■ 逃げ水を追う
減ったものは特にない。出入りする所員も、子供たちも、空き部屋の数も。何もかも、よく考えてみればただ元に戻っただけだ。なのに、耐え難いほどの喪失感があった。
減ったものはないが、ほんの少しだけ、増えたものが残されている。たとえばそれは、部屋のカーテン。空っぽの机やら椅子やらベッドであり、資料室の隅で物置になっている踏み台であり、キッチンの棚奥に食器が少々。
それから、書斎の机上の小さな鉢植えだ。
モニターとの睨み合いによってじくじくと痛みを訴える後頭部に、土屋は軽く眉根を寄せて首をのけぞらせた。目を閉じ、眼鏡をとって眉間のしわを気難しい表情で揉み解す。眼精疲労を起こすほどに連続して長時間モニターを見続けるのは、最近復活した悪癖だ。
目の周りの筋肉をぐりぐりとほぐすところに、ふと香ばしい匂いを感じ、土屋は口元を綻ばせた。
「ありがとう」
ゆっくり手を外し、瞬きを繰り返して天井に向いていた首を戻す。そして見やった先には、見慣れた湯気の立ち昇るマグカップと、いまだ慣れられない淡い微苦笑。
「お疲れのようですね」
カップを机に置きながら、声をかけてくれた若手の所員はやんわりと言葉を送ってきた。あいまいに笑みを返して返答を濁すものの、どうやら拭い去れない違和感と、それに付随するどことない寂寥感がどうやら表情に出てしまっていたらしい。いつもならそのまま立ち去るところを、彼もまたやはりどことなく寂しげな表情を浮かべ、そっと机の端の鉢植えに指先を遊ばせる。
「Jくんだと思いましたか?」
会話の流れとしては脈絡のない問いかけだったが、状況の流れとしては十分な伏線を踏まえた上での発言だった。鉢植えから離れていく指先を視界の隅に、土屋はそこに鎮座するサボテンを見つめて吐息に返答を乗せる。
「なかなか、慣れることができないんだ」
偽りのない心情吐露は情けないほどに弱々しい声で、内心の惑いをそれこそ真正直に表していた。
コーヒーをくゆらせながら、視線はいつしか机の隅に固定され、思考の片隅はひとりの人間に占められる。
いまごろ何をやっているだろう。元気だろうか。無理はしていないだろうか。食事はちゃんとバランスよく取っているだろうか。十分に睡眠時間を確保しているだろうか。辛い思いを我慢なんかしていないだろうか。悲しい思いをしていないだろうか。
いったん思考のベクトルが向けばとどめることなど適うわけもなく、だらだらといつまでも、思いは海を越え続ける。
十年にも満たない年月を共に過ごしただけだった。一番の古株の所員との方が、付き合っている年数は長い。なのに、欠けてみて感じるのはその存在の大きさであり恒常性なのだから不思議なものだった。
ふとした瞬間に目に入るもの、耳に入るもの、手に触れるもの。そこかしこに、子供の痕跡が残っている。目に見えるわけでも、耳に入るわけでも、手に触れるわけでもない。なのに、どうしようもなく存在を感じるのだ。
薄れるほどに鮮やかに。そして決して消え去りはしない。滲み、揺らいでも、書斎に戻れば嫌でも目に入る小さな植物が、そのはにかみ顔を思い起こさせる。手渡されたときの部屋の光景も、風の匂いも、鉢の重さも、掠めた指のぬくもりも。すべてをありありと思い起こさせ、土屋の胸に新しく、その存在の喪失を思い知らせる。
喉を通り過ぎるコーヒーは、少し熱かった。息を吹きかけて冷ましながら飲み込み、時間を見てはコーヒーを入れて持ってきてくれた少年の、細やかな心遣いを思い返す。あの子の淹れてくれたコーヒーは、はじめのうちこそ試行錯誤の跡が見られたが、慣れるにつれて、味も温度もすべてが心地好く保たれるようになった。
最後に飲んだのはわずか二ヶ月前のことだというのに、ずっと遠い昔のことに感じられて、土屋は凪いだはずの感傷がぶり返すのを知る。あの子がいまここにいない。たったひとつのその現実が、あまりにも切なくて、どうしようもなく哀しかったのだ。
何の変哲もない毎日が過ぎていく。朝起きて、朝食をとって、洗濯物が溜まっていたら洗濯機を回して、始業時刻になったら終業時刻まで仕事をする。時に残業があったり、時間中にアクシデントがあることもあるが、すべてが終われば夕食をとって、必要に応じて家事を片付けて、少しだらだらして、風呂に入って寝る。当たり前に過ごしてきた時間を、当たり前に過ごしていく。それは、Jがいてもいなくても変わらない、土屋という人間の日常の有様だから。
