■ 凍て雲
学校の帰り道を、烈が一人で歩くことは珍しい。
そしてそれ以上に、同じく学校帰りであろうJを見かけるのはもっと珍しかった。
「Jくーん!」
角を曲がったところで目についた金色の影に、烈は声を張り上げながら駆け出した。人通りは多くも少なくもなく、その声はきちんと相手の耳に届いたのだろう。ぴたりと足を止め、彼は首をめぐらせて駆け寄る烈を見つけると、にこりと笑った。
「こんにちは、烈くん」
ぱたぱたと走りよってきた自分よりも幾分目線の低い烈にやわらかな視線を向けて、制服姿のJはまず挨拶の言葉を舌に乗せる。
「珍しいね」
簡単に烈がそれに答え、二人は並んで歩き出した。
「烈くんは、学校の帰り?」
「うん。今日はウサギの当番の子がおやすみだったから」
代わりに世話をしていたら、こんな時間になってしまった。いつもならもう少し早めの時間に、豪やジュンと共に帰るのが常なのだと、少年は続ける。
「ウサギ?」
「そう。学校の裏の飼育小屋で飼っててね。白と茶色と黒と、あとはぶちのがいるんだ」
「へえ」
「当番で変わりばんこに世話をしているんだけど、すごく人懐っこくて、かわいいんだ」
両手を使って大きさを示しながら、ほんわかした表情で語られて、Jも思わず頬を緩める。
「で、Jくんは? いつもこの時間、もう帰ってるよね?」
ころりと話題を転換し、烈はJを覗き込むようにして見上げた。
烈や豪が学校から帰って研究所を訪ねれば、いつだってJはすでに土屋の手伝いをしている。実のところ、Jが学校に通っている証である制服を彼の私室以外で見たのは、これが初めてだった。
「ちょっと、寄り道をね」
すうっと息を吸い込んでから紡がれた言葉は、少しだけ翳りを帯びていた。やはり陰を刻んでいた表情がちらりと垣間見えたが、白く曇った息と共に、すべては一瞬のうちに宙に霧散していく。
もの問いたげにじっと見つめてくる烈の視線に応え、Jはやんわりと微笑む。大きな瞳は言葉以上に雄弁に気持ちを伝えてくる。その力強さは豪も烈もよく似ていて、変なところで二人は兄弟なんだな、としみじみ思い知らされる。
「教会に行ってきたんだ」
「学校の向こうにある?」
「うん、そう」
毎朝散歩がてら通っているんだ、と続けながら、Jは視線を烈からはずす。
「今朝はちょっと行けなかったから、代わりに」
笑い含みに告げる声は、どこか儚い空気を伴っていた。
そういえば、とJがソニックのことについての話題を提供したため、二人はそれから、他愛のない話に興じながら、残りの道を歩いた。
星馬家の方角と土屋研究所の方角を分断するT字路に差し掛かり、烈は足を止めてJを見上げた。
烈は、弟と自分の違いを正しく理解している。豪のようにいきなり相手の懐に飛び込んで、その胸の内に声をかけるのは決してできない。勘に頼った判断もできない。言葉を選び、表情を読み、相手の内心を察しながら遠回りに近づく方法しか思いつかない。
Jと友だちと呼べるような関係になってからは、まだ半年も経っていない。それでも、烈はJの本質がぼんやりと見えている気がしていた。
彼は、雲のような人だった。簡単に手が届くように見えて実は捉えどころがなく、ふわふわとした外側だけを見ていたら、その中身に時に度肝を抜かれる。白くてやわらかそうな雲は、恵みの雨も破壊の嵐もつれてくることを忘れてはいけない。そのJが、烈の知っていて知らない表情を浮かべている。
いつもと同じ、どこかはにかむような微笑なのに、その目は自分を通り越して、なにか別のものを見つめている。
「教会、毎日行ってるの?」
この話題を蒸し返すのを、彼があまり好まないだろうことは察していた。それでも、どうしても聞きたかった。
「そうだよ」
やさしい彼は、なんでもないように小首をかしげる。心の一番深いところから湧き上がるものを、こうして、いとも簡単に堰き止める。
「神さまに頼みたいことでも、あるの?」
束の間、Jは息を止めたようだった。蒼い瞳が見開かれ、烈は、それが今日の空の色に似ているとぼんやり思う。深く澄んだ、でもどこかくすんだ青。
「誰でも、祈りたいことの一つや二つ、あると思うけど?」
烈くんも、神頼みとかするでしょう、と。すぐに元に戻った表情で続けられ、烈はこくんと頷く。
「けど、一人でお祈りするより、一緒にしたほうが叶う気がしない? だから、僕も一緒にお祈りしようと思って」
この友人は、あまりにも謎に満ちた部分が多すぎる。そこには、彼だけの幸せではなく、彼だけの悲しみが詰まっている。そんな気がする。だから、彼の幸せが少しでも増えるように、自分にもできることがあればいいのに、と。烈はそう願う。
意外そうな表情に続け、Jはゆるりと双眸を細めた。くすぐったげな微笑を浮かべ、ありがとうと呟く。
「でも、大丈夫。これは、ボクが勝手に祈っていることだから」
やわらかながらも有無を言わさぬ口調に、烈は素直に引き下がる。これ以上、触れてはならないと思った。だが、別に地雷を踏んだわけではなかったらしい。楽しげな微笑に切り替えながら、Jは「それにね」とさらに言葉を発する。
「ボクは、君に会えた。豪くんや、みんなに博士。こんなに嬉しいことがたくさんあった。生まれてきて、生きていて良かったって、最近いつも思うんだよ」
だから、感謝の気持ちを伝えるために、博士に引き取ってもらってから通いはじめたんだよ。
「じゃあ、大丈夫だね?」
「うん。大丈夫だよ」
その声に、偽りは感じられなかった。だから、念押しするように烈がJの瞳の奥を覗き込めば、逸らさずまっすぐにあわせて、Jはしかと頷く。
後で研究所に行くからと烈が告げて、二人は別れた。
生まれてきてよかったと思うと、彼は言っていた。迷いなく進む細い背中を振り返り、それは僕もだよ、と烈は胸の内で呟く。
君に会えてよかったと思う。そのことを、神さまに感謝するのもいいと思う。
そして気がついた。
彼が生まれてきたことを祝福すべき日を、自分たちは知らない。
「どうやって聞くのが、一番さりげないかな?」
小さな雲をそっと唇から逃しながら、烈は思案する。
君が僕らと会えたことを喜んでくれるように、僕らは君といられることを喜んでいる。
すべてのきっかけを祝おう。
君が生まれて、僕らが生まれて。すべてはそこからはじまったのだから。
fin.
触れられそうで触れられない。掴めそうで掴めない。
彼はそういう人。
触れて欲しいと言いながらするりと身をかわし、伸ばした指先を最後に折ってしまう人。
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