■ ステュクスとレーテ
 子供が身近に生活するようになって、やめようと努力したことが二つある。
 酒とタバコだ。
 酒は、子供と接する上で、呑んでいてはだらしなく見えるかと思ったし、タバコの煙が体によくないことぐらい自覚はある。だから、子供を引き取ったのを機に、やめてしまおうと思ったのだ。
 だが、けっきょくすぐに挫折した。


 Jくんはあまり、タバコの煙に不快感を示さなかった。
 というより、タバコを我慢している私を見て、不思議そうな目をしていた。それは、私が慣れない節制に挙動不審にでもなっているためだと思ったのだが、そうでもなかったようだ。夏が過ぎ、秋を経て。ようやく私やここでの生活に馴染んできてくれた彼は、夕食が終わって、それぞれカフェオレとコーヒーとを口にしていたひと時に、唐突に疑問を口にした。
「タバコ、おやめになったんですか?」
 あまりに脈絡のない唐突な質問だったので、反応には若干の時間が必要だった。それでも、珍しく彼から必要性に駆られたわけでなく語りかけられたことに、嬉しさが溢れ出た。
「やめようと思うんだけど、難しいね」
 私は苦笑しか浮かべられなかった。
 昼間はなんとか我慢しているが、夜中には我慢できずに吸ってしまっている。禁煙など、はなから失敗しているのだ。
「なんでやめちゃうんですか?」
「におうだろう? それに、君の体によくない」
「別に、気になりません」
 小首を傾げて応じていたJくんは、それから、面白そうに大きなその目を眇める。
「大神博士と、同じ銘柄なんですね」
「えっ!?」
「同じにおいがします」
 思いがけないことを聞かされて、私は唖然としてしまった。
 目を見開いて硬直している私のことはさらりと流して、Jくんはのんびり、マイペースに続ける。
「タバコを吸っているときの博士、渋くて格好よくて、好きです」
「なんだか妙な気分だね、そんなことを褒められても」
「でも、事実ですから」
 語尾のアクセントに癖のあるやわらかい声に、今度こそ苦笑が禁じえない。面と向かって彼から自分への好意を向けられたのは、はじめてだった気がする。嬉しいなあ、とじんわり胸を満たす幸福感に揺られていたら、「もちろん、普段も格好いいですよ」と、とどめの一言。そして、綺麗に微笑んでくれる。
「もし、お酒をたしなんでいらっしゃらないのもボクのせいなのでしたら、別に、無理はなさらないでください」
「全部、バレバレだったんだねえ」
 あくまでこっそり遂行していたつもりが、完全に見切られていたらしい。情けなくて額に手を当てて天井を振り仰げば、Jくんはくすくすと、実に楽しげだ。
 ゆっくりとカップの中身を飲み込みながら、彼は本当に落ち着いた、自然ないい顔をしている。そんな表情を見せつけられただけで、この穏やかな時間に感謝をしたいと思える。


 別にヘビースモーカーでもアルコール中毒でもないから、なければ辛いとまでは言わないが、たまには呑みたいし、吸うのはもはや習慣だ。考え事をしたいとき、イライラしたとき、一息入れたいとき。体に馴染んだ動きは、タバコの箱の入っているはずのポケットを探るし、残った手で灰皿を探る。
 いまもつい左手をテーブル上でうろうろさせていたらしい。それを見つけたJくんは、やっぱり楽しげに小さく声を立てて笑った。普段の大人びた様子から、つい忘れさせられてしまう。それでも、彼はまだまだ幼い子供なんだ。そう、思い知らされる瞬間だった。
「たくさん、残してください」
 まったく自分が情けなくて仕方なくて、後頭部をかきながらうつむいていた耳に飛び込んできたのは、静かでたおやかな、あまりに切ない子供の声。
「音も匂いも気配も。たくさんたくさん、残してください。心に、体に染みついて、薄れないぐらいたくさん」
 呟くJくんは、テーブルに置かれたカップの辺りを見ているようで、もっとずっと遠い目をしていた。
 もとから、ひょんな弾みで隣にいながら手の届かない次元に消えてしまいそうな雰囲気を持った子供ではあったが、このところとみにそのけが強まっている。なにか、彼の中の引き金が引かれるようなことがあったのだろうか、とも思うのだが、それを追求する気にはなれない。
 それは、彼をいたく傷つけることになりそうだから、私には踏み込む勇気が出ない。
 また一方で、そうすることによって、彼を本当に失ってしまいそうなのを恐れる自分がいるのも、私は知っている。
 不意に眉根が寄せられ、焦点がどこかずれていたJくんの瞳は、色を取り戻す。そこに一番強く浮かんでいたのは、必死になってなにかを追い、縋る表情。その色を隠そうともごまかそうともせず、つと視線をあげ、私へとぶつけてくる。
「ずっとずっと、鮮明に思っていられるように」
 どうか、消えてしまわないで。
 音にならなかった思いを子供の全身から正確に汲み取り、私は一瞬、言葉を見失う。この子は、なにを恐れているんだろう。


