■ カメラ
昼を挟んでのぽっかりと空いた時間だとか、夕方の半端な時間だとか。とにかく、ちょこちょことできた小さな時間の狭間を、Jは研究所内の探検にあてることにしている。
大神研究所もそれなりに広かったが、いかんせん行動区域が限定されていたため、最低限の部屋を知っておけばよかった。それに、所内を探検などというのんきなことは、そもそも許されていなかった。
いつでもぴりぴりと張り詰めて、ともすればふとした弾みで暴発しまいそうな時空間。しかしここには、それとは真逆の、穏やかでのんびりとした時間と空間が存在している。
土屋はJに、所内のつくりを丁寧に説明しようとはしなかった。ただ最低限の知識として、寝起きのための部屋と、食堂、洗面所、土屋の部屋を中心とした、研究所奥の住居スペース。それに書斎とコースルーム。あとは自分の足と目で覚えるといいよと、ただ笑っていた。
まず覚えたのは、資料室とミーティングルームの場所だった。そこから次々に手伝う上で必要不可欠の場所を頭に叩き込み、あとは別に、わからなくてもかまわないと思っていた。
必要最低限以上のことにまるで興味を示さないJを、土屋は複雑な笑みで眺めていた。何も言葉は添えず、ふと気づいたJが振り向けば、ただ穏やかに微笑むだけ。そんな土屋の真意に、最近ようやく近づいてきたのではないかとJは思っている。
彼は何も言わない。何も強いない。でも、彼はいろいろなことを望んでいる。すべては彼のためではなく、Jのために。
土屋は一生懸命、そして必死なほどさりげなさを求めながら、Jを知ろうとする。踏み込みすぎることのないままで知ることができるのは、ごく僅かなことだろう。それでも、土屋は僅かな収穫にも過ぎるほどの喜色をみせる。
それを眺めながら、いつしかJは、自分もまた土屋を知りたいと思っていることを知った。彼を知ったその向こうに、彼に自分が率先して自分のことを教えられるかどうかが潜んでいることを察した。
そして手始めに、彼の空気が滲むこの場所を把握してみたいと、ある日唐突に、そう思ったのだ。
所内の研究施設はあらかた探検が終わった。今日はどこにしようかと考えてぶらぶらと廊下を歩き、ランダムに、用途を知らない部屋に踏み込む。
どうやらそこは、ちょっとした物置になっているようだった。
ブラインドの隙間から射す光は、床に縞模様を描くと同時に部屋中に舞っているほこりに乱反射して、空中にその道筋を残す。古い書物やら道具やらが置いてある場所に特有の、少しかび臭いようなにおいを感じ、Jはほんの少しだけ瞳の色を和ませた。部屋に立ち入ると同時に全身を取り巻いたその気配に、なんとなく、無条件の懐かしさを感じたのだ。
手近な戸棚から取り出した本は古い科学雑誌で、ならばこの部屋の中身を物色しても別に問題はなかろうと判じる。やけに古びた本を見つけて発行年月を見てみれば自分よりも遥かに年上だったり、なぜか混じっていた週刊誌に載っている人物写真に、時代の変遷を感じたり。研究所の中でも、研究そのものよりはそれに携わっていた人々のそれ以外の息吹を垣間見ているようで、新鮮な衝動が沸き起こるのを知る。
そのまま適当に戸棚を覗き込んでは中身を取り出して歩いていたJは、立て付けの悪い引き出しの中から、一台のカメラを発掘した。
それなりに古い品で、大きさの割りに重たくて、見るからにごつごつしていてデザインも洗練されていない。時代がかった、しかしカメラというものを知る誰もが一目で理解できるだろうわかりやすいその姿を実際に目の当たりにしたことは思わぬ愉悦をJにもたらした。ここまでいかにもなカメラは、今日では逆に実際に手にとることが難しいことが多い。
