づき、ロルは隣をゆっくりと歩くJを覗き込む。
「平気。少し休めば、元に戻るよ」
「ふうん」
 にこりと気丈に微笑んだJに、ロルはそれ以上の追求をしようとはしない。
 正直なところ、ロルはJのことをそれほどはっきり憶えていたわけではなかった。規則正しく過ぎ行く時は、どれほど大切な思いも記憶も、すべてを等しく色褪せさせる。掬っても抱き込んでも、どれほど足掻いても指先から零れ落ちていくことに恐怖し、より鮮明に刻もうと願えば願うだけ、記憶は薄れ、感覚だけが際立っていった。
 おぼろげな記憶。あいまいな思い出。
 霞のかかったように脳裏に残るいくつかの断片に、それでもすべてを懸け、縋りついて生き抜いてきたのは確かだ。あらゆるものの拠りどころは、神でも現実でもなく、彼だった。いつか再び、きっと出会えるから。二人の道が違われる寸前、そう約束したことだけが、ロルの中の不変の真理だった。
 でもそれは、自分の独りよがりに過ぎなかったのではないかと。変わるはずのなかった真理が、ここ数日で揺らいでいる。
 つれてこられた国で、ようやく見つけた彼は、とても幸せそうだった。
 生きていてよかった。幸せそうでよかった。光の中で、どうか穏やかな日々を送ればいい。そう思うのも事実だったが、反面、表面になどとても出す気になれない、暗い感情が渦巻いたのも事実だった。
 自分の得ることの叶わなかった、すべてを持つ相手。光の中の彼と、暗闇に紛れる自分。暴れ、ともすれば溢れ出しそうになる感情の正体が嫉みだと気づくのに、さして時間はかからなかった。
「ねえ、聞こえてる?」
「え?」
 つらつらと物思いに耽っていたロルは、腕を引かれて顔を上げる。いつの間にか足は止まっており、不審そうに下から見上げてくる、自分とよく似た顔が、目の前にあった。
「どうしたの?突然立ち止まったと思ったら、怖い顔して」
「いや、なんでもない」
 ゆるりと首を横に振ると、ロルは納得など到底いっていないと目で訴える相手を振り切り、足を踏み出す。
「なんでもないって顔じゃないよ。どうしたの?」
「本当に、なんでもない。くだらない考え事」
「教えてくれないの?」
「いまは駄目だ」
 しばらくしてから小走りに追いついてきたJは、不満そうだったが、それでも渋々頷いてくれた。「じゃあ、教えてもいいと思ったら教えてね」とだけ念押しし、残り数メートルの距離に近づいた保護者の元へと先に駆けていく。



 自分が彼に嫉みを抱いているのだと自覚した瞬間の、絶望にも近い悲しみは、いまだ鮮明に胸に残っている。そして同種の哀しみが、こうしていまも、ロルをさいなむ。
 Jはきっと、自分を必要となどしていないだろう。
 ロルにとって、精神のよすがですらあった存在は、帰る場所も共にいる人間も、すべてを手にしてやわらに微笑んでいる。それは喜ばしいことであると告げる理性とは裏腹に、感情は悲しみへと傾いていく。
 自分にとって、彼は生き抜くのに必須の存在で、彼にとって、自分は生きるのに必要でもなんでもない存在。その事実を直視して受け入れるには、いまの自分は弱すぎる。
 少年は、己が自身を正しく客観的に把握していることを知っている。
 だから、すべてをあわせた上で、彼のいまの幸福を嫉んで羨むのでなく、更なる幸福を願いたいと祈る。
 自分に叶わなかったすべてを、せめて彼には享受してほしいと思う。悲しみも、絶望も、自分が生きるために直面し、踏み倒してきた感情は、知らない方がいい。すべての影は、罪にまみれた自分が引き受けるから。
 ただどうか、と。彼は、胸の奥底から湧き出すもう一つの願いを知っている。
 どうか、自分を忘れないでほしい。
 自分という存在が生きていたことを、彼にだけはせめて。


 談笑しながら水をあおるJに追いつけば、土屋はにっこりと笑い、ロルにも水の入ったペットボトルを差し出してくれる。
「喉は渇いていないかい?」
「ありがとう」
 素直に受け取って片手で器用にキャップを捻れば、いつの間にかからからに渇ききっていた喉を、冷たい潤いが満たしていく。一息に相当な量の水を飲み込んだロルを、土屋とJは「いい飲みっぷりだ」と笑顔で包み込む。
 ここにいたい。
 自分が彼らと共にいることを許された、残されているだろう時間を思い、初めて惜しいと思う。
 いたい。一緒にいたい。
 あたたかくて穏やかで平和で、なにより幸福なこの時間を、もっと共有していたい。やさしい空気に包まれていたい。彼らの隣に存在させてほしい。
 望みだせば際限なく、思いは貪欲になにもかもを欲する。
 彼の持っているものを、少しでもいいから、自分も手にしたい。居場所も、時間を共有できる相手も、自分だって手にしたい。
 叶わない願いほど切なく、届かない祈りほど狂おしい。
 目が眩む。視覚も聴覚も平衡感覚も、自己を認知するあらゆるパーツが、ゆるやかに奪われていく。
 呑まれてはいけないと知っていても、いまだけ、この一時だけならば。熱気と日差しにあてられたのだと、そう言い訳ができるだろうか。
「どうかしたの? さっきから、ちょっと変だよ」
「もしかして、疲れすぎちゃったかな? 少し休んだらどうだい?」
 だらりと下ろした手でペットボトルは握りしめたまま。うつむいて表情を隠し、感情の奔流を押し殺そうと努力しているのに、やさしさが入り込んできて、少年の足掻きを水泡へと帰す。心の底から泣き叫びたいと思うのはずいぶん久しぶりのことだと、ぼやけた視界をまぶたの向こうに押しやり、彼はやけに冷静な声が脳裏に響くのを聞く。
 ロルはこのときようやく、把握が追いつかず放置しておいた、心の中の澱みの正体を悟った。
 これはきっと、己の前に敷かれた道を呪い、届かない高みへと去ってしまった相手に焦がれる想い。そしてすべてをひがむ気持ち。
 信じることなどできるはずもない神なる存在を、深く深く、恨む己の叫びなのだろう。
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