■ 第四話 --- 一枚の写真
 その日のその不思議な感情は、よく憶えている。
 最初に感じたのは、狂おしいまでの喜びと果てしない罪悪感。そして、わずかに影を落とす、どことない違和感だった。
 別人ではないかとの考えがふと脳裏をよぎったが、まさか彼を見間違うわけがないと、瞬時に否定する。やっぱり彼は約束を守ってくれた。不安に思うこともあったし、諦めようと、忘れようと思ったことも何度もあった。それでも、心の支えにして信じていたのは正しかったのだ。そう思うと、わけもなくとても誇らしかった。
 おぼろげな記憶をたどり、わずかに残る、モノクロの映像を思考の隅に呼び起こす。
 フィルムの千切れた無声映画を見ているような、断片的な情景がいくつか。音も色もにおいも、郷愁すらもない。寂しさや切なさではなく、ただ己の無力さへの虚脱感を刻み込まれた思い出たち。そして今は、彼への微かな違和感を徐々に明確なものとさせる記憶たち。
 もちろん、離れていた時間の分、自分も成長したし相手も成長している。身長だとか体つきだとかだけではない。顔立ちだって、ずいぶん幼さが抜けた。それも少し不思議な感じはしたが、すぐに慣れることができた。たとえどこにいようと、二人の時間は等しく重ねられていて、相手に起きている変化は、自分の身にも起きていたのだから。
 見れば見るほどに膨らんでいく不思議な齟齬。
 状況の特殊性ゆえのものとも違うし、記憶が改竄されたゆえのものでもない。根拠はないものの、それは確信をもって断言できるのに。
 なんだろうなんだろうと、必死に考えても原因は思い浮かばない。ただ、一方で疑念が次々と浮かんでくる。
 なぜそんな場所に君はいるのか。
 いったい君は、どんな時間を送ってきたのか。
 どうしてこんなことになってしまっているのか。
 声を聞きたい。話をしたい。そうすればきっと、胸の奥にさざ波を立てる違和感だって軽やかに吹き飛ぶだろう。彼ならきっと、吹き飛ばしてくれるだろう。
 彼は、こちらの存在を知っているだろうか。
 知らないなら知ってもらいたいと、知っているなら会いたいと願う。だから、会うためにまず、動き出そうと思う。いつだって手を引いて先に進むのは彼だったから、今度くらいはこちらが先に足を踏み出そう。
 複雑に入り組んだ迷路の向こう。そこが彼の今いる場所で、二人が出会うにはあまりにも距離がありすぎる。彼がそこから抜け出す力を持っていないなら、こちらから会いに行く方法を探せばいい。そして、二人であの祈りを現実のものとしよう。


 大勢の人間が集う場所特有の、ざわざわと、捉えようのない喧騒がそこには広がっていた。ゆったりと流れる人波から少し外れて、少年はじっと、一枚のパネル写真に見入る。
「――約束」
 ぽつりとこぼされた言葉は、場の喧騒に溶け込んで反応を示す人間はいない。その言葉が意味を持って響いたのは、少年の心の内のみであろう。
 視線を伏せて、深呼吸をひとつ。寄せていた眉根を元に戻し、少年はするりと身を翻して人ごみを抜けていく。外に出れば空は眩しいぐらいに晴れていて、頭上から降り注ぐ陽光がなんだか切ない。
 特別なわけなどないけれども、ただ、泣き叫びたい衝動に駆られた。



 息せき切ってサーキットに出た土屋は、並んで走ってきたデニスと共に、子供たちと、いつの間にやら子供たちの周囲を半円状に囲んでいたマスコミとの注目を浴びてたたらを踏んだ。が、こんなところで気圧されている暇はない。こんなめちゃくちゃな形での客と子供たちの対面は予定になかったのだ。相手の正体を察して沈黙している子供たちがパニックに陥っていないいまのうちに、とりあえずでもいいから説明をしないといけない。
 豪の唐突な問いに、呆気にとられながらも首を横に振った客人は、リニューアル前のマシンを持っているからそれを使えばいい、と横から提案してきたミハエルにマシンを手渡され、手ずからセッティングを教えてやろうという二人の餌食になっている。
 一体なにからはじめて、どこまで話せばいいかと思考回路を必死に回転させていた土屋は、しかし、視界の隅に捉えた子供たちの表情の中に、予想外のものがあることに気づいた。
 面喰らっていたり驚愕していたりするのならわかる。困惑や不審も許容範囲だ。そのどれにも当てはまらない、怯えにも似た表情で、一人の例外が客人を見つめていたのだ。
「お前、片っぽしか腕ないのか?」
 と、豪が素っ頓狂な声を上げた。マシンなど触ったこともないという客にあれこれと講釈を垂れ、いざ実践と思った先の驚愕の事実。さすがに片手では、自分でセッティングを行うのは難しいだろう。じゃあどうしようか、とミハエルと一緒に悩みだしてしまった。
 隻腕という相手の状態にパニックを起こされなかったのは助かったが、その一言に、茫然自失となっていた子供たちが次々と我に返りだした。慌てて烈が豪を客人から引き剥がそうとすれば、横合いからミハエルがなだめる。そればかりか、烈の困惑を無視して、そのままコースのタイプと初心者であることを考慮した上でのセッティングのアドバイスを求めはじめた。他の子供たちも、状況整理のため、周囲とひそひそ話しはじめている。
 土屋が、説明責任への義務感から思考を言葉に変換するよりも早く、こんどはブレットが沈黙を破って口を開いた。
「あちらは?」
 低く地を這うような声が向けられたのは、もちろん飄々と状況を見守っている鉄心でも、読めない表情でただ静かに、豪や烈、ミハエルの言葉を聞き流している客当人でもない。ブレットの一番身近な大人である、デニスだ。
「今日のレースにお招きしていたゲストだ。せっかくの機会だから内部視察も、ということになって、おいでいただいている」
 戸惑いも明らかにいったん土屋と目配せを交わし、デニスはひとつため息をつくと、説明役を買って出た。
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