■ 眠れぬ夜のホットミルク
週明けに会議があるため、どうしてもまとめておきたい資料をいじっていたら、いつの間にか日付変更線を大幅に越えていた。
酸素を脳に補給するため大きく開いた口を気休め程度に手で多いながら、土屋は首を回しパソコンの電源を落とす。処理速度が以前よりも目に見えて遅くなったなあ、とどこかで考えながらも、ファイルの整理はどうしても面倒くさくて、つい後回しにしてしまう自分に苦笑が漏れる。
細かなことに気の回る小さなエンジニアを研究所に迎えてから、なにかと使い勝手のよくなった機器が増えた。自分をはじめとする研究員たちが、ついつい後回しにしがちな日ごろの整備とか使用後のちょっとした手入れだとか、そういうものに気を回してもらっているからだと、誰もが気づいている。だから、少しずつではあるものの、日ごろから機器に対して気を回すという習慣が所内に浸透しつつある。
本来ならば、自分たち先達が彼のような後続勢に正しい姿勢を見せるべきなのだが、立場がすっかり逆転している。慣れと経験という名の怠慢に、初心を突きつけられるのは少し居心地が悪い。
わかっていたはずなのに、見えているはずなのに、気づくと見失っている。そんなことを思い知らされる瞬間は、いつでも積み重ねた時間を思う。時間を重ねるごとに得られるものと失われるもの。どちらが多いほうがいいとか正しいとかいう明確な基準はない。ただ、どうしたって得られたものよりは失われたものに目がいってしまう。悲しいとか切ないとか、そういう感情を覚えてしまう。
ようやくプログラムの終了処理が終わり、画面が光を失ったのを確認して、土屋は書斎を後にした。
風呂には入ってあるし、歯磨きも終わっている。
夜中まで頑張った自分を癒すために一服入れてから寝ようと、土屋はキッチンに立ち寄り、薄いコーヒーを淹れる。豆のこだわりまではないが、インスタントではなくきちんとコーヒーメーカーを使うのが土屋の信条だ。
こぽこぽとテンポよく鼓膜を打つ音に、ひそやかな何かを軽く引きずるような音が混じった。幽霊の類は信じていないし、候補ならばひとつ挙げられる。今日は早々に床についたのに、と、土屋はなかば意外の念を抱きながら、首をめぐらせてキッチンの入り口で止まった音の主を見やる。
「眠れないのかい?」
引きずられていたのはスリッパで、それを履いているのはカーディガンを羽織ったJだった。うつむき加減の顔をかけられた声にようやくあげ、Jは一拍おいてからゆっくりと口を開いた。
「……かぜ」
「ああ、風がうるさくて目が覚めちゃったのか」
日ごろから落ち着いて穏やかな口調で話す子ではあったが、いまはそれ以上にゆるりとした、むしろどこか気のない様子である。どうやら、少し寝ぼけているらしい。緩慢な動作で目をこすりながらキッチンに入ってきたJの肩を軽く押してダイニングへと向かわせ、土屋はソファーに座るよう促す。
「何か飲むかい?」
素直に保護者の言葉に従った子供は、ソファーの背もたれに体を預けて、こくんと頷いた。
応答があったことを確認しながらJのマグカップと戸棚のココアを取り出し、土屋はがたがたと鳴る窓を眺める。壁の向こうでは、雨と風が暴れている。なんでも、勢力の強い台風が上陸しているとか。確かに、今宵は静かな夜とは言いがたかった。
雨が地面やその他のいろいろなものを叩く音も、風の音も、風によっていろいろなものが動く音も。すべてが闇に入り混じって夜が更けていく。周囲の気配に過敏なぐらいのJなら、それらがうるさくて目が覚めたというのはちっとも不思議ではない。
この数ヶ月の間にすっかり慣れた手つきで小鍋に牛乳を注ぎ、適当に温まったところでココアの粉末を加える。あとはきちんと溶けるまでかき混ぜて、火から下ろして出来上がりだ。自分のコーヒーとできたココアをそれぞれマグカップに注ぎ、土屋は黙ってただ窓の外を見ているJの隣へ腰を下ろした。
声をかけながら手渡せば、Jはやはりぼんやりとしながらも、焦点を土屋に合わせ、きちんと礼を述べてからココアを口元へ運ぶ。すぐに飲んですぐに寝つけるようにと、温度の目安は人肌程度。一、二口がのどを通り過ぎたところでほおっと息をこぼす。それから、子供はきっちりと両手で包みこんだマグを膝上に乗せ、ぽつりと言葉を落とした。
「ホットミルク」
