■ カミング・アウト
 越えられない壁があった。
 それは別に、高さがあるわけでもなく、特殊な仕掛けがしてあるわけでもなく、ただ純粋に目の前に横たわっているだけの壁。ともすれば、一本のラインに過ぎなかったのかもしれない。そんなことは関係ない。とにかく、越えられない壁だったのだ。
 あるいは、越えてはいけないと言う強迫観念に駆られていたのかもしれない。
 ただひたすらに、変化が怖かった。
 何の変化もない世界は、それは退屈で、時にこの上ない変化として己の命を絶ってしまいたいという、薄暗い衝動に駆られたこともあった。漫然と過ぎ行く時間と世界。そのすべてから切り離された己に恐怖して、何もかもを投げ出してしまいたいと思ったこともあった。
 でも、そんな思いを実行に移せるほど自分は強い意志を持ってもおらず、やはりただ漫然と流れる世界に身をゆだね、たとえば水の底から水流と風と月と太陽とを見上げるように。動き出さずに、沈んでいた。


 呼ばれたと、そう感じたとき。いつもの夢を見ている気がした。
 水の底から仰ぐ空は、光を乱反射していてそれは幻想的で。水の底に見える砂は、光の紋様を映していてそれは美しくて。とても、現実だとは思えなかった。
 知らない変化が襲ってくる。その瞬間はいつだって夢の中だけ。境界線を踏み越える力のない自分にとって、変化はあくまで外の世界の出来事であり、この身に降りかかることではない。
 一度、二度、三度。
 二つの声が、水の向こうから響いてくる。
 全身を包む水はやさしくそして残酷に、世界から自分を切り離す。その声だって、別に耳を澄まさなければ聞こえない。だから、聞かなかったことにしてしまえば、すべての変化はやはり、境界線の向こう側だけを通り過ぎるはずだった。何も変わらないはずで、恐怖を覚えることもないはずだった。


 水底について、視界をよぎったいくつもの人影に、くだらないと思った。そして、その思いが向いているのが、彼らに対してでなくこんなところでぼんやりとしている己に対してだと気づいたとき。
 壁が、崩れた。



 全身を包む水は冷たいのに、頬を伝う涙は熱かった。呼吸の許されない空間において、聞こえるはずのない己の嗚咽が聞こえた。あってはならない望みが溢れ出し、ないはずだった心が疼く。
 何よりも恐ろしいと、その思いはまるで変わらないのに、変化を促す声に応える自らの動きを知る。
 水を蹴り、風を知り。息を吸い込んで目を上げた先には、不可逆の変化たちが笑っている。手を差し伸べ、この身を壁の向こうへといざなう存在。


 とどめる声を聞いた。
 促す声を聞いた。
 そして、選択の時は恐怖と共に。


 越えられない壁があった。
 抜け出せない籠があった。
 知ってはいけない喜びと、逃げてはいけない苦痛があった。
 幸いを知ることがなければ不幸を思うこともなく、光を知ることがなければ闇を思うこともなかった。
 そしてこの身は、恐怖の化身である変化の只中へ。



 連れ出された壁の向こうでは、澱むことのない風が吹いていた。
 世界は明と暗とを孕み、停滞することを知らずに常に揺らいで流れている。それは変化の塊だった。
 気づけば己が身を呑みこんでいたその世界は、有り余るエネルギーをもってやはり変化を迫る。硬く、きっと誰にも、己にすら打ち砕くことはできないだろうと思っていた心に纏う鎧にはひびが入り、頬の筋肉は軋みをあげて動きはじめる。
 この手を引いてくれた手の持ち主たちは、自分には想像も及ばないほど広い世界を持っていて、そしてさらに新しい世界へと、恐れを知ることなどないような勢いで突き進んでいく。傷つくことを恐れず、打ち倒されてもまた立ち上がり、そして隣に立つ友を仲間を、支える強さを持っている。絶対的な新鮮さとこの上ない驚愕をもって見つめる己を振り返り、共に進もうと、自分たちの隣に立てばいいと、何度でも手を差し伸べてくれる。
 すぐ傍に立って見守ってくれる大人の視線に含まれるのは、厳しさよりも優しさであり、素っ気無さよりも不器用な愛情。受け取ってもいいのかと躊躇すれば悲しげに微笑まれてしまうから、決して見逃すことのないようにと、取りこぼすことのないようにと、それまでではまるで考えられなかったことに気を配る己に気づき、唖然とする。
 壁の向こうにあったのは、要するに知らない世界。
 そこはあまりに居心地が良すぎてやさしすぎて、それゆえに悲鳴をあげる心は、誰に見せるわけにもいかなかった。


 言ってはいけないことだと知っている。それは、あまりに無責任な発言だから。
 でも時に、声を大にして叫びたくなる。
 知らなければよかったと。逃げてしまえばよかったと。
 こんな世界は自分には似つかわしくない。
 光は眩しすぎてこの身は焼けてしまいそうで、風はやわらかすぎてこの身は散り散りに砕けてしまいそうだ。
 どうしても、ここにはいられないのだと実感せざるを得ない。
 いざなってくれたのに、見せてくれたのに、支えてくれるのに。
 駆り立てられるのは焦りと後悔。
 自分は彼らの隣に立つことを赦されるはずなどないのに、なにを勘違いしていたのだろうか。
 それでも、どうしても叶わない。いまも、あの時も。彼らのやさしく暖かい手から、手を放すことができないのだ。
 だから思う。そして思う。
 言ってはいけないことであり、思うのはあまりに無責任だけれども、どうか、すべてが手遅れになる前に彼らの前から立ち去るために。


 差し伸べられた君たちの手を振り払う、悲しい勇気を持っていればよかったと。
fin.
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 手に入れることが怖いのだと、言えばきっと彼らは心配そうな顔をして、力強く笑い飛ばすだろう。
 手に入れることが失うことと同義である自分と、手に入れることと失うことが反義である彼らと。
 決して交わらない世界を持って隣に立つことがかほどに残酷なことだとは、いままで知る由もなかった。

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