■ 第七話 --- 真実などいらない
慌てて制止をかけたものの間に合わず、思惑のそれた大人たちは、さぞや臍を噛んだことだろう。
この際、場面を作り上げた本人たちがどう思っているかは関係ない。ただ、わずか五分にも満たない衝撃映像は、アメリカ全土はもちろんのこと、 WGP中継の行われている世界中のメディアに流されていた。その事実こそが大きな意味を持つ。
子供たちが主人公の、平和の祭典の象徴でもあるWGP参加レーサーと、血生臭い惨劇の代名詞となった一人の少年の邂逅。
時の人を二人も中核に据えたこの話題に飛びつかないメディアがあるはずもない。秋の大統領選を狙ってのパフォーマンスだと揶揄されながら、むしろ開き直ってロルの渡米後の面倒をあれこれ見ていたアメリカ政府も、NGOと共同で同日の夜、緊急会見を行うことを明らかにした。
飽きることなく、同じ場面をえんえん繰り返すテレビを眺めていた男は、鳴りはじめた携帯を耳に当て、ゆっくりと口を開く。
「どうしました?」
真昼からカーテンをきっちりと引いた薄暗い部屋の中。光源はテレビと、携帯のディスプレイぐらいなもの。鋭く青白い光に照らされた男の、側頭部は白髪に覆われている。そこそこに年老いているようだ。スピーカー越しに響いてくる焦りもあらわな声に、彼は悠然と、微笑さえ浮かべてただ耳を傾けている。
「そのようなことをこちらに訴えられても、困ります」
工作はそっちの仕事だろう、と言外ににおわせ、男は相手の反応を楽しむ。受話器の向こうからは、男が予想したのと寸分たがわぬセリフが返ってきた。いわく、工作の必要がないと判じられる報告をしたのは、男の方ではないか、と。
確かに、かつてあれが死んだと報告したのも自分なら、実は生きていたことがわかり、表に顔を出すようになったとき、放置していたとてなんの害もないと言ったのも自分だ。だが、それはあくまで一個人としての意見であり、そこからの対策を最終決定したわけではない。文句を言われても、それは筋違いというもの。
二、三の屁理屈の応酬だけで、相手はあっさりと攻め方を変えてきた。権力をかさに脅しにでもかかるのかと思いきや、泣き落としである。
なんとかしてくれ、なんとかならないのか。あまりにも情けない声音に、男は唇の角度をわずかに変える。
くだらないと思った。できもしないことに手出しをするべきではなく、自分で対処が出来ないのなら、リスクの高い賭けなどするべきではないのだ。
心の底から相手を嘲る表情を浮かべながらも、声だけは慇懃丁寧に。男は言葉を選ぶ。
「所長から、既に対応策はそちらにも回っているのではありませんか?」
力強く首肯する一方で、それだけでは頼りない。策は多い方がいいし、万全を期したいのだと訴えられ、男は声に出さずに笑う。変なところで頭の回る相手が、おかしくて、哀れだった。
万全を期したいのなら、そもそもなぜ、こんな危険で馬鹿げた話に乗ったりしたのだろうか。
それは言っても仕方のないこと。そんな相手の愚かさゆえに、自分はこうして楽しませてもらっているのだから。
「では、社長。マスコミ向けにパフォーマンス用の資料を取り揃えられればよろしいでしょう」
あれの真の業績は、かの国の政府の公式資料にも載っている。数量にある程度という制限はかかるものの、国際社会にも信憑性が高いと認められるだろうそれらを、いまからでも取り寄せることが可能だ。その内容は、この国をはじめ、世界に悪として受け止められるはず。
世論は移ろいやすい。あれに対する風当たりが厳しくなれば、その言葉を真実として受け入れるものもなくなるだろう。大切なのは、本質の真偽ではない。周囲がそれを、真と信じるか、偽とみなすか、なのだ。
短い言葉からも正しく意図を汲み取り、相手ははじめと同様、慌ただしくノイズの向こうへと消えていった。
テレビの画面は切り替わっており、そこには、今日までのあれの様子を納めた映像が編集されて流れている。
「いまさら表に出てきて、どうするというんだ?」
お前はけっきょく、なんの力もないただの子供にすぎないのに。
クローズアップされ、画面に大写しになった横顔には、薄っぺらい笑顔が貼りつけられている。その表情の奥を見透かすかのように瞳を眇め、男はくつくつと笑声をこぼした。
どこでなにを察したかは知らないが、余計なことを知りすぎたのだ。
聡明なのは哀しいこと。せっかく拾った命を、お前はその賢さゆえに、永らえさせることができないだろう。ならばせめて、と男は思う。
残されたわずかな時間で、あまりに単調な日常に、退屈な世界に。刺激をもたらしてくれればいい。
色のない、つまらないことこの上ない空間が、鮮やかに彩られていく予感がする。
「……楽しませてくれ」