「忘れるのは、悪いことじゃないよ」
 一呼吸おいてから、ようやく絞り出せた声は、いつもと大差ないものだった。そのことにホッとしながら、Jくんの反応を待つ。
「でも、憶えていたいんです」
「もちろん、思いを寄せてもらえるのは嬉しいことだよ。けれども、縛られて欲しいとは思わない」
 私も、そして君が忘れたくないと願う、君しか知らないその人たちもきっと。
「縛られてなんか……っ!!」
「焦らないで」
 歪んだ表情と、悲痛な声と。傷つける気はなかったから、みなまで言わせようとは思わなかった。遮った自分の声音が思いのほかやわらかく深かったことに、内心意外さえ覚える。
 ゆるりと頬の筋肉が緩む感覚。どうかこの微笑みに、哀れみなど含まれていないようにと祈る。幼いうちにすべてを失わざるを得なかった彼を、哀れむほど自分は傲慢ではありたくない。ただ、悲しいまでのこの子の執着が、この上なく愛おしかった。
「君に甘えて、タバコも酒も、我慢しないことにするよ」
 話題を変えてみたら、Jくんはひとつ瞬きをする間に、あっという間にいつもの表情に戻ってしまった。いつもの大人びて穏やかな、そこに後悔と自身への怒りをはらませた表情に。
 垣間見えた心の奥深い部分は、もはやかけらも見当たらない。先のあれは、通り雨のようなものだ。いつもこうしてふと降ってきては、なにごともなかったかのように去っていく。ただ、我に返った彼の表層に、内面を曝してしまったことへの悔悟の念を滲ませて。
「大丈夫、私はまだ、君のとなりにいるよ」
 君がもう少し、一人でしっかり立って、歩けるようになるまで。
 送った言葉は、彼の心に届いただろうか。
 就寝の挨拶を残して消えた子供の背中に、どうしたってため息は禁じえない。自室に戻ってさっそくタバコを解禁して、深く深く、胸に紫煙を吸い込む。


 記憶はいずれ、薄れゆくもの。
 出会いは別れを意味していて、始まりは終わりを暗示する。
 それは永遠の摂理。
 それでも私たちは、思い出を慈しみ、出会いを喜び、始まりを賛美する。
 もうすぐ、君の誕生日だね。君の怯えと惑いは、自分が生まれてきたその日に向かって加速しているのかい?
 恐れなくていい。私は傍にいよう。
 いつか君が、君自身の意志で、君自身の歩みで、私のもとから飛び立つ日まで。
 その日までずっと、傍で君の生まれてきた日を祝い、感謝するよ。
 忘却に涙するためではなく、輪郭のぼやけた思い出に、瞳を細めるために。
 別れを恐れるためではなく、出会いに感謝するために。
 失うためではなく、その手に掴み、守るために。
 君は地に堕とされたのではなく、天から送られてきたのだと。


 いつの日か、忘れてくれてもいいよ。
 ただ、私のすべてをもって、時の許す限り。君に伝え続けよう。
 生まれてきてくれて、ありがとう。
fin.
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 怖がらないで、大丈夫。
 君がいずれ、別れを穏やかに受け入れられる日が来るまで、私はずっとそばにいるよ。
 言葉にせず見守って受け入れてただそこにあり続けるのは、彼の厳しさでありやさしさ。

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