■ 陽炎に背を向けて
不意に戻ってきた感覚を追って、Jはゆっくりと頭を持ち上げた。
瞬きを繰り返して目の前に散る細かな光を振り払い、右手で前髪をかきあげる。部屋の中は、気づけばすっかり暗くなっていた。
眉間にしわを寄せ、おぼろげな記憶を辿る。突っ伏していたのはパソコンデスクで、出迎えてくれたのは省エネ設計の賜物である、スタンバイ状態の真っ暗な画面。反射して映っているのは、いまだ眠気の覚めやらぬ自分の顔であり、開け放たれたカーテンの向こうは、夕焼けを通り越して夜空。
腕の下に組み敷かれ、少ししわの寄ってしまったプリントの束を持ち上げる。ざっと読み流し、そこでようやく、Jは自分が課題を片付けていたことを思い出した。
ぐっと伸びをしてから立ち上がり、まずはカーテンを閉めて電気をつける。いきなり光度の高くなった室内に視神経が悲鳴を上げるが、なだめすかして時計を見やり、記憶の中の最後にある時刻との差を算出する。
「二時間も寝てたんだ」
いままでなら、こんなに長い時間うたたねを続けることはなかった。途中で必ず、起こしてくれるなりベッドに連れていってくれるなりするやさしい気遣いが差し伸べられていたから。
当然とばかりに受け止めていた日常のありがたみを改めて思い知らされ、呆れを滲ませて呟いた声は小さく、それでも誰もいない室内ではやけに大きく聞こえた。
改めて時刻を意識すれば、多少の空腹を感じるしシャワーも浴びたい。手早くパソコンの電源を落とし、Jは部屋を横切ってキッチンへと向かう。
ひとつのことに集中しはじめると、それ以外のことが何も見えなくなってしまうのは美徳であり欠点であると、養い親には常々そう言われてきた。美徳であるからには咎めるつもりはないが、それのせいで食事やら休息やらを疎かにするのは褒められたことではない。どんな作業のときでも意識的に休憩を入れて、まずは自分の体を労わることを一番に考えるようにしなさい。口をすっぱくして言われ続けたその忠告を、耳にして頭に入れて、それでもJが率先して実行できたことは本当に数えるほどだった。
もっとも、そのあたりは土屋も予測済みだったのか、いつもいつも困ったような諦めたような微苦笑を浮かべて、休憩を入れようと声をかけてくれるのが常だった。声をかけられて、はじめて長時間作業に没頭していたことに気づいて、きょとんと瞬きを繰り返す君が幼く見えて、実は楽しかったんだよと。意外な事実を暴露されたのはごく最近のことだ。
集中し出せば時間を忘れるのはお互いさまなので、だから、Jもまた意識的に土屋の作業を中断させるようにしていた。せっかく一緒にいるのだから、相手のために何か役に立てれば嬉しい。そのささやかな欲求を満たすという意味でも、実にちょうどいい習慣だったのだ。
今日は特に体力を使うような行動は起こさなかったから、さほど空腹感がひどいわけではない。何か軽く食べられるものを、と思って棚と冷蔵庫を覗き込み、手間を考えてシリアル食品の箱へと伸びた手は、脳裏をよぎった土屋の渋い表情によって、空を掴んで下ろされる。
うたたねをしても、休憩を忘れても、食事の手間を惜しんでも、土屋はいつも渋い表情を向けてきた。
眠いならちゃんと寝なさい。うっかり意識が飛ぶまで無理をするものではないよ。
自覚はなくても疲れはたまるんだし、目に悪いから、ちゃんと時間をみて休憩を取りなさい。
体力はなにごとにおいても基本中の基本だよ。食事はそれの元なんだから、きちんと大切にしないと。
表情に添えられた苦言を思い起こしながら、Jはひとり小さく苦笑して、冷蔵庫に向き直る。野菜と魚が目についたので引っ張り出し、慣れた手つきで調理を進める。その間も、脳裏を駆け巡るのは土屋の表情と台詞だ。
