■ 夕時雨
なんとなくいつものように集まって、なんとなくレースとメンテナンスを繰り返す。別に理由も目的もない、ただどこまでも中途半端な感覚だけで突き進む空間に、ひそやかに切り込む音がひとつ。
「雨か?」
「うげっ、マジ?」
壁に背を預けて立っていたリョウがふと窓の外に目線を流せば、聞きつけた豪がマシンから顔をあげ、窓に飛びつく。空は薄明るいのに、アスファルトはすでに黒々と濡れている。かなりの本降りだ。
「傘、持ってきてないのに」
「帰る頃にやんでなかったら、送るでげすよ?」
同様に烈が顔をあげて眉根を寄せれば、往復に運転手つき自家用車を使っている藤吉が軽やかに請け負ってみせる。実際に運転をする彦三も、控えていた部屋の隅で鷹揚に頷いていた。
「でも、空が明るいだすよ?」
「通り雨だろ」
兄の横で爪先立ちになりながら空をガラス越しに仰いでいた二郎丸が呟けば、リョウが静かに応じる。帰る頃にはきっと止むさと呟いたリョウは、そのまま、一人黙してただ外を見つめる友人へと視線を流す。
「どうかしたのか、J?」
「博士、傘を持っていかなかったなあ、と思って」
瞬きをひとつして、Jは視線を室内へと戻す。そして、自分を見つめる五対の瞳に気づき、困ったようにはにかんだ。
「ああ、そっか。もうそろそろお帰りになるよね」
「でも、だったら駅からタクシーを使ったりするんじゃないでげすか?」
「しないだすよ。博士、最近運動不足だって言ってただす」
土屋は、今朝から何か用事があるとかで出かけていた。所長である彼がいないから、今日は研究所は休みで、所員は誰もいない。近頃ちょっとたるみだしたおなか周りの肉が気になるらしい土屋は、近場に出かけるときは極力公共の交通機関を使っている。今日も今日とて、駅まで歩き、そこから電車で出かけているはずだった。
どんどん展開される会話に、Jはただ、黙ってにこにこと聞き入っている。
「だからね、もしもこのまま止まないようなら、お迎えに行ったほうがいいかなあって」
Jを研究所に留守番で残すとき、土屋は必ず、どこまで、何時から何時まで出かけるとの旨をきちんと告げていく。帰宅予定に告げられた時間が破られることはまずめったにないし、あったとしても、必ず事前に連絡がいれられる。だから、今日も告げられている時間から逆算すれば、ちょうど駅で土屋と落ち合うのも難しくはないはずだ。
「まあ、もう少し時間にゆとりがあるからね。ちょっと様子を見て、考えることにするよ」
勝手に自己完結したJは、目の前にあった椅子に腰を下ろし、作業の途中だったパソコンのモニターへと向き直った。
もう何戦かレースを繰り広げたところで、子供たちは帰宅の準備をはじめた。雨はすっかり小降りになり、すぐにも止みそうだった。
レーシングボックスに細々としたパーツやら工具やらを詰め込む友人たちを尻目に、Jはぼんやりと、窓越しに空を見やる。
「止んだか?」
詰め込み方が雑多ゆえにさっさと片付け終わった豪がそのとなりに並び立ち、蒼い瞳を覗き込む。
「まだ少し降ってる。でも、もう止むと思うよ」
「ふーん」
気のない返事をしながら豪もまた空を見上げ、そして、何かに気づいたようにJへと再び視線を動かした。
「何かあんのか?」
「え?」
きょとんとした表情を一拍おいてから豪に向け、Jは小首を傾げてみせる。
「なんかお前、寂しそうな顔してた」
室内に背を向ける格好の二人だが、他の面々の視線と注意が、その背中に集中していることは良くわかる。柳眉をわずかに潜め、Jはためらうような表情を見せてから、壁にかけてある質素なカレンダーへと目線を流す。
「いろいろ、思い出すことが多くてね」
「思い出す?」
