■ 魔法の薬にたゆとうて
「……これ、一応アルコール入ってますよね?」
既に経験はあったものの、この国の法律での公の許可が昨年末にようやく降りた。じゃあ一緒に行こうか、とはじめて連れていかれた土屋研究所の飲み会の席で一口目を煽ったボクの感想は、皆さんを笑いの渦に叩き落とすに足るものだったらしい。
隣で苦笑しながら目尻の涙を拭っていた博士にも、驚きを含んだ声で心底不思議そうに問い掛けられる。
「飲み慣れているのかい?」
「まあ、それなりに」
自分としてはごく普通のつもりだったのに、どうも認識がずれているようだ。あいまいに答えながら、脳裏をよぎったのはいつもボクを酒盛りに付き合わせる教授とそのまわりの面子のにやけた顔。
ああ、あの古狸たちを一般人である博士たちと同列に扱おうというボクが間違っていたんだ。
一拍おいてから思い直し、ボクは反省する。軌道のずれた常識に染まらないよう、もっと気を付けないといけない。
「研究室の人たち、みんな強いんですよ」
おまけに酒好きで、味にはちょっとしたこだわりがあって。連れていかれる店はおそらく隠れた名店ばかり。持ち寄りで飲むときだって、酒とうんちくと、どちらを飲んでいるかがたまにわからなくなる。
要するに、気付けば徹底的に鍛えられていたと。そういうことだ。
「まあ、お酒は弱いより強いほうがいいよ」
付き合いの場には欠かせないし、味がわかるなら楽しいだろうし。へらりと笑う博士は、まだそんなに飲んでいないはずなのにもう完全に出来上がっている。弱いといいことないよ。だからこそ、その言葉にはやけに説得力があった。
擦り寄ってきた一人の若い研究員さんと話しはじめた博士を見て、少し離れたところからボクは手招かれた。グラスを片手に近寄れば、それはいいから、とお猪口を勧められる。
熱燗というにはぬるかったが、飲み込みやすいのでよしとする。これは、先ほど飲んだカクテルと違ってきちんとアルコールを感じられた。
「息子と晩酌、っていうのに憧れていたらしいよ」
「え?」
喉を焼いた酒気に熱を帯びた呼気を吐きだしたところに、ちょうど鼓膜を穿った言葉への間抜けな疑問符が付随した。
「いやあ、それにしても良かった。ひとつくらい、願いが叶わないとね」
古典的な願いが、土屋博士のものだということはすぐに理解できた。でも、同時に胸に渦巻くのは今まで口にしたことのない秘密による衝動。それに煽られたのか、浮かべる表情が実に微妙なものである自覚があった。
でも、なんともいえない顔つきをどうにもできずにいるボクには一切構わず、目の前に座った所員の方、古株の主任さんは続ける。
「さりげなく楽しみにしてること、実は結構あったんだよ」
いまだから言うけどね、と、周りに集う所員の皆さんは同じような笑みを押し殺しながら、博士をちらちらと見やり、一方でボクにはいたずらっぽい笑みを向ける。むず痒いような居心地の悪さに小さく身じろいで、でもようやく耳にできる皆さんの本音には興味があったから。ボクは眉尻の下がるのはそのまま、神妙な表情を取り繕う。
「子供がいたらこんなことをしたかった、という願望を、君に重ねていたそうだよ」
何か趣味を共有できたらいいなあ、とか、旅行に行きたいなあ、とか。休みの日には一緒に出かけたかったし、わがままもたくさん言ってほしかった。互いにいい関係を築けていて、しっかりしていて聞き分けのいい君に、子育て経験のない博士は正直なところ相当助かっていたのも事実。けれど、でも。
それなりに、寂しかったらしいよ。
徳利を持ち上げながら、主任さんはやわらかく笑った。
「それこそ酒の勢いを借りないと、愚痴のひとつもこぼさないで君のことをべた褒めに褒めて、いっそのろけてばっかりだったけどね」
「酔ってても、九割がたはJくんにとろけている発言だったじゃないですか」
「それは仕方ないよ、Jくんは本当にいい子だからねえ」
我々にとっても、自慢の息子だよ。
手酌はまずいだろうと慌てて徳利を受け取り、空になったお猪口に酒を注ぎ足すボクの頭上では、素面ではとても聞いていられないような単語がぽんぽんと飛び交っている。もっとも、そういった言葉を面と向かって差し伸べてくれるのが皆さんの常であり、それによってずいぶんと救われてきたことを知っているから、ボクは何も言わない。
