■ 第五話 --- 遠い日の約束
 簡潔に告げられた事情に、相手の正体を確信した子供たちはどよめいた。
 やたら厳重だった警備も、常ならず多かった割に公開練習の取材に来ているのは少ないマスコミにも、やたらおいしい取り合わせの今日の取材担当チーム陣にも、すべてはこの客で説明がつく。
 平和でこれといった話題もなかった昨今。マスコミの注目をWGPレーサーたちと二分していた、彼らとほとんど年の変わらない一人の少年。一国の内乱を終わらせるきっかけとなった写真展で、世界的なヒーローと化した悲劇の象徴。
 彼には命の借りがあると、写真展を主催したボブ・アデナウェアーの発案で先日、肘から先の失われた右腕に適切な治療を施すため、米国政府の全面的なバックアップの中、NGOがアメリカへと連れてきた時の人。
「ザ・ブラッディー・ファイア」
 焦点をぼかしたデニスの説明と本人の存在だけでは正解にたどりつけなかった二郎丸は、決して大きくはなかったエーリッヒのこぼした声に、思わぬ有名人の登場をようやく悟り、驚きの声を上げる。
 邦題は『獄炎』。ボブ・アデナウェアーが自らキャンペーンに起用した写真のタイトルであり、いまや世界における、この客人の代名詞。
 二郎丸自身は写真展を見に行ってはいなかったが、あまりにも有名になりすぎたその一枚には、見覚えも聞き覚えもあったのだ。だが、エーリッヒの声に反応したのは、彼だけではなかった。
「その呼ばれ方は、好きじゃない」
 けっきょく、セッティングは自分がやってやるから、とマシンを取り上げ、本来の目的を忘れて熱中している豪をなんとなしに眺めていた客が、視線を上げてふと口を開いたのだ。実に流暢な英語だった。
「ボブにもその写真にも感謝してるけど、それはオレの名前じゃない」
「失礼しました。ミスター……」
「敬称もいらない。君たちとそんなに年も違わないと思う」
 どこか硬い表情ではあったが、声音は思いのほかやわらかく、あたたかかった。軽く腰をかがめていた状態から、客人はすっと背筋を伸ばす。
「ロル。ただのロルだ」
「ではロル。不快な思いをさせてしまったようで、申し訳ありません」
「もう慣れたから。謝ってもらわなくても、別に平気」
 予想だにしなかった相手のやわらかい反応に呆気に取られる周囲をまったく意に介した様子はなく、ロルと名乗った客人とエーリッヒは、穏やかな微笑を交し合った。


 思いがけない対面とはなったものの、やはりまた思いがけずなんとか丸く収まりそうだと大人たちが胸を撫で下ろしたのも束の間。おもしろそうにエーリッヒとロルのやりとりを眺めていた鉄心が、一段落したところを見計らって爆弾を落としたのだ。
「で、お前さん。こん中の誰かに会いたかったんじゃろ?」
 穏やかだったロルの身にまとう空気が、一瞬にして凍りついた。
 明らかに困った様子で視線をさまよわせ、マスコミと、土屋たちの背後に控えているボディーガードたちとを見やり、言葉を紡ぎあぐねている。
「レースん時も、じっと見とったじゃないか」
 意外と鋭い観察眼を披露した老人のセリフに、幼い客の表情は、左右非対称に歪められた。冴え冴えとした底の見えない深い碧の瞳には、痛みに耐えるような色が浮かべられている。
 真意の見えない鉄心の言葉に子供たちがざわめく中、弱いものいじめを見ている気分になってきた土屋は、どうしたものかと眉を寄せる。だが、その思案は意外なところから上がった声によって阻まれた。
 ごく小さな、震える声で紡がれたのは、土屋の知らない言語。場に居合わせた面々もそれは同じらしく、セッティングに夢中だった豪でさえその手を止め、隣に立つ兄と、きょとと目を見合わせて音源に視線をやる。そこには、先ほど土屋が目にした、場にそぐわない怯えの表情を浮かべたJ。
 彼が見つめているのは客人で、その瞳もまた、焦点をずらすことなく相手を見返している。
 もう一度、同じ音を舌に乗せ、Jはぐっと両手を握り締めた。
 動きたいけれど動けない。言葉にしたいけれど声にならない。
 触れたいものに手を伸ばしては寸前で引き戻すような、そんな逡巡をみせるJに、周囲は沈黙をもって次の動きを待つ。
「憶えてる?」
 息を深々と吸い込む音に続き、次に発されたのは英単語。だが、それはJではなく、ロルの紡いだ言葉だった。
 はじかれたように目を見開き、一気に表情を緩めてJがゆるりと頷くのと、ロルが軽やかな足音を残して豪の脇から駆け出したのとはほぼ同時。次の瞬間には、抱きつかれ、勢いに圧されて二、三歩よろめくJと、その首元にすがるように、残された腕を回すロルの姿があった。



 滞ってしまった場の時間の流れを、いち早く取り戻したのはマスコミだった。シャッターを切る音やら録画を命じる声やらが騒がしくなり、子供たちもまた我に返る。だが、言葉が出てこない。あまりに突飛な目の前の状況に、言語中枢が追いついてこないのだ。
 背に腕を回し返そうとして、だらりと下げられたままだった相手の右腕に触れ、Jはぐっと唇を噛んで視線を伏せる。それに気づいたのか、ロルは黙ってJの頭を己の肩口に抱き込み、ぽんぽんとあやすようにして後頭部を軽く叩く。
「大丈夫。もう、痛くない」
 どこまでも穏やかな声で静かに口を開いたのはロル。凪いだ湖面のような、ただ静かな声だった。
 決して大きくはない。むしろ囁くように告げられる言葉は、マスコミによる無神経な喧騒の合間を縫い、空気を震わせ、消えていく。
「やっぱり、お前だった」
 首筋に顔をうずめたまま、時間をかけて背中に回した手で、服が皺になるほど強く自分を抱いてくるJの後頭部にあごを乗せ、ロルはくすりと笑む。それは、彼が今日みせた表情の中で、もっとも自然なもの。
「元気そうでよかった」
「うん」
 くぐもった震える声に、子供たちは彼らのよく知る少年が泣いていることを知る。それはとても珍しいことで、慌てた豪が飛び出していきかけるのを、咄嗟の所作で烈がおしとどめる。
 もの言いたげな弟の頭の中身は、別にわざわざ音にしてもらわなくてもわかる。息を吸い込んだ豪がこの場の空気を打ち破らない内にと、烈はすばやく己の口元に指をあて、真摯な表情で首を横に振ってみせた。
 いつもの豪ならば、それだけでは到底納得しなかったろうが、その向こうのミハエルにも同じような内容を身振りで示され、しぶしぶ口を噤む。豪とて、いつもとあまりに違う、触れればなにかの線がまとめて切れてしまいそうな友人の様子は察せている。
「生きてて、よかった」
 いつのまにやらしんと静まり返った空間に、ぽつりと落とされた音。
 声は軽やかでも、言葉は重い。
 Jはそれにはなにも返さなかった。ただ、腕の中の相手をさらに強く、強く抱きしめていた。
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