つられるようにしてカレンダーを見やっても、そこには白地に黒と青と赤でただ数字が並べられているだけで、豪にはなんの感慨も沸かない。すぐに興味を失って目の前の友人に顔を向けなおし、豪は問いを重ねる。
「この時期の雨は、あまり好きじゃないんだ」
思い出したくなくてしまいこんだはずの諸々が、刺激を受けてうごめいている。定かではない、あいまいな記憶だ。それでも、そのあいまいさゆえに、心の奥底深くに刻まれた感覚は、あまりに鮮明なまま息づいている。
失うことしかできなかった自分。それを嘆き悲しむ心すら、内に押し込めなくてはならなかった時間。ただ震えて、膝を抱えていた夜。あの日、隣にいてくれたぬくもりは、失われてしまっていまはどこにあるのか。
喪失の記憶ではなく、それよりわずかにさかのぼった記憶ばかりが渦を巻く。すがりつくその背景には、青空よりもけぶるような雨やみぞれが多い。
――そういえば。
「もうすぐ、誕生日なんだっけ」
日付を追っていて思い出した事実に、Jは胸の奥のしこりを知る。独りになってから、これでまた、一年が重ねられる。
「お前、誕生日なのか!?」
つらつらと思考にふけっていたJは、はじかれたような明るい声に、はっと視線をめぐらせた。慌てて音源を見やり、溢れんばかりの笑顔と好奇心を湛えて自分を見つめる青い瞳を知る。
「いつ?」
「え、と?」
「だーかーら、お前の誕生日!」
予想の範疇になかった反応についていききれないJを尻目に、豪は振り返って兄たちに向かい声をかける。
「なあなあっ、パーティーしようぜ!」
「そうでげすな。せっかくの誕生日がもうすぐと聞いたら、黙ってはいられないでげすな」
「プレゼント、何か欲しいものあるだすか?」
「せっかくだからさ、ジュンちゃんとかも呼んで、みんなでお祝いしようよ」
楽しげに、当人をおいてけぼりにしながらさっさと計画を練る友人たちに、Jは丸く見開かれた目をしばたかせるだけだ。自分は、彼らをここまで楽しませるような何かを提供しただろうか。
「で、いつなんだ? お前の誕生日」
「……今月の、14日」
問うリョウの瞳は、いつもの鋭さはなりを潜め、ただどこまでもやさしい。やさしさの中にも決して誤魔化されはしないという強い意志を汲み取り、Jは圧されるようにして答えを返す。
「もうすぐじゃん! どうしてもっと早く言わねーんだよ!?」
聞きつけた豪に不満を漏らされ、Jの困惑はピークに達する。彼らが喜ぶ理由がわからない。不満を言う理由も見当たらない。きょとんとした表情のJに豪はまだ不満があったようだが、烈になにごとかを耳打ちされ、あっさり引き下がる。
「雨、止んだな」
唐突にリョウが話題を変え、その話はそこまでとなった。
じゃあそろそろ帰ろうか、と烈たちが腰を上げて荷物を手にすれば、部屋の入り口から、いつの間にか帰っていた土屋が顔を覗かせる。
「おや、みんな。いらっしゃい」
口々に挨拶を返しながら、子供たちは並行していとまの挨拶も口にする。
玄関まで見送りに出た土屋とJに元気よく別れを告げて、烈たちは夕闇の中、それぞれの家路にとつく。日が落ちて、急激に冷え込んでいる外気にJが肩を振るわせれば、気づいた土屋が「さあ、戻ろうか」とやさしく微笑む。
あまり好きではないはずの雨だったが、止んだあとの機嫌の悪さは、以前に比べてないに等しくなっている。ぼんやりと自身の内面の変化を観察しながら、Jは土屋に従い、するりと室内へ戻る。
それは、他愛もないとある日の夕方のこと。
fin.
包まれて包まれて、あたたかくて嬉しくて。
もうすぐ誕生日なんだ。
彼らが嬉しそうだったことが嬉しくて、それゆえに胸に刺さる罪悪感は、見て見ぬふりをすることにした。
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