■ 寒凪
骨身に染みとおるような寒さの朝は、いつもよりもしゃっきり目が覚めることが多い。
今朝も、頬を撫でる冷たい風が心地よかった。だから、まだ朝日が昇りきらないうちだったけれども、散歩に行くことにしたのだ。
散歩といっても、あまり遠出をしては二郎丸が目を覚ますまでに戻れないだろうし、何かあったときにすぐに反応できなくては困るから、近場まで。山をもう少しだけ登ると、ちょうど海の見える崖がある。そこまで行って、日が昇りきるさまでも見ようと思った。
こんな時間に山の中でうろうろしているのは自分だけだろうと思っていたリョウは、しかし、目的地が木々の合間から見えはじめたところで、不審に感じて眉を寄せていた。
さらに進んで木立を抜けると、目の前には仄かな光によって朱から蒼へのグラデーションに染まった空と海。それから、崖の切り淵に腰を下ろしている背中。
「J?」
「おはよう」
この界隈で、金の髪を持つ少年など、リョウは一人しか心当たりがない。こんな時間に、なぜこんな場所へ、との疑問はともかく押し込めて、まずは人物特定のために名前を小さく呟けば、相手は唐突にかけられた声に驚いた風もなく、くるりと首をめぐらせて微笑んでくれた。
「おはようって、お前。こんな朝っぱらから」
子供が出歩く時間として、あまり適切な時間とは言いがたい。しかも、きんと冷える朝の空気の中、Jは薄手のシャツとズボンだけという軽装だ。こんなところまで出て来ているのを、果たして土屋は知っているのか。そもそも、一体何の目的でこんなところをうろついているのか。頭の中をぐるぐると駆け巡る思いを必死に押し殺しながらあきれた声を発せば、相手はくすくすと楽しげに笑声をあげ、視線を前へと戻してしまった。
「まさか、リョウくんに会うとは思わなかった」
「俺もだ。お前に会うとは思わなかった」
なにを考えているのかさっぱりわからないJは、いつもとまとう雰囲気が少し違う。言葉ではっきりと表現はできないが、少なくとも、今までリョウの見たことのあるJとは、明らかに異なっていた。
それが常と違う時間帯に出会っているせいなのかそうでないのか。判断のつかなかったリョウは、とりあえず、風邪を引いてもらっては困ると、上着を脱いですぐ後ろまで歩み寄り、そっと肩にかけてやる。遠慮の文句には聞く耳を持たないと、断固とした態度を示せば、小さく礼の言葉が呟かれ、そっと位置を直す細い指先にリョウの手先が触れた。
布越しに触れた肩もその指先も、恐ろしいほどに冷え切っていた。
「お前、いつからここにいた?」
「……さあ? 時計、持ってないから」
そのまま隣に座り込みながらリョウが問えば、Jはちらりと視線を流しはしたものの、すぐにはずして膝の上で組んでいた己の手元へと向けてしまう。
十分や二十分前ではないだろう。時計を持っていないのは事実だったようだが、かなりの時間をこんなところで過ごしていたことを正しく推測し、リョウはため息を禁じえない。
「外に出るならせめて上着を着ろ。風邪でも引いたらどうする」
「そう、だね。今度からは気をつけるよ」
どうせ行動を規制するような忠告をしても、この友人はさらりと聞き流して聞かなかったふりをするに決まっている。長い付き合いではないが、相手の特性を見抜くことはできていたので、リョウはとにかく、有用であろう助言を口にしてみる。素直に認めたJは、首をめぐらせて「寒くない?」と問うてきた。
「俺は慣れているし、そもそも着ている枚数が違うだろ」
「そっか」
短い返答を最後に会話は途切れ、二人は徐々に昇りゆく朝日を黙って見やる。
夜空の名残が消え、星が光を奪われていく。
蒼空は紫から朱へと色を変え、やがて、青空へと変わるだろう。
今日も、良い天気になりそうだ。
「土屋博士は、知っているのか?」
「抜け出してきたから、たぶん、ご存知ないと思う」
視線を前に固定したままリョウが口を開けば、Jは素直に応じた。ゆるりと首を横に振り、うつむいたのが視界の隅に映る。
「でも、知っているかもしれない。あまり心配をかけるんじゃない」