思いに見合うだけの言葉が見つからないなら、代わりに必死になって態度や行動によって示すだけ。それだけが、ボクに出来る精一杯のことだから。
やんわりと笑みを返して、さてどうすれば感謝が伝わるかと考えていると、今回の飲み会の幹事を務めてくださった所員の方が笑いながら新しい徳利を示してくる。
「Jくん、いける口だね? こっちもおいしいよ」
「いただきます」
飲める人間にとっては、一緒に飲む相手もまた飲める人間である方が面白い。その理屈はさんざん聞かされていたから、ボクは素直にお酌に預かることにする。これもまた、ひとつの返礼の仕方かもしれない。それに、こうやって皆さんと楽しく飲めるなら、鍛えてくれた教授たちがありがたいような気がしてきた。なんとなく、でも実に理不尽だ。
「ああ、博士。寂しくなりましたか?」
首を巡らせた主任さんに促されて視線を上げれば、いつの間にか席を移動してきた博士が笑っている。
「独り占めだなんて、ずるいじゃないか」
「仕方ないですよ。だって、Jくん相当飲めるんですよ」
気づけば利き酒じみた行為に走りはじめていたボクと幹事の所員さんはいい感じにアルコールが回っていて、「ねえ」と見合わせた互いの顔が上気しているのがわかった。いつもよりも早く酔いが回っているらしいことを自覚しながら、ボクは隣に腰を下ろしてきた博士にお猪口を勧める。
「これ、そんなに強くないし、口当たりもいいですよ」
ひょいと眉を跳ね上げた博士は、それでも、ボクの手から素直にお猪口を受け取って、くいと一気に中身を干した。その飲み方がなんだかとっても格好よく見えて、ボクは嬉しくなってくすくすと笑い声をこぼす。
「本当だ。おいしいね」
焼酎はあまり得意じゃなかったんだが、と続けられた言葉に、ボクは小首を傾げて思うままを舌に乗せる。
「じゃあ、今度おいしい焼酎を見繕ってきます。一緒に晩酌しましょう」
「え……?」
今度こそ本気で驚いたらしく、博士は卓に戻したお猪口から手を離すことも忘れて、まじまじとボクを覗き込んできた。酔っているのかい、と聞かれて、もちろんと応えるのは冗談が通じる相手だからと知っているから。本音半分、冗談半分。でも、さっきのひと言は、本音と欲求のみで構成されている。
今ならお酒のせいにしてしまえるかな、とずるいことを頭の隅で考えて、ボクは今まで秘密にしてきたことをひとつ、あっさりと暴露する。あの人と、この人と。まさか、同じ思いをボクに向けていてくれるなんて思わなくて、それを知って嬉しくて、ちょっと舞い上がっているのかもしれない。
「父の口癖だったんです。大人になったら、一緒に飲もう、って」
すっと、博士の両目が眇められたのが見えて、ボクは少しだけ胸が痛む。身代わりにしたいわけではないのだと、言葉を尽くせば伝わるだろうか。
「ボクも、だから、いつの間にかそれを夢見ていて。もし、博士さえよろしければ」
あなたこそが今のボクにとって父親だから、父親と晩酌を、というその願いを、ボクはあなたとこそ実現したい。杯を交わして、お酒のせいにしながら無礼講に耽ってみたい。そうしたら、もう少し素直に甘えられる気がするから。
「あまり強すぎない、でもおいしいお酒で頼むよ」
感傷的な気分がせりあがってきて、思わずそれに飲まれかけたところに、優しくかけられた声はあたたかかった。ふんわりと包み込まれるような感覚が嬉しくて、ぼんやり滲む視界でボクは笑う。笑って頷いて、「任せてください」と言ったら、周りからずるいと博士に詰め寄る声が聞こえてきて、ボクはやっぱりおかしくなって声を上げて笑ってしまう。
とても楽しくて幸せで、横から博士に注いでもらった杯を煽れば、最上の甘露が喉を伝った。
fin.
杯を交わし別離となす詩で見送られ、杯を交わし思い出話を咲かせるときで邂逅を果たす。
あの日によくわからなかった言葉が、いまならばなんとなくわかる気がします。
別々に過ごした時間が生むのは、決して寂しさと切なさだけではなかったのだと、確信を得る彼らの邂逅。
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