■ 愛しい予感
 少し、話をしよう。そう言って、博士は椅子から立ち上がった。
 キッチンに向かう背中がなぜか見慣れない気がして、ボクは驚いた。こんなに大きな人なのに、急に小さくなってしまったように思えたことが、不思議だった。
 ここには、理屈と理性を侵食する何かが存在する。
 こぼしたり焦がしたり、すっかり光沢の失われたステンレスのミルクパンに、牛乳が注がれる。あまり残っていなかったな、と、今朝の記憶をぼんやり掘り起こす。それは正しかったようで、博士は空になったらしいパックをシンクに置いて、新しいパックを取り出した。明日、買いに行ったほうがいいだろうか。
 作業の合間に、ちらちらと視線が向けられる。むずがゆいような居心地の悪さに、ボクはますます縮こまる。椅子の上で、人形になる。


 カチカチ、と、ガスの点火の音がする。火が点いてボンッ。ヒュンと鳴いて火力の調整。
 ここまでの作業を、博士はとても大切にする。よそ見もしない、無駄口も叩かない。真剣な表情で、蒼白い炎のダンスを見守る。
「私はね、Jくん」
 不意に、話がはじまった。こちらを見ないのは、博士のやさしさであり気遣いだ。
 多少の改善を見せたといえ、ボクは誰かと話をするのが苦手だ。
 心を向けること、思いを向けられること。それにまつわるやさしい思い出は、哀しい記憶にすりかわる。それにまつわるやさしい体験は、哀しい経験になりかわる。
 刻み込まれた哀しみは、まだ生々しくボクを縛り続ける。抜け出すには、茨の檻は居心地がよすぎる。ここにいれば、これ以上傷つくことはないのだから。
「私はね」
 鍋を見ながら、博士は繰り返した。
「君が消えてしまいそうで、怖いんだよ」
 小さな小さな声だった。


 換気扇がごうごうと鳴く。それがとてもうるさくて、博士の声をかき乱す。ノイズがかかる。波のように。嵐のように。怒号のように。
 牛乳がほどよく温まったらしい。博士は口をつぐんで、棚からココアのパックを取り出した。
 開封して間もないそれは、用を果たしてジッパーを閉められる際、少しばかり反抗したらしい。小さく驚いたような声がして、抑え気味の咳が聞こえてきた。
 少しだけ目を向けてみたら、ゆるりと、博士の肘が楕円を描いていた。おそらくその先では、握られたおたまが鍋の底を這い回り、同じくゆるりと牛乳をかき乱しているのだろう。目を逸らしてもありありと思い描ける。白かった水面に広がるのは、琥珀色の渦。
「もっと、自信を持っていいんだよ。君は、君が考えているよりもずっと、私たちにとって意味を持った存在なんだ」
 静かな声は、やさしかった。この上なくやさしくて、でも、真剣だった。誤魔化すことを許さず、逃避を悲しむ声。そして続く、返答を待つ沈黙。
 だから、ボクは口を開いた。いつの間にかからからに渇いたのどは、声帯を震わせるのを嫌がった。舌が口腔に貼りつき、言葉がごわごわと纏わりつく。
「そうでしょうか」
 返したのは、語尾をわずかに跳ね上げた、しかし断定の口調。飲み込まれた言葉は反語。そんなこと、あるはずないのに。



 博士からの返事はなくて、かわりにかちりとコンロのつまみを捻る音がした。ココアが完成したらしい。換気扇もようやくおとなしくなって、その段になってはじめて、部屋がとても静かであることを思い知らされた。
 食器棚を開ける音。カップが取り上げられてごとり。ふれあってかちり。鍋が取り上げられてがたん。注がれる、じゃばり。
 音を追うことで、ボクは博士の行動を知る。いつもならば視線で追うのだけれど、今日はそういう気分になれなかった。
 視界に博士を入れることさえも苦しくて、光を追い出す。
 博士の世界からボクが消えるのが怖くて、残された感覚のすべてで気配を追う。
 矛盾していることは自覚しているけれど、それでもやめられない。そして、カップを取り上げる音と、スリッパが床と挨拶をする音。ぺたりぺたり。それが七回繰り返されたところで、テーブルにごとり、と振動が伝わった。
 視線を滑らせて、目の前に置かれたマグカップを見やる。底から徐々に這い上がって、湯気をくゆらせるカップの口へ到着。そこから先には上げられない。博士の顔を見るのが、いまはとても怖い。


 ありがとうございます。いただきます。目を上げないまま、告げてボクは手を伸ばした。過ぎるぐらい丁寧に、マグカップを包み込む。
 指先を、陶器越しの熱が暖めていく。じわじわと、くすぐったいような触覚が、やがて温覚となって脳髄に届く。
「私は、君が好きだよ」
 ぽつんと、博士はとても穏やかな声で呟いた。
「君を見ているうちにね、だんだん好きになっていくんだ。いまは、はじめに会ったときとは比べものにならないくらい君が好きだよ。それでね――」
 カップの淵をぐるぐるとなぞっていた視線は、気づけば博士の目元に吸い寄せられていた。なんだか、とんでもない告白を聞いている気になって、真偽の程をどうしても推し量りたくなったのだ。
「きっと、これからもっと君を好きになる。いまだって、好きという言葉じゃ足りない。たぶん、これが愛しいという気持ちなんだね」
 恋愛経験もろくにないし、はじめての感情だから、よくわからないんだよ。
 眦は下がり気味で、本当に穏やかな笑みを刻んでいる。それなのに、博士の両目は、怖いくらいに静かな光を湛えている。


 口を閉ざした博士は、照れたように笑って、その笑みを隠すようにカップを持ち上げた。
 湯気がふわりとたちのぼる。
 眼鏡のレンズが一気に曇って、びっくりした様子で博士は動きを止めた。白いレンズ越しに、ぱちぱちと瞬く博士の生真面目な両目が見えて、ボクはふっと息を逃がす。
 結局中身に口をつけないままカップをテーブルに戻し、博士はレンズを拭いていた。作業の合間にもボクを見ていて、眼鏡をかけなおして、改めてボクを見やり、笑う。幸せそうに、やわらかく笑う。
 そしてボクは気がついた。宙に霧散した息はまるで、微かな笑い声のようだったのだ。
fin.
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 あなたの言葉は、やさしいけれども残酷です。
 愛しいという字は、かなしいと読むのですよ。
 天邪鬼な皮肉は、胸の中でしこりになった。

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