「きっと知っていて、何も言わないでいてくださるだけだと思う。それはわかってるよ」
完全に姿を現した日が眩しくなって目をそむけるのに合わせ、リョウがJを見やりながら続ければ、Jはほのかに唇をゆがめながら上目遣いにリョウと視線を合わせてきた。
「でもね、どうしても、綺麗な朝日と広い空が見たかったんだ」
そのためには、研究所の窓からでは足りない。遮るもののない、高台に来る必要があったのだ。そう言って、Jは再びうつむいた。
リョウは、基本的に他人の内面に深く干渉するのを嫌う。それは自分が干渉されたくないことの裏返しであり、干渉することが相手にとってプラスにならないことが多いことを知っているからであった。
だから、リョウは余計なことは言わず、ただ相手が理由を言いたいのなら言い辛くないように。言いたくないのなら、言わなければという強迫観念に駆られないように。黙って視線をわずかに相手の目線からずらしてやる。
相手から注意を逸らしたわけでも、ひたすら相手に集中させているわけでもないと感じさせる、絶妙な間の取り方だった。
しばらくの沈黙の後、Jはゆっくりと口を開いた。
「誰かを犠牲にしないと得られなかった命は、罪なのかな」
静かな、抑揚のない声だった。
「ボクらは別に、彼女と引き換えに命を得る気などなかった」
ぐっとシャツの胸元を握り締め、Jは表情を歪める。
「彼を犠牲にしてまで、生き延びる気はなかった」
「罪かどうかは――」
焦点は決してJに合わせないまま、リョウは軽い挙動で立ち上がった。
「お前が決められることじゃないだろう」
光を乱反射してきらめく海面を、瞳を眇めて眺め、リョウはすっと背筋を伸ばす。
「己を身代わりにしてまでも、お前の命を思う存在があった。そのことを、嬉しいとは思わないのか?」
Jの言葉はあまりにも唐突で、全容を把握するには不確定な要素だらけだったが、リョウには憶えのあるものだった。うつむいたままの金の頭に目を向け、リョウはもどかしさと愛しさが込み上げるのを感じる。自分がかつて、多くの人の手を借りてなんとか乗り切った傷を、こいつは胸の奥に抱えている。そう直感した。
それ以上の言葉をJが発しそうにないことを見てとり、リョウは詰めていた息を細く長く吐き出すと、口を開いた。
「送る。博士のところに帰ろう」
その言葉にはじかれたように顔をあげたJは、いつになく困惑しているようだった。
どうやら先ほどの発言は、思いもかけず零れ落ちてしまったものだったのだろう。弁明でも考えているらしい思案顔には気づかないふりで、リョウは先導して山を下りはじめる。
ふもとの道路に出たところで、Jはもう一人で十分だからと、上着を脱いでリョウに差し出した。
「ありがとう」
「いや」
そのまま、なにごともなかったかのように踵を返したJが足を踏み出すよりも一瞬だけ早く、リョウは言葉を選び出す。
相手がひた隠そうとする内面に向かって言葉を投げかけるなど、己らしくない。自覚はあったが、迷いも躊躇もなかった。
「俺は、お前が生まれてきて、生きていてくれてよかったと思うぞ」
ひたと止まってしまったJの背中に、リョウは慈愛に満ちた微笑を添えて、この上なくやさしい声を送る。
「空を見たくなったら、いつでも来い。吐き出したいことがあるなら聞いてやる。何も言わないし、誰にも言わない。約束する」
一呼吸おいて、Jは振り向いた。
泣き出しそうな、縋るような、複雑な微笑と共に「ありがとう」と言うと、研究所へ向かって小走りに駆けていった。
表情に反して声が震えることなくしっかりしていたことには、その細い背中が見えなくなってから、ようやく気がついた。
fin.
寒く晴れた日。空が綺麗な日。天が遠い日。
あの日が見えそうで、思い出せそうで、もう二度と戻らないことを思い知らされる日。
誰かに許してもらいたかっただけなのに、そればかりか『祝辞』を送ってもらえた日。
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