■ 無限の糸
いついつまでも、どこまでも。世界中に張り巡らされた電子蜘蛛の巣に絡め取られたボクらは、繋がっているという幻想に騙されて。
哀れな囚われの獲物たちは、大切なものを見失っている。
見失ったものを取り戻そうとして、かかった罠に、どこまでも。どこまでも深く落ちていく。
何が彼にそう思わせたのか。きっかけすら掴めないJが傾げる小首の角度にはまるで頓着せず、土屋はにこにこと楽しそうに笑うだけだった。
表情を見るために上空をただ見上げて首を傾げていても、首が痛くなるだけでちっとも生産的でない。説明は挟まず、Jからの反応をじっと待つ土屋のためにも、事態の把握のままなっていない自分のためにも。Jはひとつ瞬いて、膝に置かれた紙袋の開封許可を願い出る。
「開けてもいいですか?」
「もちろん」
待ち構えていたかのように返ってきた声には、事態の進展を楽しむ響きがある。手元に視線を転じ、ゆっくりと袋の口を開ければ、一般常識からかけ離れた感覚を自認するJにもわかる、超有名企業のロゴが顔をのぞかせる。
「ほらほら、そんなところで手を止めないで」
思わず思案顔になって動きを止めてしまったJは、まだ箱を開けていないではないかと促され、丁寧に箱を袋から取り出す。
「携帯、ですよね?」
「うん。そうだよ」
ロゴを見てのJの予測は裏切られず、箱の中にはメタルネイビーの小さな精密機械が鎮座していた。
「色はどうだい?」
「綺麗だと思います」
いったいなぜと、問うより先にやってきた質問に律儀に返してから、Jは意味の説明を乞うて土屋の穏やかな瞳を見上げる。
「君に、持っていてもらいたくてね」
底知れぬぬくもりを湛えた瞳は、あくまでやわらかく笑んだまま。告げられたのは、願いの形を装った気遣いだ。何が彼にそうさせたのか。最近の己の行動を振り返っても、Jには皆目見当もつかない。
「ほら、いまどきこのくらい普通だし、あれば便利だろう?」
「それはそうかもしれませんけど、別に、火急の必要性があるわけでは……」
そこまで気を回してもらうことはないと、Jは眉根を寄せて困惑を浮かべる。それに、この贈り物には、まだ隠された思惑がある気がする。
ただそれだけの理由だと言われれば、相手が土屋の場合うっかり納得してしまうようになってきた最近だが、Jは自分の勘の良さを正しく認識している。どこかさまよいがちな土屋の瞳をひたと見つめ、続く言葉を待つ。
「君、私が研究所にかける電話が好きじゃないだろう?」
「え?」
飛んできたのは意外な一言。思わず息を詰め、Jは心当たりを記憶に走査する。
特にこれといって気に掛かる行動はとった記憶がないが、もしもJなりに気を配っての発言が常識からとんだものならば、訂正しなくてはならない。周りの研究員の見よう見まねで対応しているだけなので、こと敬語表現においては、意味をよくわからず使っている自覚もある。不安をもって問い掛ければ、土屋は「そうじゃないよ」と笑う。
「なんて言えばいいかな。声が重いんだ」
「声、ですか?」
表現を探すような素振りをみせ、土屋は迷いを滲ませながら答えた。
「機械ごしに聞くせいかもしれないけど。そう思うんだ」
「いつもと特に変わりないと思いますけど」
「うん。私の杞憂かもしれない。でも、気になってね」
あくまで穏やかにJの言葉を受け入れた上で、土屋は自己の意思を曲げない。
しばらく、土屋は胸の中にある言葉を音にすべきか否かでの逡巡を見せた。それは、Jを傷つけたくないという土屋の思いやりであり、いつまでも距離を詰められずにいるという腑甲斐なさ。
Jは前者を思い感謝の念をもって沈黙を守り、土屋は後者を思い情けなさをもって悩みを深める。
「私も、電話はあまり得意じゃないんだ。だから、お互いに慣れていけたら、と思ったんだよ」
結局、土屋は少しだけニュアンスをぼかした、一般に近い理由だけを舌に乗せた。
「電話をかけることにですか?」
「それもだけど、電話を切ることに」
意外そうな表情と共にようやく投げかけられた問いに、土屋は謎かけのような言葉を返す。籠めた含みを感じ取ったのだろう。Jはわずかに眉根を寄せ、考え込む表情を浮かべる。
「振り向いてくれたところに、いつでもいてあげられればと思うよ。でも、それはとても難しい。だからせめて、振り向いたところに私の思いがいつでもあることを、君に確信してもらえるようになりたいんだ」
だから、振り向いた先にもしも自分を見つけてもらえないときには、そこにある思いをいつでも確認してもらえるように。そのために、二人の間にいつでもどこでも繋がる不可視の糸を張っておこうと、そう思い立った。いまの世には、わずか120グラム強で地球の裏表さえも繋いでくれる道具がある。
「それに、これから私もばたばたするだろうし、君も一日中研究所にいるわけじゃない。連絡手段があると、安心できるから」
言い訳がましいと思いながらも、もうひとつの理由を土屋は口にする。愛しさが募るほどに深まる心配を、少しでも払拭したいというのは、エゴでしかないと跳ね除けられてしまうかもしれない。だが、エゴだとしても本心だということが、少しでも伝わればいいと願うから。
思案顔のまま土屋の言葉を聞き終えたJは、手元に目を落として箱の中の精密機械を見やり、ひとつ息を吸い込んだ。それからつと目を上げる。不安そうな表情で見つめる土屋を視界に収めるために。
「博士に、ボクからかけてもいいんですか?」
「もちろん。手が離せないときがあるかもしれないけど、そのときは、手が空き次第かけなおすよ」
お互いに慣れていこうと、土屋は言った。だから、Jは受ける一方だった電話を、自分もかけるべきかと考える。別れの言葉を告げられるだけでなく、告げる練習を積むべきなのかと。
土屋から離れるべきときを想定した訓練なのかもしれない。そう思うと少しだけ胸が痛んだが、それはわがままだと思い直し、また、不可避の時間への覚悟を徐々に積むべきだとも思い直す。一時のこととはいえ、通話を切るのは別れの行為。それに慣れていくことも、きっと必要なのだろう。
「じゃあ、出かけたら、今度からはボクも帰る前に電話をかけます」
「それ以外の時だって、いつでもかけてくれればいいからね」
送られた機械を受け取る意思を示したJに対し、あからさまに安堵の表情を浮かべて笑っている土屋は、いったい何をどこまで考えて自分にこの小道具を渡したのか。無意識のうちに頭の隅ですべてを不安に思う習慣こそ、土屋に今回の行動を取らせた原因だと、Jは気づかない。ただ、あまり先を見過ぎないようにしようと、胸の奥に沸きあがってきた思いを意識的にやり過ごす。
一歩踏み外せば餌食になる。電子蜘蛛の餌食になる。繋がりを過信し、盲目的に辿れば糸の先には蜘蛛がいる。
見失わず、過たず。正しい糸を手繰り、途切れた糸からは手を離さねば。
次に負けたらばもう逃げられない。きっとこの身は電子のスパイダー・シルクに繋がれて、哀れな傀儡と化すだろう。
fin.
人と人との出会いと関係が糸のようなものならば、それは生まれてから死ぬまで途絶えることのない無限性を持っているだろう。
一本の糸が無限なのではなくて、糸の端の数が無限なのだ。無限に出会い、無限に別れるのが世の理。
でも、切れ端に遭遇することの恐怖を心の奥底に刻んだ子供は、糸を見つけてもなかなか掴めずにいる。
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