■ 君はともだち
ぼそぼそと、誰かと話し合うような音声が壁の向こうから響いてくる。そこは烈にとってあまり馴染みのない部屋であり、中にいるだろう探し人を思い、それゆえに深く納得する。どうりで見当たらないわけだ、と。
「兄貴? Jいた?」
廊下の向こうから、弟の声と足音が響いてくる。頷きながら軽く手招き、烈は眼前のドアを示した。
「たぶんここ。声がする」
「声? だってあいつ、一人だろ?」
豪の指摘に、烈は少しだけ眉根を寄せる。ふたりはいま、今日は出張で夜まで土屋が帰らないという情報を聞き付け、Jを夕食に誘いにきているのだ。一人の食事は淋しいし味気ないし、二人の母親も快く承諾してくれた。好き嫌いのない彼が一緒の食事だと、母にこれみよがしにピーマンやらニンジンやらを食べるよう攻撃をかけられるが、それを差し引いても、友人との食事は楽しい。
「よくわかんないけど、なんか仕事してるのかもな」
Jの知識レベルは、優等生である烈の遥か上を行く。それは、誰に示されたわけでなく、彼といれば自然と伝わってくることだ。自分が見てもまったくわけのわからない、複雑怪奇な書類やプログラムをいじる姿は、あまりに馴染みすぎて疑問すら覚えないが、一般という一言からは大きく逸脱しているのだと、烈は正しく認識している。その上で、彼を友人として自慢に思い、素直に尊敬している。
今日も今日とて、彼は土屋の手伝いをしているのかもしれない。ならば邪魔をすることのないようにと、早々とドアに手をかけていた豪を押しとどめ、烈はそっとノックを送る。
「はい?」
「こんにちは」
「よっ、J!」
「烈くん、豪くん!」
語尾を跳ね上げながらの返答に、ドアからふたりが顔をのぞかせる。部屋の中では、驚きに目を見開いたJがパソコンチェアから身を乗り出していた。
「どうしたの、ふたりとも?」
博士はいないけど、コースルームの鍵ならあるよ、と、すぐさまいつもの笑顔に戻ったJは続ける。
「違う違う、今日はマシンを走らせに来たんじゃないんだ」
たしかに自分達の来訪は、すなわちレースを示すことが多い。それは否定しないが、違う用でも訪れるのだと、烈はゆるりと首を横振る。
「夕飯、オムライスだって言ってたぜ!」
「夕食?」
たったかとJの脇に駆け寄り、ディスプレイを覗き込みはしたが理解不能のためさっさと視線を友人に固定した豪がわくわくと告げる。が、Jには脈絡がまったく読めない。はにかむような笑みとさまよう視線は、説明を求めて烈のもとへ。
「豪、途中を省くな。Jくん困ってるだろ?」
「えー? だって母ちゃん、そう言ってたぜ?」
「だから、その手前の説明がまだだろ?」
「あ、そっか」
あははー、と軽く笑っている豪に、烈は本当にわかっているのかと、底知れぬ疑念を覚えてこめかみが痛くなる。豪のこういう、後先をあまり考えず突っ走る一面は、時に羨ましく時に不安になる。気取らぬ真っすぐさに。底無しの能天気さに。もっとも、どちらかといえば後者の比率が高く、その将来を憂えたくなるのは血が繋がっているからだと言い聞かせ、胃痛と頭痛を宥めるのが烈の常だ。
「で、烈くん。どうしたの?」
兄弟間の協議が一段落したところを見計らい、Jはより的確な説明を求められる相手へと改めて話を振る。
「あのさ、今日、博士帰りが遅いって言ってたよね? だから、夕食を一緒にどうかな、って」
「母ちゃんが、Jが来てくれるんなら豪華にするって言ってたんだ! な、来るだろ?」
「ありがたい話だけど、でも、ご迷惑じゃ……」
「ないない、そんなことぜってーない!」
「みんなで食べるほうがおいしいと思うんだ。もしJくんさえ良ければ、どうかな?」
「母ちゃんのオムライス、おいしいんだぜ!」
食べたことがないだろう、と、豪は胸を張りながら困ったようにはにかむJを促す。
「母さんも是非、って言ってたし、実はさ、もうJくん来るつもりで買い物してたから」
「じゃあ、お言葉に甘えることにするよ」
「やりいっ!」
ありがとう、と微笑むJの横では、ご馳走確定だと豪が飛び跳ねている。欲望が丸出しのその姿にため息を吐き、烈は、絡み付く豪にやさしく笑みを浮かべて応じている友人を見やる。
「兄貴、Jが土産に、メロン持ってきてくれるって!」
ほんの少しの間意識をさまよわせていただけなのに、話は思わぬ方向に転がっていたようだ。嬉々とした豪の声の告げる内容をワンテンポ遅れて理解した烈は、慌ててJを見やる。
「え? いいよ、そんな。気を遣わないで」
「ううん。いくつかあるし、ボクも博士も食べきれないねって困っていたんだ」
ますます元気に跳ね回る豪はおいておき、烈はかえって気を遣わせてしまったかと眉根を寄せる。だが、Jはやんわりと微笑むばかり。手伝ってくれると嬉しいとまで言われては、断る理由が烈には見当たらない。
「今日、もしみんなが来たら、一緒におやつにしなさいって、博士も言ってたし」
作業自体は一段落していたらしい。急かす豪に応えてパソコンの電源を落とし、部屋を後にしながらJは続ける。
「烈くんたちと食べたほうが、きっとおいしいから」
一人よりも、誰かと一緒のほうがいい。
レースも、食事も、なんだってそうだ。
一緒なら、悲しいことや辛いことは分け合えるし、嬉しいことや楽しいことは何倍にも膨れ上がる。それを知らなかったJに示したのは他ならぬ烈と豪であり、もっと知ってほしいと、二人をはじめとした子供たちは願っている。もっと知りたいと、Jから手を差し伸べてくれるなら、なおのこと。
「うん。そうだね、きっとすごくおいしいよ」
先に自分の示した提案にのってくれたJが嬉しくて、烈は笑みを添えて頷きを返す。
「兄貴もJも、早くしろよ!」
「豪くん、ちょっと支度するから待ってて」
既に廊下の向こうに達している豪は不満げだったが続けてJの放ったメロンの一語に、しまったという表情で慌てて取って返してくる。あまりにわかりやすいその行動に、烈とJは顔を見合わせて笑いあう。
「あー、もう。早くしろよー」
「うん。急いで準備しちゃうね。だから、一緒に行こう」
「あったりまえだろ!」
じゃれあうようにしてまとわりつく豪をさらりとかわしながら、Jは廊下の奥へと歩を進めていく。その後ろ姿を見守りながらやはり足を動かし、烈は口端のつりあがる感覚に、胸中を占める喜びを知る。
彼が、自分たちの日常に溶け込んでくる。
互いの間の境界線を取り払って、近づいていける。
見えなかった彼を見つけて、彼から見えていなかったろう自分たちを見つけてもらえる。
たとえばこうして夕食を一緒に食べることができて、きっとそのあとはおいしいメロンを楽しんで、ついでにみんなでゲームでもしよう。それは他愛ない烈と豪の日常で、そしてJが加わったことにより、さらに幸せを増した日常。
そのことが、ただひたすらに嬉しかった。
fin.
当たり前の関係を、当たり前に過ごしていく。
その希少性を自覚して、当たり前の時間を必死になって守っていく。保っていく。
だって、君と僕は友達だから。そう言えるようになったことが、この上ない彼の幸福。
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