■ 松葉杖
 控えめなノックに続いてそっと開かれた扉に、最も入り口に近かった所員が振り返る。それはいつもの習慣だ。
 既に耳に馴染んだ遠慮がちなノックの主は、扉が開かれる前からわかっている。しかし、今日に限ってそれは予期できぬ音だったため、習慣は少しだけ色合いを変える。結果として、扉を叩いたその手の持ち主へ、怪訝そうな表情と心配そうな眼差しが、室内にいた人間すべてから注がれることとなった。
 決して少なくない視線に一気に晒される形になった扉の向こうの人物は、いったん驚いたように双眸を見開いたものの、すぐさま気を取り直してちょこんと小首を傾げてみせる。
「失礼します。土屋博士はいらっしゃいますか?」
 そして、いつもの科白をいつものごとく、さらりとのたまった。


 扉の真正面、部屋の最奥に鎮座する所長デスクは空だったが、椅子の主は室内にいたので、返事を待つことなくJはぱっと表情をほころばせる。しかし、対する土屋の表情は苦味を増すばかりだ。
「起きても大丈夫なのかい?」
「気分はすっかり良くなりました。ご心配おかけしてすみません」
「でも、今日ぐらいはおとなしく寝ているように、と言っただろう?」
 そんなんだからすぐにぶり返すんだよ、と。しみじみ溜め息をつく土屋は、しかし、どこか諦めの念が滲む声音を繕いきれない。Jが己の体調に関してかなり無頓着なのは、もはや直しようのない性癖の内だという認識が出来上がってしまっているのだ。悲しいことに。
 困ったように溜め息をもうひとつついた土屋に、Jはやはり困ったように淡く微苦笑を浮かべ、丁寧に扉を閉めてから室内に立ち入る。
「博士のおっしゃるとおりだよ。無理や油断は、病気のもとだからね」
「そうそう、あんまり甘く見ないほうがいいんだよ」
 今日は体調不良で学校を休んでいると、始業の時点で伝えられている所員たちもまた、心配そうに見舞いの文句を投げかける。ひとつひとつにはにかんで応じながら、それでもJは譲らない。妙なところで頑固というか意固地というか、案外芯のしっかりした子供は、誤りであると認識しない限り、こうと決めた己の信念を曲げたりしない。
「家に郵便の方が配達にいらしたんです。これを届けたら、おとなしくまた寝ていますから」
 勘弁してもらえないかと、眉尻を下げながらJはひらりと手の中の封書を示してみせた。


 研究所には大きく分けて二箇所の入り口がある。ひとつは所員たちから烈や豪といった子供たちまで、ほとんどの人間が利用する研究所の正式な入り口。もうひとつは、主に土屋とJが利用する居住区画の入り口だ。研究所宛に届く手紙やら荷物やらは正面の入り口に届くのだが、土屋個人宛になっている書類やらは、居住区画の方へ届けられることがあるのだ。
 渡された封筒を裏返した土屋は、差出人名を確認して、すぐさま納得の表情を浮かべる。そこには見知った研究者の名前が記されており、個人的にも親交の深い彼は、書類を土屋個人宛に送ってくる常連だ。
「中身はわかりませんが、急ぎの書類だったら大変ですから」
「ありがとう」
 郵便配達のバイクの音がしたから、念のため確認して持ってきたのだ。
 機転の利く子供に素直に感心し、土屋は礼を述べた。Jに指摘されるまでもなく、今日付けで届くはずの書類を、実は朝から心待ちにしているところだったのだ。一言断ってから封を切ってみれば、案の定、待ちわびていた数枚の書面が顔を覗かせる。
「大当たりだよ。助かった」
 不安そうな反面、興味深そうに。手元を覗き込む蒼い双眸に、土屋はへにゃりと笑いかけた。


 起きてきたならついでにと、いつのまにか部屋を出ていた若い所員が入り口に顔を覗かせ、手近な椅子に座るようJに勧める。器用に肘と肩で扉を開けて入ってきた彼は、茶碗の乗ったトレーを掲げていた。
 人数分そろえられた緑茶に全員で一服することを決め、気を利かせてくれた子供には、ミーティングルームにひとつだけ残っていた温泉饅頭が追加される。
「Jくんがいなかったころ、どうやってこういう細かいところを何とかしていたのか、全然思い出せないよ」
 軽やかに笑いながら茶を啜り、そう切り出した若い所員に、室内には苦笑のさざなみが広がる。パソコンデスクの片隅に茶碗を置き、温泉饅頭のフィルムを几帳面にはがしていたJは、目線を上げて照れたようにはにかむ。
「しょっちゅうバタバタしていたね。あれがない、これが届いていない! って」
「まったく、情けない話だな」
「本当に助かっているよ。いつもありがとう」
 苦笑しながらも楽しそうに、失敗談やら武勇伝にも等しい危機一髪の話やらを繰り広げ、にぎやかに所員たちはJを褒めちぎる。
 懐かしそうに目を細めていた土屋は、話に一通り落ちがつき、そろそろ茶が尽きる頃合を見計らって笑い含みに口を開く。
「しかし、君たち。Jくんにばかり寄りかかっていないで、もう少し何とかしないとね」
「それはたしかにそうなんですけど、でも、こう、絶妙なところでJくんがフォローに入ってくれるから、なかなか改善されないんですよ」
「……子供に助けられてばっかりでは、大人として面目丸つぶれじゃないか」
 妙に開き直った若い所員の声に、土屋は大げさに溜め息をついて頭を抱えてみせる。沸き起こった笑いの渦の中、照れくさそうに肩をすくめ、温泉饅頭の最後の一口を飲み込んで緑茶を飲み干し。Jは置かれていたトレーを取り上げ、空いた茶碗の回収を申し出た。
fin.
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 支えてささえて、支えられて。
 倒れたりなんかしないから、いくらでも寄りかかってください。
 だって、ボクは十二分に、あなたたちに支えてもらっているんですから。

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