■ 氷面鏡
土屋の心配性は、前々からはたで見ていれば明らかだったが、Jを引き取ってから、ますます拍車をかけているように思われる。
「もっとも、そのおかげでこっちは便利なんでげすけどね」
「そうだね。結局なんだかんだ言って、あれば便利に使っちゃうんだよね」
職業柄、丸一日研究所を空けることもあるからと、土屋はJに、連絡用の携帯を持たせている。自分から誰かに電話をしたりメールをしたりということにはほとんど縁のないJだが、持っていれば持っていたで、なにかと周囲と連絡をつけやすいのは事実だ。
だから、その日。学校が終わって帰る道すがら、珍しく電話着信を伝える振動に通話ボタンを押したJは、やはり珍しい相手と約束を取り交わし、こうして寄り道とあいなっている。
Jが藤吉からホイールに関する相談を受けたのがいったいなにをきっかけにしてだったのか、実は二人とも覚えてはいなかった。ただ、レーサーとしての視点と、専門知識と、普段から藤吉の走りに接していることと。あらゆる意味で、Jは藤吉にとって、ちょうどいいアドバイザーの位置に立っていた。Jからしてもそれは同様で、土屋研究所の技術だけではなく、己のバックにあるミクニという異色の技術を駆使している藤吉のマシンには、少なからず純粋な、技術屋としての興味があった。
藤吉は知識とそれに基づいたアドバイスを欲していたし、Jはその、藤吉の必要とするものを持っていた。いつの間にかJは藤吉のためのホイール設計を請け負っており、本人の希望に基づいた、暫定的な設計図を渡したのが先週のこと。その試作品ができたというから、見せてもらうことになったのだ。
「で、これがその試作品でげす」
「触ってみていい?」
「もちろんでげす」
学校帰りのJが電話に呼ばれてぶらりと三国邸を訪れれば、誰に対しても腰の低い彦佐に丁重に迎えられ、藤吉の私室で実際に形を得たホイールとの対面である。大袈裟なぐらいのベルベット地にちょこんと鎮座しているそれを手に取り、Jはためつすがめつその出来を設計者の視点から確かめる。
しばらく黙してただ眺めていた状態からふと目を上げ、Jは小さく息をつきながら視線を藤吉へと向けた。
「どうでげす? 出来は」
「すごい、さすがだね。こっちの言いたいことを正確に汲んでくれてる」
待ち受けていたように、藤吉が口を開く。それに素直に答えながら、Jはホイールをそっと元の布地の上に戻す。
「もう走らせてみた?」
「まだでげすよ。わてもさっき受け取ったばかりでげすから」
設計を手がけた人間としては気になるだろうから、まずJに見せようと思ったのだと告げた藤吉に、Jは嬉しそうに目を細め「ありがとう」と呟いた。
用件はそれだけだったのだが、せっかく来たのだからと、お茶を一緒にすることになった。他愛のない話に興じながら、丁寧に淹れられた香り高い紅茶に双眸を緩め、しっとりと落ち着いた甘さのクッキーをつまむ。優雅な時間がゆるりと流れる。
他の面々とならこうはいかないだろうと、藤吉はカップからのぼる湯気の向こう、睫毛をわずかに伏せながら紅茶を口に運ぶ友人を、さりげなく見やる。
帝王学とまではいかないものの、藤吉は一大財閥の跡取りとして、幼少時から普通の子供とは一線を画する教育を施されてきた。それは物事の捉え方だったり、人やなりの見極め方だったり、多くの人間の上に立ち、使うという立場に必要不可欠なものを身につけるためのものだ。その教育の成果を、彼自身が疑ったことはない。
実際、友人を含め、出会う相手に対し「こういう人間だろう」という判断を内心で下せば、それが裏切られることは滅多にない。烈の冷静さに隠された情熱も、豪の適当かと思われる中に潜むバランス感覚も、見逃しはしなかった。なのに、目の前の彼は読めない。空間を共有する相手に合わせ、それぞれの状況ごとに違った表情をみせる。その向こうにある彼の一番むき出しの部分は、どうしても見えてこない。