しかし、その珍しい典型を手に出来た面白みは、同時に沸き起こる疑問によって相殺される。いったい誰が、どんな理由でこんなものをこんな場所に放置したのか。カメラには詳しくなくとも、ざっと見たところ故障している箇所はないようである。捨てるにはあまりにもったいない。ほこりをかぶっているものの、綺麗な状態で保たれているからにはまだ使えるだろうに。
かしげていた首を元に戻すと、しかし、Jは頭の片隅にわだかまるもやをあっさりと振り切った。なぜこんなものが、という疑問は、なるべく抱かないことにしたからだ。
研究所内には案外、存在意義を疑いたくなるようなものがごろごろ置いてあって、しかしそれを誰も気に留めてなどいない。誰もが気にせず通り過ぎている品に、わざわざ理由を求めることは、お互いに疲弊を招くだけだと、最近知った。そして同時に、視点を少しずらして原因ではなくそれの招いた結果を求めることのほうが面白いことも知ったのだ。
置いてあったところでそこには特に何の意義もなくとも、思い出やその他、関わった人々の心の欠片が詰まっている。それをひとつずつ拾って歩くことで、Jの知らない土屋をいろいろな角度から知ることが出来るのだと、そう悟ったのはごく最近のことである。
思いもかけず降って沸いた収穫を手に、これにはどんな思いが込められているのかと思考を巡らすのもまた、案外楽しい作業だった。書斎にいる土屋の許まで、いろいろと憶測を重ねつつ持ち出して問うてみたら、「写真に凝ったことがあってね」と、あいまいに目を逸らしつつの返答が返ってきた。
どこか照れくさそうな笑顔から、それがきっと、かつて挫折した趣味の類なのだろうと察するのはたやすい。
「そうだ、君にあげよう」
懐かしそうに持ち上げたり、覗き込んだりを繰り返していた土屋は、ふと思い立った様子でそう言った。
まだ使えるし、フィルムも残っているし。好きなものを写して、それを通じて自分の内面を見つめるきっかけにしてごらんと、彼はやさしく微笑む。
この小さな古ぼけた機械をきっかけに、自分がもう少し成長することができればいいとJは思う。
レトロな外見のカメラは烈や豪との会話のきっかけにもなるだろうし、珍しがって、面白がってくれるだろう。J自身、機械いじりは好きな部類だ。扱い方ひとつでいかにも機嫌を良くも悪くもしてくれそうな相手に、闘争心というか、好奇心が湧いているのは自覚がある。
この感覚はきっと、わくわくしているとか、そういうものなのだろう。
今日はもういいよ、と言われたので、譲り受けたそれに礼を述べて、部屋に持ち帰ってさっそく手入れに着手する。
自分の目で見るのとファインダーを通すのとではきっと、その先に同じでも違う光景が展開されるだろう。見えなかったものが見えてくるだろうし、当たり前のものが珍しく見えるはず。そうやっていままでと違うことを一つ一つ知っていくのは純粋に楽しいことだし、何より土屋がそれで喜んでくれるのだから、Jにとってはいずれにせよかけがえのない収穫だ。
好きに使えばいいと言われても、勘だけで使っては壊してしまいそうで少し怖かった。だから、まずは手入れをして綺麗な状態に戻して、それから土屋に使い方を聞くことにしようとJは胸中で呟く。
彼から与えられた義務以外の理由で彼の元を訪れる。どんな理由をつけても、その行動にはまだ不安と躊躇いと違和感とが残ってしまう。それではいけないと思うものの、放置しておけばいつまでも直らないだろう感覚の方向を修正していくために、これはちょうどいい実践のチャンスだとも思う。
彼から歩み寄ってもらうだけではなくて、自分から彼に歩み寄るために。
さあ、もう一歩。前へ進むんだ。
fin.
探し当てたのはアンティークのかけら。
過ぎ行き、積もりゆくものはそのままにしておけばいいのだと。
その存在領域のすべてを巻き込んで、あなたは私に示してくれる。
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