■ 糸の先
毎年、父の日に博士に電話をするのは、習慣を通り越して儀式のようなものである。そうでなくとも時折り電話連絡はするし、メールも手紙も、出張があれば顔を出しもする。それでも、これはいくつかある特別なことのひとつだった。
なんだかいつもより早く目覚めてしまった浮ついた気分もそのまま、時計を睨んで時差を計算する。昔はそらんじていた博士の住む時間を、いまは思考を割かないと認識できない。
時が過ぎたんだな、と。しみじみ思うのは少しだけ胸を噛む感傷だ。ただ、いままでずっとボクを苛んでいたそれとは違う。いままでのように、置き去りにされることに泣くのではない。ボクが博士を置いて、遠くまで歩いてきたのだから。
朝食の時からボクはずっとそわそわしていたのだそうだ。ちょうど通りかかった彼女に、ついに「欝陶しいから早くしなさいよ」と短縮ボタンを押されてしまった。こちらは午前八時半。あちらはならば午後五時くらいだろう。気掛かりな点がなかったわけではないが、常識的な時間帯だろうと、ボクはおとなしくコールを聞く。
応じた声は、懐かしいそれより少ししゃがれている気がした。ぶり返す感傷に淡く苦笑しつつ、ボクはまずいつもどおりに名乗りを上げる。予想に違わず、博士の声は一気に弾んだ。
最近の調子をうかがいあい、ついでに血圧のことを聞いておく。家系的なものらしいが、高血圧で検査にひっかかったのは記憶に新しい。心配だからそう言ったのに、博士は気にした様子すらなくて、少しやきもきしてしまった。
ボクの心配を軽く笑い飛ばし、大丈夫だとは言ってくれても加齢は侮れない。続け様に懸念を言葉に変換していたら、逆に宥められて慰められてしまった。まだまだ博士には勝てないんだと、しみじみ感じながら念押しに強めの言葉を選べば、手厳しいと評される。ならばいっそと「このくらいでちょうどいいんです」と返したら、実に楽しそうな笑い声だけが返ってきた。
雑談による前置きはこの辺で止めておき、ボクは本題に入る。
「いつもありがとうございます。『お養父さん』」
この台詞も毎年のものなら、博士の思い出したような返答もやはり毎年のものだ。しみじみと日付を思っているだろう博士に、ボクは自分の声がやわらかく笑いを含むのを感じる。この様子では、まだ荷物は届いていないのだろう。
きっと今日中に贈り物が届くだろう旨を告げれば、博士の恐縮したふうの声が返ってくる。好きだから、大切な相手だからボクがやりたくてやっているのに、こんなところはいつまでも変わらない。お互いに苦笑しつつ、どうしても直らないからもう諦めた性癖だ。
中身の解説をする目的の電話でもあったのだけど、やめておいた。プレゼントは、リボンを解くどきどきする気持ちが楽しいのだから。
と、不意に話の矛先がボクに向いた。何事かと問い返せば、この日を祝う側としてではなく、祝われる側としての意見を求められる。率直に、ボクは今朝の食事が彼らの手によるものだったことを伝えた。
おいしかったろう、と言われても、焦げているか生かのどちらかだったそれらには味の判断などつけられるはずもない。やはり素直にそう言えば、呆れたようにたしなめられた。
無論、その心をこそ買うべきなのはわかっている。でも、それを延々並べ立てるのはのろけだろうと混ぜ返したら、あっけらかんと笑われた。ついでにのろけられて、照れ臭いボクははぐらかすことを選んだ。
博士からの愛情表現に触れるたび、ボクはその大きさと深さを思い知る。追い付きたいと、そうなりたいと。願うのと同時に祈るのは永遠という時間。いつまでもこうして、くすぐったいくらいに甘やかしてもらえたら嬉しいと。
足元に重みを感じて目線を下げれば、子供たちがまとわりついていた。どうやら、電話を替わりたいらしい。海の向こうに許可を求めて交替したら、邪魔だとばかりにリビングに追いやられてしまった。
「何を拗ねてるのよ」
「拗ねてる?」
なんとなく気になって廊下をうかがっていたら、笑い含みにそんなことを言われた。理解に苦しんでおうむ返しに問えば、彼女は心底おかしそうに声を上げる。
「自覚なしなんて、子供みたい」
大好きな『お父さん』をとられて拗ねているんでしょ。
