■ 第六話 --- 鎖の重み
えもいわれぬ沈黙は、当事者の片割れによって、唐突に打ち破られた。
穏やかにJの背を軽くなでさすっていたロルの手が、不意にその肩を軽く押して互いの体を引き剥がしたのだ。不審そうに眉を潜めるJの目元を袖口でそっとぬぐい、なにごともなかったかの様相でロルが背後へ振り向くと、通路の向こうからやかましい足音が響いてくる。
こんどはなにごとかと思いきや、姿を現したのは、一様に仕立てのいいスーツを着こなした、初老の男たち。
「ミスター・テッシン!?」
先導してきたのは比較的若い男で、彼は足を止めるや否や、ことの発端となった傍迷惑な老人の姿を求めて視線をさまよわせる。土屋は、彼に見覚えがあった。先ほど置き去りにした、広報の職員だ。きっと面倒ごとを知り、別室でいろいろ裏方の話をしていた権力ピラミッドの上位の人間たちを呼んできたのだろう。
「なんじゃなんじゃ、騒がしいのお」
やってきた人間がみな、どこか殺気立っているのなどどこ吹く風。鉄心はのんびり応じながら、こめかみをかりかりとかきむしる。
「今回ばかりはおとなしくしていてくださいと、あれほどお願いしたではありませんか!」
「そうですよ、これでもしものことがあったら……」
「ええじゃないか。悪いことはなーんもなかったし、ロルくんはJくんに会いたかったみたいじゃし」
いじけた様子で紡がれた言葉に、大人たちの視線はロルの背後に隠されるようにたたずんでいるJへと向けられる。居心地悪そうに身じろぐJをかばうようにロルが立っているため、彼らはそれ以上の反応は示せない。だが、ちょうどいいターゲットを見つけてうごめきはじめたマスコミへの反応は早かった。
「申し訳ないが、マスコミの方は外に」
やってきた集団の中でも後方に位置していた中から一つ声が上がると、土屋とデニスがやってきてから入り口付近にずっと立っていた男たちがずいと動き、後ろ髪を引かれている様子の報道関係者を追い出しにかかる。
「あれ、誰だ?」
「バカ、FIMAの役員の方だろ!」
「それと、政府筋の人だね」
その一方で、豪はボリュームを落としながらも実に場違いな質問を兄へとぶつけていた。鋭い声で返された返事には、思わぬオプションがついていた。思わず首をめぐらす星馬兄弟を、ミハエルはにこりと天使の微笑で受け止めるだけでそれ以上はなにも言おうとしない。
無言のままロルに腕で促され、Jが数歩、子供たちのいる側へと下がってきた。
「大丈夫かね?」
どうしたものかと身動きのできない子供たちと土屋を知ってか、そっと声をかけたのはデニスだった。ぱっと振り仰ぎ、Jは周囲をぐるりと見回してからこくりと頷く。いまだ目元は赤くその奥に潜む表情はどこかぎこちなかったが、問題はなさそうだ。
なにか言おうと口を開きかけたJを、デニスはまだぐずぐずしているマスコミと、あからさまにもの言いたげな視線を向けてくる政府関係者たちとを無言で示しながら押しとどめる。
のれんに腕押しとは知っているだろうが、一応叱責の文言を綴らずにはいられないFIMAの役員と鉄心との問答にならないやりとりが展開される。その間にも政府筋の人間たちはなにごとか言葉を交わしあい、一人が代表としてマスコミを追って外へと出て行った。
外部への情報漏洩をシャットアウトしたところで、大人たちは内部の処理へと取りかかった。促され、黙って従う様子をみせたロルに、それまで黙していたJが口を開く。
「また、会えるよね?」
空間を縫ったのは、必死さに彩られた、悲痛な声だった。
「これで最後とか、言わないよね」
咎めるような視線も、いぶかしむような表情も、ロルを境に反対側にいる大人たちの様子は微塵も気にかける素振りなく、Jは立ち止まってじっと床を見つめている少年に問う。
「わからない、そんなこと」
一呼吸おいて、ロルは簡潔に答えた。
「神のみぞ知る、だろ」
決して視線は合わされないままの、あいまいな笑みを添えた少年の声音は先ほどとは打って変わり、静けさの中に暗さと凄みを潜ませていた。
せかすようにして連れて行かれてしまったロルと入れ替わりに、Jの目の前に立ったのは中年の男だった。
「君は? 彼を知っているのか?」
見覚えはなかったため、FIMAの人間ではないと思われる。あからさまに何かを探るような視線と声音に、土屋やデニスをはじめ、豪たち子供らもぴくりと表情を硬化させるが、Jは聞いている様子もない。
「いま、自分が何をしたかをわかっているのか? 彼は、単なる観光客じゃない!スパイ疑惑だって浮上しているというのに」
それは、少年にまつわる風評の中で、必ずついて回るもののひとつだった。
NGOに連れてこられたとはいえ、入国に必要な書類だのなんだのが揃っていたはずのない少年のために、アメリカ政府が一肌脱いだことは記憶に新しい。だが、ホワイトハウスの住人たちが、たかが一人の少年のためごときに、しかも人道的理由だけでその重い腰をあげるだろうか。
誰からともなく、誰にともなく、まことしやかに囁き交わされる。
きっとこの美しく演出された舞台の裏には、国際政治のドロドロとした駆け引きがあるに違いない。たとえば少年は、米軍を中心とした多国籍軍が追う標的の情報を持っていて、それを交渉材料に持ちかけられたのではないか、と。
錯綜する情報の中心部にいるだろう人間の発言なだけあり、場の空気はざわりと揺れ動く。しかし、それらを一切気にした風もなく、Jはつと、読めない表情で相手を見据えた。
「あなたがそれを言って、いいんですか?」
言葉を紡いだのは、聞いたものに氷の刃を首筋に当てられているかの錯覚を起こさせるような、怜悧な鋭さを内包する声だった。
思いがけない反撃にたじろいだ相手に、Jはゆったりと、大きな瞳を眇める。その表情がひたと凍りついているのを、土屋は見逃さなかった。
Jが声を荒げて激昂したりという場面には土屋も居合わせたことはないが、怒りが心頭するにつれて、身にまとう空気が冷ややかになっていくところには何度か出くわしたことがある。Jの怒りの表し方は、さながらブリザードといったところだ。滅多なことで爆発させることはないものの、逆鱗に触れられたときの反応は案外はっきりしており、その一事に関しては沸点が相当に低い。
ここまでわかりやすい反応を彼が示すということは、先の男の言動は、あからさまにJの感情を怒りへと駆り立てるものだったのだろう。そしてきっと、同時に傷ついている。この子供の逆鱗は、自分自身にではなく、彼が大切に思う対象に属しているから。彼の怒りは、悲しみの沸騰を意味することが多いから。
どこか冷静な思考回路で土屋がJの心理状態を分析している一方で、一気に沈み込んだ雰囲気に、日ごろは温和な友人の内面の変化を察知したのか、子供たちも顔を見合わせている。
「君は、いったい彼の?」
「兄弟です」
瞬時に変質してしまった雰囲気を振り払うかのごとく、頭をひとつ振って口を開いた別の男に、Jはぽつりと答える。
「この世界に残されたたった一人の。血を分けた、大切な家族なんです」
ロルの立ち去った廊下を見やりながら続けられた声は、独り言といってもいいような大きさだった。