■ 小さい秋
廊下できょろきょろと辺りを見回している小さな影に、Jは唇の両端を吊り上げた。
「どうしたの、二郎丸くん?」
探しものなら手伝うし、探し人ならきっと役に立てるだろう。両手で抱え込んでいた書類の束を左の小脇に移動させ、そっと声をかけると、影は大げさなくらいの勢いで振り返ってきた。
元々、その仕草のひとつひとつに小動物的な愛らしさを感じさせてくれる最年少の仲間のことが、Jはとても好きだった。チームメイトに対する感触とは別の、あたたかくてやわらかい感情。年の離れた弟妹がいたらきっとこうなのだろうな、と、勝手に疑似体験をさせてもらっているのは内緒の話。大好きな兄に追いつきたくて、いつでも精一杯に背伸びをしている次郎丸に、かわいいだの何だのといった類の言葉は厳禁だ。
「見つけただす!」
振り返り、まじまじとJを見つめ。得意満面といった笑みを浮かべて、二郎丸は高らかに宣言した。
本人はとても嫌がるが、こういった脈絡の読めない発言を主体とした会話の始め方は、豪と二郎丸の類似点のひとつだとJは思う。まばたきをふたつ。それから小首を傾げて、とりあえずは現状の確認から。
「ボク?」
「そうだす。探してたんだす」
ふんぞり返って胸を張る二郎丸に顔を向けて、Jはますます首を傾ける。
今日の分の練習はもう終わったし、コースルームの片付けもそろそろ済んでいるはず。Jは部屋の片付けというより、他の面々ではわかりにくいだろう書類やら器具やらの片付けを担当しているが、妙なものを残してきた憶えはない。探されなくてはならない理由に、心当たりはまるでない。
「これ、やるだす」
何かあったかな、と、視線を天井にさまよわせて思考の海に潜っていたJは、ずいと突きつけられた小さな握りこぶしに、きょとんと目を見開く。
「くれるの? ボクに?」
理由もきっかけも見えてこないが、その詮索は後回しがいいだろう。直面した二者択一に答を導くため、Jは確認口調で問い返す。
「そのために探していたんだす」
大仰に、鷹揚に。頷く両目はいたずらっぽくきらきらと輝いている。何かいたずらをしかけたいのか、彼にとっての宝物に値するようなものを分けてくれるのか。ひとつの行動に対していくつもの候補を挙げて深く考えすぎてしまうのは悪い癖だと、溜め息を飲み込んでJは微笑む。
「ありがとう」
いずれにせよ、差し出されたならば受け取るのが筋というもの。素直に礼を述べて空いていた右手を差し出せば、木の実がふたつ、転がり出てきた。
イラストやら写真やらではそれなりに目にする機会があるものの、実物を目にするのは初めてで、Jはまじまじと己の手の中を見つめる。
「くるみだす。見たことないだすか?」
「そうだね。砕いてあるのは見たことがあるんだけど」
殻つきの、いかにもといったその姿ははじめて目の当たりにする。
ころころと手の中で転がして、耳元で振ってみて。
「見た目の割りに、意外と軽いんだね」
物珍しさを素直に前面に出している様を、それこそ物珍しそうに二郎丸が見つめている。その視線に気づき、思わぬ自分の子供じみた行動に、Jは照れ笑いを浮かべる。
「ありがとう。これ、どうしたの?」
「なっていたから、持ってきたんだす」
そういえば、そんな季節だ。木々は葉の色を変えて、実をつける。それとなく目にしているはずなのに、手にする機会のなかった秋の気配に、Jはほんのりと目元を和ませる。
「食べ方はわかるだすか?」
「割るんだよね?」
まさかこのまま食べたりはできまい。常識に欠ける自覚のあるJでも、そのぐらいは想像がつく。それでも、加工前のくるみなど見たことのない身では自信を持って断言することもできない。思わず語尾を跳ね上げれば、二郎丸は神妙に頷く。
「割るときに、あんまり粉々にすると食べにくいから気をつけるだすよ。あと、手を怪我したりしないようにするだす」
心配で仕方ないと雄弁に語る瞳に、Jは思わず苦笑をこぼす。普段と立場がまるで逆転してしまっている。
「見つかったようだな」
そのままあれこれと講釈を垂れはじめた二郎丸の声に被せるように、低い声が廊下に響いた。
「あんちゃん!」
「リョウくん」
揃って目を上げて、笑いながらやってくる相手を呼ぶ。千切れんばかりに尻尾を振る子犬を思わせて兄の元へと飛んでいった二郎丸に、Jは更に笑みを深めた。足元にまとわりつき、あれこれと報告する様は本当に微笑ましい。
「二郎丸、お前、帰り支度がまだだろ。そろそろ帰るから、支度をして玄関に行っておけ」
すぐに追いつくから、と、諭すリョウは既にユニフォームから私服に着替え、荷物を手にしている。なかなか戻ってこない弟を心配して、探しに出てきたのだろう。
素直に頷き、飛び跳ねるようにして廊下を駆けていく背中に「走るな!」と一喝。びくりと立ち止まり、振り返って「ごめんなさいだす」とうなだれて、二郎丸はせかせかと早歩きを保って前進する。角を折れたとたんに響きだしたパタパタという足音に、リョウは困ったように溜め息をつく。
一連の流れを黙ってにこにこと見守っていたJは、リョウが顔を上げるのを待ってから右手を持ち上げた。
「くるみ、ありがとう」
「博士にも渡しておいた。それなりにあるから、まあ、食べてくれ」
「うん。ありがとう」
どちらからともなく玄関へと向かって歩き出し、二人は短く言葉を交わす。次のレースのことだったり、セッティングのことだったり、天気のことだったり。ころころと変わっていく話題の終着点は、しかし、振り出しに戻される。
「お前にどうしても渡すんだ、と言って聞かなくてな」
「え?」
「くるみだ。ハロウィンのときのクッキーの礼のつもりらしい」
「そんな、別にいいのに」
思わぬところで繋がった自分と木の実の関連性に、Jはぼんやりと呟いた。細やかな気遣いを施してくれた二郎丸がくすぐったい。それを語るにっと笑うリョウの横顔はどこか誇らしげで、素直に羨ましいと感じる。
「どうせなら、二郎丸くんがボクの弟になってくれるのがいいな」
角を折れたところで、自動ドアが反応しないギリギリの位置に立ち、廊下を凝視している二郎丸が見える。
「そればっかりは譲れないな」
「残念」
小さく手を上げたリョウに嬉しそうに笑って駆け寄ってくるさまに、Jが思わずポツリと呟けば、耳聡く聞きとがめたリョウは、視線を流しながら笑い含みにあっさりと切り返す。そして、腰に纏わりついてきた弟に「走るなと言っただろ」と、ひとつ拳骨を落とした。
fin.
小さな手で一生懸命に握り締めて、運んでくれたのは秋の実り。
渋いけれども甘くて香ばしくて、おいしくて、ごちそうさま。
小さいけれども幸せな秋、見ぃつけた。
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