第一章 --- 途切れた糸
■ 第一話 --- 触れられないその瞬間
控え室に戻り、それぞれがマイペースにユニフォームを脱いでいく中、メンバーの中で唯一毛色の違う少年が、上着を脱いだところでぴたりとその手を止めた。
「J? どうした?」
「あ、ううん。なんでもない」
隣で黙々と着替えていた背の高い少年に問われ、Jと呼ばれた少年は着替えを再開する。
ここは、第二回ミニ四駆世界グランプリ開催の地である、アメリカはフロリダ州のとあるスタジアム。Jに先ほど話しかけたのは、長い黒髪を一本に縛った、精悍な顔立ちの少年。名前を鷹羽リョウという。彼らは、グランプリ日本代表チームのメンバーなのだ。
「で、なんだすか?」
ひょっこりとリョウの影から顔を覗かせたのは、鷹羽二郎丸。チームのアシスタント役であり、リョウの弟だ。
「なにか気になることでもあったの?」
続けて声をあげたのは、リョウとはJをはさんで反対サイドにいる小柄な赤い髪の少年。星馬烈、彼らTRFビクトリーズのチームリーダーを務めている。
「まあ、あったといえばあったけど、やっぱり大したことじゃないから」
わざわざ言うほどのことでも、と言葉尻を濁したJに、今度は烈のさらに向こうから声がかかる。
「でも、Jくんの大したことじゃない、は大したことが多いでげすから、もしかまわなければ聞いてみたいでげす」
「そうそう、藤吉の言うとおり」
最後の声は、藤吉と呼ばれた一番向こう側の少年と烈との間から聞こえてきた。順に、先の声の主を三国藤吉、一見サルに良く似ているが、実は世界でも屈指の大財閥の御曹司と、青い髪の星馬豪、烈の年子の弟で、ビクトリーズのエースだ。
「豪のやろうが藤吉に賛成するだなんて、珍しいこともあったもんだすな」
「そうでげすね、なにか悪いものでも食べたんでげすか? 豪くん」
「あんだとーっ!!」
日ごろから低次元な口論の絶えない豪と籐吉の意見の一致に二郎丸が茶々を入れれば、さっと便乗する籐吉。そして、あっさり簡単な挑発に引っかかる豪。ぎゃあぎゃあと騒はじめてしまった年少組に烈がこめかみを引きつらせていると、彼らの後ろから苦笑交じりにかけられる声があった。
「ほらほら、先に着替えちゃったほうがいいよ…。で、Jくん。なにかあったのかい?」
「博士まで。ですから、大したことじゃないんですってば」
声の主は、室内で唯一の大人。彼は、土屋博嗣といい、ビクトリーズの監督兼、Jの保護者だ。穏やかでほんわかとしたメガネの向こうの優しい笑顔と、いつでも手放さない白衣。きわどい生え際のラインが年齢を物語っている。
「このままじゃ気になって、午後のレースに集中できないかもしんねえ」
着替えといっても、彼らは一日がかりで行われるレースの合間の休憩を利用して、汗を吸ってしまったインナーを取り替えに来ていただけなのだ。土屋の助言に従って着替えをすませた豪が、とっくに着替え終わり、控え室に置いてあった小物を移動のためまとめているJにまとわりつく。
「ちょっと、スタンドの様子が気になっただけだよ」
しつこく食い下がってくる豪に、Jは曖昧な笑みを添えて答えを返した。
「スタンド? 知ってるやつでもいたのか?」
「ううん。そうじゃなくて、いつもより警備が厳重だなあ、と思って」
「それなら、マスコミも多いよね」
Jの言葉に、烈も続けて考えるような素振りを見せた。
「確かに。ここまで注目が集まるほどのものじゃないのにな」
リョウの同意を受け、Jは目線を流して頷いてみせる一方、思考の海に潜り込む。それだけではない。警備が単に厳重だっただけなら、方針が変わったのかと考えて終わりにすることもできる。だが、明らかにこんな平和で子供だらけの空間には不釣合いな、あからさまに硬い雰囲気をかもし出す人間がそこかしこにいるのだ。
軍や警察の関係者といった風情の彼らが、こんなところに来る理由など特に心当たりはない。以前、どこかの国の王子様がお忍びでレースの観戦に来ているらしいと聞いたときに匹敵するほどの警備体制だ。ならば、それほどの重要人物が訪れているのだろうか。
現在の合衆国内において、そこまでの警備をつけられる人物の候補は、大統領か、ハリウッド級のスターか、それともあるいは――。
『お知らせします。まもなく、午後の部のレースが開始されます。参加レーサーおよび関係者のみなさまは、至急ベンチへと移動、準備をお願いします。繰り返します。関係者のみなさまは、至急、準備をお願いします』
「えっ!?もうそんな時間?」
