■ 第五話 --- 気づくべきではなかったこと
 食事も終えて、海へと繰り出して遊びはじめた子供たちを眺めながら、土屋はそっと息を逃す。まるでずっと以前から互いを知っていたかのように、打ち解けてじゃれあっている様子が、にわかには信じがたかった。特に飛び入り参加となった少年は、今朝、合流したばかりのときには、ぴりぴりと張り詰めた空気を身に纏っていたというのに。
 海が珍しいのだと言っていた彼は、いまは浅瀬で立ち尽くし、寄せては返す潮に素足を晒して、じっと足元を観察している。先ほどまで一緒だったはずの豪は、藤吉と二郎丸を引き連れて、「探検してくる」と一言残してどこかへ行ってしまった。そこで、残りのメンバーと、それぞれ浅瀬やら近くに発見した岩場やらで、夕食の足しになりそうな食材を漁っている最中なのだろう。
 周囲をあらゆる思惑を持った大人たちに固められ、ただ表情を殺している少年を見たとき、やっぱり兄弟なんだな、と思ったことは誰にも言っていない。
 この子供と自分の養い子は本当に、嫌というほどよく似ている。
 自分が一体なにを要求されているのか、どんな立場に置かれているのか。それらを正確に察しているのだろう。自己紹介の間も、形式ばった飛び入り参加への礼の言葉を述べる間も、ずっと張り詰めて苛立ちを伝えていた空気が、付き添っていた大人たちが消えたとたん緩んだのが印象的だった。
 身にまとう空気が緩んでしまえば、表情の穏やかさもなにもかも、子供たちの見慣れた少年の常とやはりよく似ている。雰囲気の変化から、彼の内側でなにかのスイッチが切り替わったのを感じ取ったのだろう。豪が改めて名乗り直し、話をしたかったのだと告げて、相手がそれに応じた。
 そこから、双方の距離はぐっと狭まった。
 他愛のない話題ばかりだった。こうして見てみたらやっぱり似ているという感想からはじまり、先日の観戦していたレースに飛ぶ。あとはマシンとレースの話をごく一方的に繰り広げ、予定地についてからなにをして遊ぼうかという話をずっとしていた。
 ふと緩む口元を知りながらも、土屋はそれを取り繕おうとは思わない。自分が見ている子供たちは、こんなにもまっすぐで眩しくて、そして限りなくやさしい。そのことがとても嬉しくて、誇らしかった。
「どうか、したのか?」
 声をかけられて顔をあげてみれば、いつの間にか、目の前には隻腕の少年が立っていた。口調は一見ぶっきらぼうな感じもするが、彼という人間自体がそうでないことは知っている。丁寧な言葉は覚えたことがないのだと、ヘリの中で事前に断りを入れられていた。年長者に対する言葉遣いがなっていなくて申し訳ないと告げられ、その細やかな気遣いに、あたたかい気持ちで満たされた。
 どうして言葉遣いごときを不愉快に思うだろうか。君からの精一杯の礼儀は、きちんと受け取れている。
 再び思い出し笑いを深めて黙考に沈みかけた土屋は、不審そうに寄せられた眉に、ぎりぎりのところで我に返る。
「ちょっと、いろいろ思い出していただけだよ」
 君こそどうしたんだい、と問い返せば、少年は土屋の隣に座り込みながら「ひと休み」と返してきた。
「珍しく興奮しているみたいだ。ちょっと疲れた」
「興奮しているのかい?」
 どう見ても落ち着き払っているようにしか見えない表情の裏側では、意外と大きな感情の波が起きているらしい。頷きながら、視線はいまだ海ではしゃいでいる子供たちに据えたまま、ロルはゆっくりと単語を選び出す。
「海、初めて入った。同年代のやつとこうやって普通に話したり一緒にいたりするのも、初めてだから」
 右肘の先にわずかに残った腕が、左腕と同じように揺れている。そのまま両腕で膝を包み込もうとして、ロルは少しだけ右に、土屋と反対側によろけた。


 転んでしまうのではないかと危惧した土屋が受け止める体制をとるよりも早く、少年は器用にバランスを取り、首を巡らせてまっすぐに視線を向けてくる。