声音は先ほどと大差ない。あまり深く考えた上ではないだろう脈絡のない単語に、いったい何を示しているのかと、土屋は辛抱強く次の言葉を待つ。
「ハチミツ入りの、人肌ぐらいの」
視線は目の前のテーブル付近に固定したまま、Jはゆっくりとまたココアを含む。
「あまくてあったかいのは、いとおしいっていう気持ちに似ている」
ゆるりと瞳を眇めるJの視線の向こうには、きっと土屋の知らないセピア色の幻影。何かをなぞるように紡がれる言葉は、どこかたどたどしくすらあった。
「嵐の音も、ココアがあったかくてあまいのも、とても似ている」
ずり落ちたカーディガンに気づいてそっと腕を伸ばせば、肩口に触れた指先を合図に、Jは甘えるように身を寄せてきた。
一つ屋根の下で暮らすようになって、時間がそこそこ経って、だいぶ打ち解けてきたとは思っていた。それでも、まだ彼は土屋の知らない部分を多く秘めていて、ふとした瞬間にそれを思い知らされることは多い。たとえば、触れればいつだって、身を硬くするかさりげなくすり抜けるという反応を取られた瞬間。もしくはこうやって、自分の知らない時間に思いを馳せている様子を目の当たりにした瞬間。
分量も少なめにしてあったため、こくりこくりと、Jはいつの間にかココアを飲み干していた。寄りかかってくる体は軽くて、子供特有の高い体温が伝わってくる。
「ねむれない夜は、外と中とをあっためればいい」
嵐がうるさい夜も、怖い夢をみた夜も、そうすればきっとねむれるから。
囁くような声が消え入るのと、腕の中の子の瞼が落ちるのは同時。
今夜は珍しいことがたくさん起きると、聞こえはじめた静かな寝息に、土屋は思わず目を見開いていた。
けっきょく半分しか口をつけなかったコーヒーは、Jを部屋に送って戻ったときには、すっかり冷え切っていた。寒くないようにしっかり布団をかけてあげたから、きっと、朝までぐっすり眠れることだろう。
ふたつのマグを片付けながら、土屋はふと思い立って、ただ苦いだけの冷たい液体を捨ててすすいだカップに、牛乳を注いでレンジにかけた。電子音がして取り出したら、気の向くままにハチミツを流し込んでかき混ぜる。
シンクに背を預け、土屋はダイニングの大きな窓越しに外の暗闇を眺めてみた。
風がどこかの隙間を吹きぬける濁った音と、ざあざあと雨の降る音。風向きが変われば窓には一気に水滴の模様がつき、音が変わる。水滴が雨どいから落ちて、どこかの金属でも叩いているのか、ぽんぽんと、時折かわいらしい音も混じっていることにも気づいた。
先ほど腕の中で見た子供の穏やかな寝顔に、歯がゆさと不甲斐なさを覚えたのは内緒だ。
ハチミツ入りのホットミルクにだけは、決して手をださないよ。
嵐もココアも、そして自分の体温も。決してセピア色の本物にはなれないから。だから、まがいものの本物は絶対につくらない。いつかきっと、ここにある偽物たちが、少しでも本物になれるようにもっともっと努力をするよ。
だからどうか、いつかきっと。似ているなんて言わないようになってくれると、嬉しいんだ。
適度という言葉には程遠い分量のハチミツを入れたため、マグの中身はどろりと重たいぐらいの甘さ加減だった。ゆっくりと食道を伝い、胃の中に落ちたそれは確かに体を内側から温める。だというのに、足元からじんわりしみこんでくる寒さは、先よりも増している気がする。
もう寝よう。
きっと今夜は年甲斐もなく夜更かしをしたから疲れていて、低気圧のせいで体も余計に重い。今夜は例外。明日の朝になれば、きっとすべてはいつも通りだ。
今宵の思いも事実も、胸の中にしまって鍵をかけておこう。いつかあの子が、思い出を自分と共有してもいいと思ってくれる日まで、大切に、秘密のままにしておこう。その日が来たら、自分もそっと、この夜のことを明かせばいい。それで懐かしいねと笑い合えれば、自分とあの子が、お互いに本物に近づけたという証になるだろう。
シンクから身を離すと、改めて寒さが全身を襲った。ぶるりと肩を震わせ、土屋は中身を飲みきったマグを流しに置き去りにして、足早に寝室へと向かった。
fin.
セピア色の記憶に漂う、やさしくてあたたかな甘い香り。
音も輪郭も色も匂いも、すべてが褪せてぼやけていくのに、ただひとつ、鮮明な香り。
やさしくてあたたかくて甘くて、残酷なほどに鮮やかな記憶の断片。
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