■ 第三話 --- 偶然か必然か
  案内してきたらしいFIMAの職員、たしか広報担当だったはずの男が一歩前に踏み出し、土屋とデニスに、連れ立ってきた見慣れない男たちを簡単に紹介する。言葉を受けて二人が軽く会釈を送れば、スーツの男たちも申し訳程度に頭を下げてくれた。
「名誉会長はこちらにはおいでではありませんか?」
 互いの存在認識が終わったところで、職員の男が慌てた口調で二人の監督を見やった。まったく身に覚えがなかったため、知らないと返せば男は蒼白になって声を失っている。
「どうか、しましたか?」
「彼を連れて消えてしまったんです」
 言葉をうまく使えずにいる職員はとりあえず放っておき、スーツの男の一人が淡々と状況を説明してくれた。
「警備システムと簡単なスケジュールの確認をしている間、レースやらマシンやらの話をしていたようなので少し目を離したら、その隙に」
 次に声を失うのは、デニスと土屋の番だった。なぜわざわざこんなにも場にそぐわない男たちがスタジアムを訪れているかというと、それは話題の“彼”を護衛するためだ。そんなこと、いかに鉄心が常識から外れた次元で思考と行動を成り立たせていようとわかっていそうなものなのだが。
「スタジアム内に不審者が入ったという情報はありませんが、万一のことがあれば困る相手なので」
 こうして探し回っているらしい。
「心当たりは一通り見てまわりましたが、どこにもいらっしゃらないんです」
 ようやくどこか遠くに飛んだ状態から戻ってきた職員は、いまにも泣き出しそうな表情だった。それはそうだろう。あの老人のことは、一番付き合いの長い土屋にもいまだ計り知れず、老人が連れ出した彼に万一のことがあれば、FIMAの責任は重大である。
「監視カメラで探したほうが早くありませんか?」
「映っていないんです」
「ああ、鉄心先生なら……」
 どこにいそうかわからないかと問われてデニスがそっと言葉を返すも、間髪おかずに否定される。土屋は妙に納得するだけだ。鉄心なら、監視カメラの隙をかいくぐってどこかに雲隠れして、周りが慌てふためく様子を飄々と楽しんでいるのがよく似合う。
「でも、その彼が一緒なら、彼の興味を持った場所が妥当じゃないんですか?」
 鉄心とて、子供の嫌がるようなところに連れて行ったりはしないだろう。もし特別客たる少年の興味がどこかに集中していたなら、そこに関連した部署を探したほうが見つけられる可能性は高い。どこかないのかと土屋がスーツの男たちを見やれば、彼らは一様に眉根を寄せてしまった。
「彼は、求められたパフォーマンスは完璧にこなしていますが、基本的に極度にすべてへの関心が薄いので」
「そうなんですか?」
 各種の報道媒体を通じて見るのとは違った、偶像の意外な素顔だった。
「今回の観戦は珍しく本人も乗り気だったのですが、それ以上の細かな関心対象はわかりかねます」
 苦味の混じった声音に、土屋はそっと同情を寄せる。仕事という名目ではあるものの、彼らは四六時中かの少年と接している。至近距離で大人が子供を長時間見ていれば、情が移るのなどよくあることだ。まして、心を砕いて相手を徹底的に守り抜くという状況なのだから、なおのこと。
 きっと彼は、頭がよすぎるのだろう。そういうらしからぬ子供を相手にするのは、互いの距離が近ければ近いほどやりづらい。なんとなく直接は会ったことのないその子供に自分の養い子の姿を重ね、土屋は視線をサーキットへと流す。そして、そこにとんでもない人物を目にしたのだ。
「え? あ、鉄心先生?」
 行方知れずだった老人は、サーキットで子供たちに一つの小さな人影を放っていた。正体を正確に察したらしく、唖然としてしまっている過半数と、きっと何も考えず、素直に客をレースへと誘う豪。そして、いろいろを知っているだろうにそこに便乗しているミハエル。
