■ 序章 --- 風に聞こえるは
「――っ!!」
 決して珍しくなどない爆発音に続いた液体の大量に滴り落ちる音。そこに、必死に噛み殺された悲鳴が混じる。声の主は、右の腕を握り締め、地にうつぶして背中を小刻みに震わせていた。
 こんなはずではなかった。だが、こんなこともあろうかともっと気をつけているべきだった。
 ここは、世界に見捨てられた地獄。
 終わることのない内乱地域の、その中でも凄惨を極める最前線なのだ。物資の揃えなどいいはずもない。数は一応ある程度確保できている武器も、手入れが行き届いているはずなどないとよくわかっていた。
 気休めにすらならない手での止血をやめ、それは己の頭を覆っていた布を剥ぎ取った。片端を口にくわえて縛りあげると、とめどない出血をほんのわずかぐらいは喰い止めることができた気がした。
 もっともそれは、子供だましにすらならない。液体が地を打つ耳障りな音は消えたものの、布地はあっという間に水気を帯びて重みを増す。そのさまに、舌打ちを禁じえない。自分がとった行為は、ばかばかしいとすら言えない簡素な応急処置だと思い知らされる。
 次いでなんとか上半身を起こすと、広がった視界の隅には焦げて転がっている機関銃の残骸が見えた。まさか自分が持っていた火器によってここまでのダメージを受けるとは露ほども思わなかった。忌々しさをこめた目で足元を睨み据え、立ち上がりながら均衡を崩し、思わず両手をつこうとしてさらに倒れこむ。思うようにならない体に、それは失ったものの重要性を再認識して唇を噛む。
――まだ、死ぬわけにはいかない。
 生き延びるためにはまず、一刻も早く、この場を去らなくてはならない。
 動くことはまだなんとかできるが、霞む視界もふらつく体も、いつ言うことを聞かなくなるかわかったものではない。今度は倒れないよう細心の注意を払って立ち上がり、ついでに足元の屍から機関銃を拝借した。片腕で支えるには重すぎて、吊り紐を口で引き上げることによって銃口の位置を安定させる。
 そして、目の前に転がってうめいている男の背中に狙いを定めた。
 引き金を引くと同時に重く鈍く、乾いた音が断続的に響く。銃弾を受けた背中が大きく波打って、動かなくなる。今回の敵は、いまとどめを刺した相手で最後だったはずだ。
 表情を変えないまま、それは武器を構えたままじっとたちこめる砂煙の先を睨みすえる。しばらく待ってみても、生き物の動く気配は感じ取れない。この場にいる己以外の人間はみな、息絶えたか、息絶える寸前か。いずれにせよもはや脅威はないと判じ、それはくわえていた吊り紐を放し、自由になった手で胸元を握り締めた。
 唇を引き結び、きゅっと眉を寄せて瞑目する。
 だが、そんな顔を見せるのも束の間。足元に転がる兵士たちのなれの果てをまったく気にもかける様子なく、踵を返して走りはじめる。負った傷のためバランスをうまく取れなかったのか、はじめのうちこそふらつく様子を見せたものの、すぐに器用にスピードを上げる。
 そして、わずかな間に屍の山を築き上げた小さな人影は、砂塵の向こうへと消えていった。



 その国が再び世界から注目を浴びた一番のきっかけは、ボブ・アデナウェアーの写真展だった。
 ボブは、特に有名というわけでもない、一介の報道カメラマンだ。一般の報道機関が入り込めないような地域に赴いては写真を撮って売り歩くのが仕事であり、そういう意味では、彼がその国に潜り込む可能性もないわけではなかった。だが、ごくありふれた原因で内戦を開始し、外交も閉ざしている危険極まりない地に、特に動きがあったわけでもないのにいまさら入り込み、ましてやなにをとち狂ったのか、写真展などという余計なものまで開いてくれる人間はいなかったのだ。
 写真展の前振りは大々的に行われ、なにより、キャンペーンに使われた宣伝用のポスターが功を奏した。立ち尽くす小さな人影と、おそらく元は集落だったのだろう家々が燃え上がる凄惨な光景。大きく見開かれた瞳の向こうには、火炎に踊る黒い人形たち。焔の明るさに真っ赤に染め上げられながら、子供はただ亡羊とそれらを見つめていた。
 拒絶することも悲嘆にくれることもなく、魂が零れ落ちたかのように、ただひたすら、無表情に。
 子供はその光景を網膜に焼きつけ、静かに涙を流していた。
 人々は会場に押し寄せ、その一枚では終わらない、展示してあったさらにショッキングな光景の切れ端に触れる。そして世論は高まった。世界が見捨て、忘れ去っていた内乱の地は眩しすぎるほどの脚光を浴びることとなる。
 国連決議はいつになくスムーズに進み、大々的な軍事介入によって、何年も続いていた戦乱は急速に終末を迎えた。軍事独裁政権とレジスタンス。対立し、争っていた正義は後者にあるとされ、前者の首脳陣は追われ、裁かれることとなった。無論、そんな現実を彼らが甘んじて受け入れるわけもなく、あっという間に逃げおおせた残党狩りが、ひっそりとはじまる。


 瓦礫の山と化した町で。焦土と化した故郷で。人々は畏怖と共にひとつの名前を囁きあった。
 血濡れのローレライ。
 そう呼ばれ、恐れられるひとつの影。政権側の人間であってもその実を知るのはごく一握りで、名と功績だけは双方に最も知られていただろう存在。いったい何人を殺したかなど計り知れず、誰も知らない。ただ、赴いた先に残されるのは死体の山と風に途切れる哀しい旋律。それが、隠れ潜む政権中央部の人間に関する情報を漏らしそうな人間を殺しにやってくるという噂が流れていたのだ。
 恐怖と憐れみのないまぜになった声で、人々はかの名前を囁きあう。
 まだこの地には、残酷なまでに美しいあのレクイエムが流れるのだろうか、と。
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