「ありがとう」
「え?」
 一体なにを言われているのかと、体の位置を戻しながら土屋が思わず目を瞬かせれば、深い蒼の瞳がふんわりと和んだ。
「色々あるけど、いまはとりあえず、マスコミがここに入り込むのを締め出してくれたこと」
「ああ、そんなことか」
 礼には及ばないと前置いて、土屋は瞳を逸らす。
「完全にはできなかったからね」
「でも十分だ。オレには、なんの力もない」
 応じた声には、悔しさとむなしさとが滲んでいた。
 二泊三日の予定のうち、マスコミによる密着取材をさせたいとのごり押しを、初日ぐらいはなしにして欲しいとの折衷案まで持ち込むのは、正直かなり骨の折れる作業だった。ロルとJとの接点が明らかになったということが、政治的なパフォーマンスにおける高い利用率を意味していることへの覚悟ぐらいはできていた。それでも、子供たちにせめて、気兼ねのない時間を提供してあげたかった。
 ほんの短い時間でもいいから、大人たちにいいように弄ばれるのではなく、大人の手で守られる時間を作ってあげたかったのだ。
「会いたかったけど、巻き込みたかったわけじゃないんだ」
 膝を抱き寄せ、小さく丸まりながら、ロルは言葉を落とす。
「知らん顔をしようかと思ったけど、でも。我慢できなかった」
「過ぎるぐらい我慢しているように見えるよ。君も、Jくんもね」
 唐突にはじまった懺悔にも似た告白に対して、土屋はちょうどいい言葉を見つけられない。精一杯に背伸びをして強がっている子供の、無力で儚げな一面を目の当たりにして、胸の奥がじりじりと焦がされるのを感じた。
 守ってくれる存在を失って、地獄絵図を生き抜いて。そしてようやく手にした邂逅を、この子は喜びの一色で塗りつぶすことすらできずにいる。どうすればもっと深い安堵を教えてあげられるだろうと、少し悩んでから肩を抱きこんであげても、子供はなんの反応も示さない。
「後悔はしちゃいけないよ。あのとき君たちが我慢をしすぎれば、こうして一緒に過ごせることもなかったんだ」
 そしてすれ違ったまま、きっと二人の時間が重なることは未来永劫、訪れることもなかっただろう。誰も知らないところで真実は破棄されて、知っている者の胸には見えない、癒えない傷を刻んでいたはずだ。それこそ、たった一歩の距離を踏み込むことができなかったことへの、果てしない後悔を添えて。
「君たちは、なにも間違ってなんかいないよ」
 ぽんぽんと軽く腕の中の頭を撫ぜて、土屋は深く微笑んだ。
「私の方こそ礼を言いたいぐらいだ。あのとき、彼の心を汲んでくれてありがとう」
 踏み出してくれて。彼に出会ってくれて。
「そのせいで、騒ぎに巻き込んだ」
「それ以上に、君に出会えたのは嬉しいことだよ」
 だから、謝るのではなく喜びあおう。それでいい。


 振り仰いできた蒼の瞳はまだもの言いたげだったが、タイミングよく響いてきた豪の声に、土屋はひとつロルの背中を叩く。
「ほら、呼んでるよ。なにか珍しいものでも見つけたのかな?」
 行っておいで、と少年を立ち上がらせて、大人はやっぱり笑いかけた。
 あわせて烈や他の面々のことも呼び、豪は少し離れた岩場で大きく手を振っている。
 しばらく、なにかに耐えるように眉根を寄せ、きゅっと唇を引き結んでいたロルは、ひとつ首を振って足の向きを返る。そして、踏み出す寸前にやはり振り返り、ひたと土屋を見据えて口を開いた。
「巻き込んじゃって、ごめんなさい。あいつの傍にいてくれて、ありがとう」
 これといって、彼の顔に表情は浮かんでいなかった。ただ、瞳の色が深く、底が見えなかった。
 軽やかに駆けていく細い背中をぼんやりと見送り、土屋はようやく、いま見た色に対して当てはめるべき形容を思いついた。
 昏さを孕んだやさしさを漂わせる、寂しげな色だった。
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