■ あした天気になれ
 使い古した布切れのごとくぼろぼろに疲れきった身体に鞭打って、辿り着いた部屋でJはばったりとベッドに倒れこんだ。上着をまだ脱いでいないから、このままでいたら皺になるとか、帰りがけにかろうじて忘れずに買ってきた牛乳を冷蔵庫に入れないととか、そんなことを考えるゆとりもない。脳が心臓よりも上層にあるというただそれだけの事実すら疲れを助長する気がして、やわらかく軋んだベッドから起き上がりたくなかった。
「……疲れた」
 口にしたところで何も変わりはしないのだが、思いを体に溜め込む気力はなかった。半分まぶたを閉じかけた状態で見える机の上には、朝食のあと、シンクに運び損ねたマグカップ。
 早く洗わないと、コーヒーの痕が染みになって取れなくなる。それに、いくら疲れているとはいえ空腹を放置する気はない。声にならないうめきを上げながらのろのろと起き出し、Jはひとつ頭を振って、食卓から運んだだけでまだ洗われていない食器の待つキッチンへと向かった。


 とりあえず、すぐに使いたい食器を洗って、その間に先日まとめて茹でておいたパスタを冷凍したものを電子レンジに任せる。それから、作り置きのあったホワイトソースも同じようにして解凍する。片手間にケトルをコンロにかけて、戸棚を漁ってインスタントのスープの素をスープマグへ。
 一息つきながらしみじみ思うのは、最近ぐっと種類の増えたインスタントスープの素の揃えの良さである。使用頻度が上がるほどに、ローテーションを組むために買う種類が増えていき、いまでは本当にゆとりのあるときにしか汁物の調理をまっとうにしなくなってしまった。
 堕ちるときにはとことん堕ちる。どこかで誰かが言っていたような科白を思い出し、せめて部屋の片付けぐらいは堕落しないようにせねばと思って横目を流す。視線の先には、先ほどダイブしたのだけが原因ではないことの明らかな、ベッドメイキングのされていない寝具の塊がある。
 はあ、と大きく肩を落としながらため息をつき、Jは頭の中で思い起こせる限りのスケジュールを追いかけた。休日だからといって気を抜くわけにはいかず、やらねばならないことは山のようにある。次に家事をまとめてできる日はいつになることかと考え、あてのない憶測は悲しくなる前に強制的に打ち切ることにした。



 簡単に用意した食事でも、空きっ腹には十分な恵みだった。今度は満腹感と幸福感から来るため息をついて、Jは疲れ果てた両目を閉ざす。じんわりと、むずがゆいような痛みがまぶたを這い上がり、そしてするりと消えていった。
 満たされていると、充実していると思う。やりたいことがあって自ら選んだ道を、疲れただのもう嫌だのと投げ出すつもりは毛頭ない。それでも、弱音を吐いたり愚痴をこぼしたりしたいときがある。そんなときに決まって思い出すのは、見送ってくれた人たちのやさしい言葉であり、それに甘えてつい携帯へと手が伸びる。でも、それではいけないと、自ら課したルールでもって自身を縛り、Jは強がることを選び取る。
 もう少し頑張れる。もう少しやってみられる。
 向かい風の中でも負けずに前を向いて揺るぎなく立つことを教えてくれたのは友人たちであり、更に足を踏み出す力をずっと与え続けてくれたのはやさしい養い親だった。
 彼らと対等の位置に立つために、自分はまだ足りないとJはいつでも追いたてられるような気分にさいなまされる。そうしてくよくよしているとやはり彼らを心配させてしまい、それがまた悔しくて自分の未熟さを思い知らされるという終わらないループにはまりこまないために、Jはできる限りの強がりを貫くことにしているのだ。
 戸棚の最上段に飾られた懐かしい写真と最近の写真。それらを通してやさしい周囲を思い起こし、Jは意識して唇を吊り上げた。悲しい顔をしているよりも、嬉しい顔をしている方が気分もなぜか上向けるのだと。そう言って頬をつまみあげてくれたのも、やはりあの写真の向こうにいる人だった。


 食器を洗い、一通り棚に片付けたところでJは思い立ってマグカップとスプーンを取り出し直した。そのまま食卓に戻るついでに、途中でココアと牛乳を取り出して、慣れた手つきで混ぜ合わせる。気力さえあれば鍋できちんと作るのだが、そこまでする元気はないので、電子レンジで二分ほど加熱する。
 熱いカップを両手で丁寧に包み込み、Jは椅子の上に丸まって座り込んだ。膝を折り、そこにカップを置いてくるりと丸まる。そうしてこくりこくりとゆっくり甘いココアを飲みながら、小さく小さくため息をこぼしていくのだ。
 幸せの代名詞ともいえるココアを飲むことは、ささやかにして絶対的な、Jにとっての最上級の贅沢だった。たとえ他人に理解されなくとも、それだけで幸せになれて前向きになり直して、また頑張れるのだからそれで十分だとJは考えている。
 なんとなく物足りない気がして、もう少しだけ元気を出して今度はCDラックの前へと移動してみた。ざっとタイトルを流し見て、なんとなく目についた一枚を引っ張り出してコンポへ入れる。流れ出したのはスローテンポのギターの小品で、張り詰めていた心がゆるゆるとほぐされていく感触に、Jはふわりと両目を細める。
 椅子に戻って、ココアを飲んで、音楽を聴いて。少しだけゆとりが戻ってきた気がしたから、明日は出かける前に洗濯をしよう。しばらくは晴天が続くと言っていた天気予報を思い出し、そろそろかなりの量がたまっている洗濯籠を思い描き、そっと苦笑を刻む。
 それでもその苦笑が前向きなものである自覚があったので、すぐに笑顔の中の苦味は溶けてなくなってしまった。
 洗濯をして、できればフローリングも掃除をして、帰りがけにはもうちょっとまっとうな料理ができるよう食材を買い足してこよう。前向きな明日の計画を立て、うんとひとつ力強く頷き。Jは空になったマグカップを洗うために、軽やかな挙動で椅子から滑り降りた。
fin.
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 昨日より今日が、今日より明日がより輝いているように。
 そう思いながら眠りにつけるようになったのは、彼らに出会うことができたから。
 明日がもっといい一日になるように、まずは晴天であることを願おうと思う。

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