もともと二人とも口数が多いわけではなく、どちらかといえば一緒にいても黙って過ごしていることの方が多かったように記憶している。それでも、その沈黙とひとりで過ごす際の沈黙とでは、重みと淋しさが格段に違ってくる。
引き返そうとは思わない。それは何か違う気がしたし、自ら選び取った現状に、Jはおおむね満足している。幼いころから否応なく叩き込まれた自立心に加え、男の二人所帯のおかげで家事の経験値も高かった。ひとり暮らしにおいて、なんら困ることはない。それでも、こうしてひとりで生活しだすまではまるで予想し得なかった違和感に、時折戸惑って立ち往生してしまうのも事実だった。
机に突っ伏してうつらうつらと意識がぼやけて、夢と現の狭間にいるときは、いつでも頭の片隅で土屋を待っている。そっと扉をノックする音。遠慮がちに開かれる気配。漂ってくるココアの香り。肩を揺さぶる大きな手と、視界にいっぱいに映る困ったような微苦笑。
ひとりで生活することにはすぐに慣れられたのに、時折無意識に探る気配がないことには、まだ完全に慣れることができないでいる。
バターの焦げる香りに、思わず双眸を細めて小さく鼻を鳴らした。ムニエルの作り方を教えてくれたのも土屋で、なんとなく頭に残っている手順を追うのに、思い描くのは土屋が調理をしている姿。結局、何をするにしてもJはその行動と言動の雛型に、土屋を置いていることを意識させられる。
焼きあがった魚を皿に移し、あわせて添え物の野菜を炒めながら、考えるのは次に送るメールの内容だ。近況を報告するのに、一体どの話題が一番いいだろうか。ようやく一通りの基礎的な技術の研修を終えて、テーマを与えられて自分で研究に取り組めるようになったことはまず報告したい。先輩たちがやさしくて親切で、とても愉快な性格であること。おかげで、きついことがあっても毎日笑って過ごせていること。それからそれから。
つらつらと考え事をしながらも、完成した食事は冷めないうちに皿に移し、食卓に運んで手を合わせる。口に運んだムニエルの焼き加減はちょうどよかったが、土屋が作ってくれるものとは少し違う気がして、思考は思わぬ方向へと逸れていく。土屋が作ってくれたものの方が、もう少し、風味が豊かだった気がするのだが。
咀嚼のペースをわずかに落とし、口の中で味の違いを探す。同時に瞼の裏に展開されるのは、土屋が調理をしているときの光景がつぶさに。
思い当たる節は調味料の違いだが、いったい何が隠し味になっていたのか、結局思い出すことはできなかった。悔しくて少しだけ眉をしかめ、それから思い直して表情を緩める。隠し味のことも、メールの話題にしてみよう。その方がずっと、土屋との繋がりを強く意識できる文面になる気がする。
綺麗にたいらげた食事に礼儀正しく手を合わせて食後の挨拶を呟き、Jは食器を片付けるべく立ち上がる。
一人だけれども、独りではなく彼とともに過ごす時間。だから毎日を平気で過ごせて、ふとした瞬間に淋しさと違和感を感じるのだと。気づけば思考の一端は土屋に占められていて、ここまで彼に依存していたのかと、思わず目を瞠る心境だった。親離れが出来たようでいて出来ていない自分に微かに苦笑して、Jは考えを改める。時計を見やり、ぱっと見で条件反射的に計算できる日本の現在時刻を思い描き、まだ大丈夫だろうとひとり頷いた。
いまはまだ淋しさと違和感が大きいから、レシピを口実に、土屋の声を聞くために電話をかけよう。通過儀礼の中の、過ぎ行くべき一点に捕らわれないために。そうして少しずつ身の内に彼の存在を植えつけて、やがては本当に、ひとりで歩けるようになるために。
二人の道が、正しく違われていく。
違われなくてはならない、その通過点たる一日が、今日もこうして過ぎていく。
fin.
陽炎に背を向けて、一歩一歩、足を踏み出していく。
惑わされずに進むために、陽炎を眺めはしない。
幻想に惑う時間があるのなら、半歩でも良いから前に進むために。
timetable