 思わず見守り体制だったが、はたと我に返ったデニスに促され、土屋は連れ立ってサーキットへ続く通路へと駆け出していく。職務に忠実なスーツの二人組もその後に続くが、あまりに突飛で常識の範疇から外れた老人に、反応を示せなくなってしまった哀れな職員は一人、その場に残されたのだった。


 子供たちの中ではおそらく、烈が最初に変化に気づいていた。
「どうかしたのかな?」
 もう何度目かも数えるのが馬鹿らしくなったレースに向いていたはずのマスコミの関心が、いつの間にか薄れていたのだ。ざわざわとどこか落ちつかなげなその様子の正体を探るより先に、一息入れていたミハエルがひょっこりと烈のすぐ隣に顔をのぞかせる。
「マスコミの絞り具合から、何かあるとは思ってたけど」
 やっぱりね、と愛らしい鉄の狼は妙に楽しげだ。
 意味深な声音に、何か知っているのかと烈が疑問を口にしかけるのと豪がわめき声を上げるのとは同時。
「くっそー!! どうして勝てねえんだ!?」
 レースが終わったのだ。結果は、ブレットが一位、次いでリョウ、エッジ、豪の順である。一緒に走っていたはずのシュミットは、途中、豪の無謀なコーナリングに巻き込まれてコースアウトしている。
「豪、コースに対してセッティングにどうせ無理があるんだろ? 何も直そうとしないで、周りにすぐ八つ当たりするんじゃない!」
「だって、納得いかねえっ!」
 一瞬で兄としての顔になり、烈がしつこく再戦を申し入れてまわる豪を諌める。この手のやりとりは子供たちも取材陣もすでに見慣れた光景だ。もっとも、そのまま兄弟げんかに発展することはまずない。二人がいったん本気の喧嘩モードに入ると止めるのは至難の業であるため、そうなる前に誰かしらが間に入る。
「もう、豪くんも烈くんも。やめなよ」
 基本的に、その役目はJにある。
 今日も今日とて、壁際で静かにセッティングを変えていたところから腰を上げ、いまにもつかみ合いになりそうな星馬兄弟の間に体を滑り込ませた。タイミングを逃さず、体格で有利なリョウが烈を、Jが豪をそれぞれ担当していつものごとく引き剥がす。ここで第一段階が終了だ。
 喧嘩相手から離されてもいまだ不満げな豪と、すぐに冷静になり、失態を恥じ入る烈。だが、片方のボルテージが下がったからといって、そこで安心してはいけない。興奮しているエースを宥めつつ諌め、チームリーダーが自己嫌悪の無限ループに陥らないうちにうまく浮上させる。アフターケアまで完全にこなして、初めて兄弟げんかを防いだといえるのだ。
 自分の正当性を主張し続ける豪に対してJも口を開きかけたが、紡がれるはずの言葉は、音となる前に霧散していった。
 場の空気をまったく読もうとしない恐ろしくマイペースなしわがれた声が、サーキットに居合わせる子供たちを呼ぶ。なんだなんだと子供たちが目をやれば、声の主は引っ張ってきた人影を彼らの方に無造作に放った。彼らの中心部によろめき出て、崩れかけるバランスを整えているのは彼らとさほど年の違わない子供だ。
 転ぶことなく、なんとかその場に落ち着いた子供があからさまに肩を落として息を吐くと、しわがれた声の主がのんびりとした足取りでその隣にやってくる。
 ごく近くにいる人間が、ひゅっと音を立てて息を呑んだ。
 耳朶を打った不可思議な音への豪の関心は、次に鼓膜に届いた台詞によって、あっさりと忘却の彼方へ。
「お客さんじゃぞ。ほれ、ちっとはサービスしたらどうじゃ」
 年の近い客人で、仮にもオフィシャルのトップに君臨する鉄心のお墨付き。ならば、豪にとってもてなしの方法は一つだ。
「お前、マシン持ってるか? レースしようぜ!」
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