平坦な女性の声が告げる内容に、烈が慌てて壁の時計を見やり、まだ準備の整っていない弟をせかす。思考を中断されたJは、何度か瞬きを繰り返すと、ひとつ頭を振って軽く息を吐いた。自分をなにかものいいたげな目で見つめている土屋に軽く小首をかしげ、ベンチへ移動しようと促す。そして、荷物を手に率先して控え室を出てしまった。
「それはおらの仕事だす」
「荷物多いんだし、ボクも手伝うよ」
「でも、おらが持つだす!」
慌てて後を追った二郎丸がJに言い募る声が、だんだんと遠ざかっていく。言い合いのやまない星馬兄弟が小走りにその後に続き、ため息をつきながら藤吉が部屋を出る。
「さて、われわれも行こうか」
「博士」
残された土屋がじっと動かないリョウを振り向けば、静かに落ち着いた声が返される。
「あいつ、この前の週末あたりから、様子が少し変だと思います」
「Jくんかい?」
「時々ああやってなにか考え込んでるし、思いつめたような顔をしているのも見かけます」
チームの子供の鋭い指摘に、土屋は言葉を探す。
「そうだね」
もともと一人でいろいろ抱え込むタイプの子だけど、今回のはちょっと傾向が違うようだ。それには土屋も気づいていた。
ふだん口数の少ないリョウがわざわざ言ってよこすのだから、他の子たちも少なからず最近のJの様子に違和感を覚えているのは確かだろう。
「私もなるべく気をつけるようにはしているんだが、またなにか気づいたことがあったら、教えてくれないかな?どうも彼は、無理をするのが得意みたいでね」
「はい」
素直に頷き、リョウは「時間を割かせてしまい、すみません」と律儀に会釈をしてチームメイトたちの後を追っていった。
リョウは週末といっていたが、正確にはもっと前からだ。今大会がはじまってから間もない頃から、Jはなにか重たいものを胸のうちに抱え込んでいた。それがいままでの間に、ゆっくり時間をかけながら徐々に表面化してきたように思えた。
「とにかく、後で少し話をしてみるか」
なにかにつけ溜め込むきらいのある少年に手を差し伸べる時期を、決して逃さないためにも。
ひとり残された部屋で大きく深呼吸をすると、土屋は照明を落とし、喧騒の響く廊下へと滑り出ていった。
一年を通じて行われる大会の中で、もっとも大きなインターバルとなる夏期休暇を前にした最後のレースは、全参加チームを二分してのドリームチャンスレースだ。ここで一位を取ることができれば、ポイントは五点の加算。逆転を狙うチームにもいまのポジションを固めたいチームにもおいしい、まさにチャンス満載のレースである。
日ごろのレースよりもこういったリスクの大きいレースで本領を発揮しやすいのは、第一回大会から共通するビクトリーズの特色である。今日もまたそのジンクスを裏切ることなく、豪の一見めちゃくちゃな独走により、チームは見事首位を勝ち取った。上半期の細かな失点を補うには、十分とは言わないものの嬉しいポイント加算だ。
勝利の余韻に浸りながらベンチから控え室に戻ろうと慌しく行動していたビクトリーズの面々は、しかし、荷物を抱えて顔を上げたまま動こうとしないチームメイトに気づくと、視線を集めて動きを止めていた。
「Jくん? どうかしたのかい?」
とりあえず近場にいた土屋が問いかけるが、Jはその蒼い双眸を見開いたまま、周囲のことなど完全に意中にない様子でなにかを凝視している。
「なにかあんのか?」
「VIPルームだよね?」
ちょうど彼らのいるベンチの真向かい上空には、ガラス張りの、FIMA>役員やその他の特別な観客専用の観戦室がある。どうやらJは、そこを見て硬直しているらしい。判然としないが、ガラスの向こうにはいくつかの人影がある。特別招待客でもいたのかもしれない。だとしたら、やたら厳重だとJの指摘していた警備にも納得がいく。ぼんやりそんなことを考えていた烈は、ゆらりとようやく動きをみせたJに焦点を合わせた。
「ごめん、なんでもないよ」
詰めていた息を細く吐き出しながら、彼はようやく言葉を紡ぐ。荷物をきちんと抱えなおし、Jはチームメイトににこりと微笑んでみせた。
「でも、何かあったんじゃないの?」
「いいんだ。きっと、ボクの気のせいだから」
食い下がる烈にも、もの言いたげな豪にも、Jはちっともなびかない。
さあさあ、と止まってしまったベンチ内の時間を動かして、中に戻ろうと彼は周囲を促した。貼り付けられた笑顔はやわらかいが、こういうときのJは、誰がなんと言おうと決して自分を曲げたりしない。
意外に頑固な性格を知っていればこそ、釈然としない空気を残したまま、彼らはスタジアムの内部へと足を向けた。