顔を見合わせてなにごとかを話し合っていた男たちは、やがて結論に達したのか、互いに頷きあって足早にサーキットを後にする。その集団から一人外れ、最初にJに話しかけてきた男が口を開く。
「マスコミに何を聞かれても、決して余計な話は漏らさないでください。後日、こちらから改めて話を聞くと思います」
視線の先にいるのはJで、言葉遣いは丁寧なもののどこか高圧的な口調に、場に居合わせる子供たちは思わず目を見合わせる。
「口を噤んでいることが、あなたとご友人たちの身を守るためであるということを、くれぐれも忘れないように」
不信感もあらわにまっすぐ睨み返すJに、男は皮肉げな冷笑を口元にひらめかせる。
「無論、彼のためでもあるのですから」
「わかっています」
硬い声を絞り出したJがふいと視線を逸らすのを視界の隅に、男もまた早々に出口へと向かう。高らかに響く足音が廊下の向こう、暗がりの中に消えるのを見送ってから、土屋はそっと息を逃して、無表情に床を見つめる少年へと意識を向ける。
状況の把握をせねば、と思う心がある一方、ここでそれを問いただしても大丈夫なのかと、戸惑う気持ちがあるのもまた事実。
「なあ、戻ろうぜ」
足をその場に縫いつけられたまま、ただ空回る思考だけを持て余していた土屋は、だから。動きをみせた子供に、気づくことができなかった。
唐突な発言に対し肩を大きく揺らし、Jは慌てた様子でその背後を振り返る。声を発した豪と、自分のことを雄弁な表情で見つめている周囲の人間とを見比べ、Jは苦しげに眉をひそめた。わずかに開かれた唇を、動かしては喰いしばり、なんとか言葉を紡ごうとするのだが、うまくいかないらしい。その様子を知ってか知らずにか、豪はもう一度、周囲を見渡しながら、同じセリフを繰り返した。
「中に戻ろう」
限りなくやさしい、それでいて力強い声だった。
困惑気味に向けられるJの視線をまっすぐ受け止め、豪はただ首をかしげている。いったいなにに困っているのだといわんばかりの表情だ。
「言葉が見つからないんだろう?」
息を吐き出しながら、次に声を取り戻したのはリョウだった。周囲を促しながら、唇の端を持ち上げる。
「焦っても、いいことなんかなにもない」
その瞬間、空間が時間の流れを取り戻した。
めいめいが慌てて足元やらに転がっている自分の荷物を纏め上げるのをぼんやりと見やり、Jは必死に深呼吸を繰り返す。
言わなくては、告げなくてはいけない言葉がある。逃げてはいけない。機を逃してもいけない。なんとしても喉の奥に絡まった言葉を引きずり出そうと、意を決して顔をあげたJは、目の前からの不意打ちを喰らい、声を発し損ねる。
「謝らないでね」
告げたのは、烈だった。
なぜ自分の言おうとしたセリフがばれてしまったのだろうかと、Jは思わず目を見開く。そのさまに淡い微苦笑を滲ませ、烈は続けた。
「君の考えていることなんて、お見通しだよ」
伊達にリーダーやってるわけじゃないんだからね、と軽くおどけてみせてから、烈はすっと真剣な眼差しを向ける。
「大切な人、なんだよね?」
問いかけるというよりは、確認に近い口調だった。
息を吸い込みはするものの、どうしても音が唇を割らず、ただ困惑したように眉間にしわを刻むJに、烈は淡く微笑みかける。
「会ったことを、後悔でもしてるのか?」
「わからない」
横合いから滑り込んできたのは、低く落ち着き払った声。鈍く言葉を返しながら首を振ったJに、声の主、リョウは薄く笑む。
「それは、自分で自分の感情を把握できないぐらい、必死だったってことだろう?」
「そうだね。そのぐらい、どうしても会いたかったんでしょう?」
思わぬ方向からの質問に声を取り戻すことはできたものの、動き出すことはまだできずに佇んでいたJの目の前で、子供たちは優しく微笑を浮かべて頷いてみせる。
「会いたかったんなら、会えてよかったじゃんか」
すぐ脇から覗き込むようにして問う豪に目を向け、もう一度。サーキットに居合わせる面々を見渡して、視線をゆっくりと床に落とす。そしてJは、両のこぶしを握り締めて震えながら頷いた。
そのさまを目にして、場の空気はふわりと、やわらかさとぬくもりを増し、子供たちは口を開く。
ならいいよ。会えてよかったね、彼が無事でよかったね。
いまはなにも聞かない、なにも言わなくていい。だけどいつか、きっと話してくれると嬉しい。彼に紹介して欲しい。
君の大切な人は、自分たちにも大切な人だから。
包み込むようなやさしい思いと言葉に、Jはただ、泣きそうな笑顔をあげ、わずかに小首を傾げて応える。
「大切な、相手なんだ」
決して離れてはならなかった。離れたくなどなかった。
だけど自分は、彼の犠牲の上に生きて、君たちに出会った。
彼の存在はすなわち、最大の罪の証。鏡の運命。
決して忘れてはならない真理を告げる、生き証人なのだ。