いままでもいまもこれからも、ずっと過ごし続けるその時間に、しかし土屋は違和感を覚えている。何かが足りなくて、物足りなくて、大切なものを忘れている気がして。必死に目を凝らして捜し歩けば、そこかしこでJがいないという現実に遭遇する。遭遇するたびにふとしたきっかけで記憶が溢れ出して、いっそう空っぽになっていく身の内を意識してしまうのだ。
「重症だなあ」
ひとりごちてまたコーヒーを一口啜り、今度はマウスを動かしてメーラーを呼び出す。するすると、慣れた動きで開いたのは最新のメールであり、並ぶ受信メールたちはきっかり七日おきで着信日時を表示していた。
文面は当たり障りのない挨拶からはじまり、土屋の体調を気遣い、自分は元気で頑張れている旨が綴られる。それから一週間の出来事を少しだけ報告して、研究所のメンバーのことを気遣って、やさしい空気を残して終わっていた。
あの子の身に纏うそのままの空気が、味気ない機械の文字列から滲んでくる。メールを打っているだろうその姿さえありありと想像できるのに、それでも、声が思い出せない。どんな声でこの言葉を発してくれるのかが、いつの間にかわからなくなってしまったのだ。
寂しくなって、その姿を鮮明に思い出したくて手にしたものに、さらに寂寥感が募ってしまい、土屋は小さくうなだれる。
「あ、博士。どちらへ?」
「ちょっと、裏庭に出てくるよ」
ゆるりと立ち上がれば、気づいた所員に行き先を問われる。眉尻を下げて苦笑交じりに答えると、室内の面々もまた少しだけ情けない表情になって、「ごゆっくり」と送り出してくれた。
減ったものは特になくて、少しだけ、少年の痕跡が残されている。でも、その痕跡も徐々に薄らいでいるのを知る。あまりにも自然に、あらゆる痕跡が薄らいでいく。
彼を永劫に喪ったわけではないけれども、その穏やかな消滅に土屋はついていけずにいる。
すぐにでも確かめたければ電話をすればいい。でも、それは必要がなければしないことにしていた。待っていれば週に一度はメールが届くし、たまに、電話もかけられてくる。元気に頑張っていることを知っている。ただ、手が届かない距離に行ってしまった。
不意に戻ってくる瞬間もまだ残されている。しかし、この先それはどんどん減っていき、やがては消えてなくなるだろう。子供は飛び立ってしまった。土屋の日常とJの日常がほぼ同一であった時間は、もうなくなってしまったのだ。
目に見えて雑草の増えた裏庭の花壇は、それでもまだ綺麗に整えられていた名残に溢れている。Jが、出かける前に念入りに手入れをしていった成果だ。煙草に火をつけ、スタンド型の灰皿の脇に立ち尽くし、土屋は記憶の海に潜る。
体が覚えている。気配を覚えている。一番はじめに失われたのは匂いで、それから声がわからなくなり、表情はいまだ鮮明に残っている。いると思って振り向けばそこにいない。いない日常に慣れようと思っても、そこに残された痕跡に縛られる。どうにもならない矛盾とどうしようもない違和感に、進むことも戻ることもできずにいる。
目を閉じて煙をいっぱいに吸い込み、土屋は思考を飲み込もうとする感触に必死に抗う。ざわりと梢を揺らす音が鼓膜を穿ち、鼻腔をくすぐった香りに慌てて目を見開き、そして勘違いに自嘲する。
縛られたくないなら痕跡を見えないところに封じ込め、そして忘却に身を委ねればいい。でも、それはできない。他ならぬあの子からあえて託された痕跡を、手放すことなどできない。だから、土屋に残された道はただひとつ。痕跡を辿り痕跡に惑い、空っぽのまま満たされない心をもてあまして、やがて思いが麻痺するのを待つことしかできないのだ。
「重症だなあ」
切なく重く、小さな声をぽつりと落として、土屋はいつの間にかすっかり短くなってしまった煙草を灰皿に押しつける。背後に響いてきた軽やかな足音に、いまはいない子供の幻影を重ねながら。
fin.
捕らえられない幻想を追い、あるはずのない影を追う。
そうではいけないとかつて教え諭したのは自分なのに、同じ轍を踏んでいることに気づきつつもやめられない。
いまさらながらに理解し直した気がして、やめねばと思い、でもやめられずに。ただ時間が癒してくれるのを待つ。
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