「どうしたの? ボクの顔に何かついてる?」
「いや、なんでもないでげすよ。綺麗な顔立ちだなあ、と思っただけでげす」
「ふうん? まあいいよ。誤魔化されてあげる」
探るように覗き込む蒼の視線にさらりと混ぜ返せば、くすくすと笑い含みに「今日はいいもの見せてもらえたしね」と、楽しげな声音が返る。単語の裏に思惑を滲ませた、実に単純な癖にどこまでも複雑に出来る言葉遊び。少なくとも藤吉は、Jがこの手の言葉遊びを他の友人たちとするところは見たことがない。それは藤吉も同じだ。
やわらかさの裏のさりげない毒。駆け引きのスリルを楽しむには、他の面々はあまりに純粋すぎる。
洗練された無駄のない所作で、Jの細い指がクッキーをつまむ。知る限りの彼の生い立ちからはどこで身につけたのかまったく想像のつかない優雅さに意外を感じる端から、藤吉はふと思い出してすぐ脇に控えていた彦佐を呼ぶ。
「アレはすぐに出せる所にあるでげすか?」
「ああ、大丈夫でございますですよ。ハイ」
抽象的な単語にほんの少しだけ目を見開いた有能な傍仕えの彼は、それ以上の指示はなくともすぐに藤吉の意図を諒解して、一礼を残し、部屋を後にする。
「なに? びっくり箱でも出てくるの?」
「その通りでげすよ」
からかうようなJの問いへの答えは、小さな植物の種が数粒だった。
ちょうど紅茶もクッキーも底をついた頃、そろそろ帰ろうというJに、やはり小さなビニール袋に詰めたそれを彦佐が持ってきたのだ。
「これは?」
「びっくり箱でげす」
きょとんと首を傾げるJにいたずらっぽく微笑み、藤吉はホイールの設計を手伝ってくれた礼だと続ける。
「わては植物にはあまり興味がないでげすしね。Jくん、草木の世話が好きでげしょう?」
「え……?」
なぜわかったのか。自分から言った覚えはない。
雄弁に語る大きな瞳に、藤吉は別に隠し立てをする必要もなしと種を明かす。
「研究所の裏庭が綺麗になっていたでげす。あれは、Jくんがきてからでげすからね」
「ああ、なるほど」
鋭いね、と素直に認め、Jは手の中の袋をちょこんと掲げた。
「ありがとう。育ててみるよ。ちなみに、種をまく時季は外したくないから、それだけヒントをもらえる?」
「確か、二月から三月でげす」
「うん。それじゃあ、楽しみに育ててみるね」
もう一度礼の言葉を重ねてから、Jは種を鞄にしまい、三国邸に背中を向けて夕闇へと足を踏み出す。送ろうという申し出は、とっくに断られた後だ。
細い背中を門から見送って、藤吉は胸の内に溜まっていた息を吐き出す。
意図的になのかそうでないのかはわからない。ただ、彼はその身を鏡としてあり続ける。周りに合わせて光を屈折させ、頑ななまでにその向こうを覗かせない。藤吉に読み取れたJの内面は、それが限界だった。
嫌味のつもりはない。ただ、自分たちと彼の間にある融けない氷の壁を突き破りたかった。だから、問いかけたかったのだ。その本心はどこにあるのかと。
さあ、君はこの謎かけにどう答える。
送ったのは不可能の代名詞。いまは試作段階の蒼いバラ。咲いた花はきっと、君によく似合うだろう。
その蒼さは不可能ゆえに、空の青とも海の蒼とも。
fin.
覗きこんでも底が見えない。あなたが見えない。
見せまいとするそれは、弱さですか、やさしさですか、残酷さですか。
私は私を反射するあなたの偽りの笑みではなく、ただ、あなたに会いたいだけなのです。
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