言われて目を見開いて、ついでに耳に血が集まるのを感じて、ボクは負けを悟った。彼女の言葉ではないけど、自覚がないのは重症だ。
「まだまだ甘えたいお年頃なのかしら?」
「冗談キツイよ」
反論は弱々しい。重苦しく溜め息を吐き、ボクは窓の向こうへと視線を逃がす。そろそろ、ひまわりを植える時期だ。
笑いながら彼女は廊下の向こうへと消え、ボクはやけに機嫌のよくなった子供たちに呼ばれて受話器を握りなおした。
子供たちがボクを追いだしてまで何を言ったか探りを入れれば、返されたのは曖昧な答だった。最近、自立心が強くなってきたのか何なのか、仲間外れにされることが多くて彼らのやりたいことがいまいち理解しがたい。溜め息混じりに思わず弱音を吐けば、それは成長の証だと言われてしまった。
こんなふうにして、博士もボクを見守り続けてくれたのかもしれない。最近、少しずつ博士の気持ちがわかるようになってきた気がする。
話も一段落したところで、ボクは辞去の挨拶を送った。重ね重ね、くれぐれも体調には気を付けてくれるよう願い、ボクの家族への挨拶を預かる。反対にボクは博士の奥さんや他の皆さんによろしく伝えてくれるよう頼み込み、そして通話は終了だ。
受話器を置き、ひとつ呼気を逃してリビングへ戻る。週末恒例の食料品の買出しに行くなら荷物持ちを手伝う意志があったし、ないならないで、庭いじりのため苗を見に行く旨を伝えたかった。
「――あ、ちょっといいかな?」
子供たちと何やら話し込んでいた様子の彼女は、ボクを見て折っていた膝を伸ばし、悪戯っぽく笑った。
「買い物なら、今日は行かないわ。明日つきあって」
「え? ああ、うん。わかった」
ボクの質問はお見通しだったらしく、たたらを踏む形になりながらも素直に承諾する。明日行く予定があるなら、ボクもそのついででいいだろう。
「じゃあ、ボクは庭にいるから」
用があったら声をかけてほしい、と。言いさした言葉は、子供たちの歓声に遮られた。
「すごい! 言ってたとおりだ!」
「『おじいちゃん』すごい!」
「ね? みんなお見通しなのよ」
きゃっきゃとはしゃぐ様に、彼女はしたり顔で笑っている。
「おじいちゃん?」
耳慣れない呼称を思わず反芻すれば、ぱっと振り仰いできた視線がきらきらとボクに向かう。
「だって、お父さんのお父さんは、おじいちゃんでしょ?」
「はかせ、もかっこいいけど、おじいちゃんのほうがいい」
「そういう話をしたんですって。博士のこと、はじめてあなたの『父親』だって認識して、それが嬉しいみたい」
こそりと耳元で説明され、ボクは呆然と目を見開いた。理屈は間違っていない。博士は確かにボクの『養父』であり、彼らにとってそれは『父親』となんら変わるところもないだろう。曲がった考え方などせずに素直にそう言い切れる子供たちが眩しくて、少しだけ嫉ましくなる。
「いい加減に諦めればいいじゃない。博士はあなたの『父親』よ。意地を張ってるのは、あなただけ」
「……わかっているよ」
「やっかいな性格ね」
呆れたように肩をすくめる彼女に曖昧な笑みを送り、ボクは庭へ通じる廊下に足を向ける。気紛れのように付き合うこともあるが、今日はなぜか意気込み十分に我先にと走っていった子供たちに、ボクはやっぱり目を見開いた。
「『おじいちゃん』に、手伝ったらいい贈り物になる、って言われたそうよ」
「何の?」
「父の日の」
くすくすと、楽しそうな彼女は「おいしいおやつを作っておいてあげる」と言い置いてキッチンに消えてしまった。
庭仕事をすることなんかお見通しで、ボクが幸せになれて子供たちにも可能な選択肢を示して。
まったくやっぱり敵わないと思い知らされる。父の日なのに、これではどちらが祝われているのかがわからない。
早く来るようにと急かす子供たちに応えながら、ボクは来年の今日を思う。
父親になったボクが、ひとりの息子として迎える大切な記念日を。
fin.
赤い糸は血の色の糸。血の色の糸は絶対の繋がり。
二人の間にそれはないけど、繋がり続ける確かな糸。
その先を見つめる思いは、恋焦がれるという気持ちに酷似している。
timetable / event trace
and over the seas ......