■ approximation
 買出しによって大量に追加された食器類やら布巾やらを丁寧に分類しながらキッチンの棚に収めていたJは、遠くで響いた車のエンジン音とチャイムを鳴らす音に、手元から目線を引き剥がした。音源方面である壁をじっと見つめ、微かに漏れ聞こえる音声と、なにか大きな荷物を運ぶような音から、もしかしたら昨日頼んだ荷物の配送だったのだろうかと判断する。
 手伝いに行こうかとも思ったが、声からして人員は足りていそうだし、部屋に運び込むのはまだ後のことだ。それに、頼まれた作業が終わっていない。思い直して元の作業に戻るが、そこに廊下を近づいてくる足音が響き、Jは再び顔をあげた。
 今度は部屋の入り口を見つめて、やがて姿を現すだろう相手を待つために。


 廊下から顔を覗かせて楽しそうに微笑んだ土屋は、作業の進行具合を確認すると、Jについてくるよう促し、足取りも軽くリビングの反対側にある扉へと歩き出した。
 養い主の考えが読めないまま、Jは広い背中を追いかける。自分の部屋から廊下を渡った先、すぐの場所にあるリビングとキッチンまでなら、足を踏み入れたことがある。だが、その先は未知の領域だ。土屋の寝室はおそらく奥にあるのだろうが、そこまで辿り着いたことはない。
「あの、博士?」
 どうしたのかと、収納場所を考えて握っていたなべを置いて土屋との距離を詰めたJは、語尾を跳ね上げて問いを投げかける。だが、土屋は「いいから」とだけ告げてリビング奥の扉を開け、先に続く廊下をまっすぐ歩くだけだ。
 廊下には洗面台とトイレ、および浴室と思われるスペースやらドアが立ち並んでおり、出てすぐのドアを通過する際には、そこが土屋の寝室だと告げられる。二人の目的地はその少しだけ向こう、廊下を挟んで土屋の寝室の斜向かいにあたるドアにあった。にこにこ笑いながら開けるように促され、ゆっくりとドアノブをまわしたJが見たのは、がらんと広がるフローリングの床と、昨日土屋と購入を決定した机と椅子、それに、ビニールに包まれたなにやら巨大な荷物だ。
 どう見ても空き部屋にしか見えないそこに、なぜ自分のものになるのだと言われた荷物があるのか。なにを言いたいのか。
 背後に立つ土屋をJが振り仰げば、彼は実に唐突なセリフを発した。
「引っ越そう」



 日ごろ、無駄なく淡々と事実のみを、しかも必要最低限の単語を用いて表現するような手段しかとっていないが、それは言葉を駆使することに慣れていないというだけのこと。Jは決して、他者を蔑ろにしているわけではない。だからJは、うきうきした空気に無情に水を差すほど無神経でもなければ、土屋の気持ちを軽んじるつもりも、土屋にそう感じさせるつもりもなかった。それでも、辿り着いた答えを確認せずにはいられない。
「……ここに、ですか?」
「うん。いま使っている部屋より、日当たりもいいし広いし」
 条件は悪くないと思うのだが、と伺うように小首を傾げられ、Jは返答に窮した。
「宿直室では物足りないだろう?」
 整理すべき問題点は少ない。引っ越しの対象が自分であり、いま示されている部屋を新しく与えられようとしているのだと、それさえ理解できれば、話は先に進められる。深く吸い込んだ息をきっかけに、Jは破綻してしまいそうな思考回路に冷静さを取り戻し、口を開く。
「物足りなくなんかありません」
 そんな子供の反応など、予測済みだったのだろう。驚きは示さず、ただ困ったように眉を寄せた土屋に、分をわきまえるべきだ、と内心で繰り返しながら、Jは慎重に言葉を選んだ。気遣いはありがたく、向けられる思いはとても嬉しい。しかし、ここで頷くのには躊躇いを覚える。
 Jとて、土屋や他の誰か大人に頼らなくては生きていけない己のことは知っている。子供がひとりで生きていけるほど、この世界はやさしくない。一人前だと世間に認めてもらえる年齢に達するまで、身元を引き受けてくれる保護者が必要なのはわかっているから、その意味で、Jは素直に土屋に甘えている。
「これ以上、甘えるわけにはいきません」
 ただ、それだけでないといけないのだ。Jが属するのはあくまで土屋個人ではなく土屋研究所でなくてはならない。それを象徴するのが、研究等の一室であるあの部屋だ。
 大神が決してJをそのプライベート空間に受け入れなかったように、Jもまた、必要以上に土屋のプライベート空間に立ち入ることを良しとしない。そうすることで、互いの関係と距離を、確認することができるから。
 なのに、そうしてJが無意識に引いていた境界線を、土屋は破って来いといっている。
 破ることで、そのやさしさにいっそう近づくことで。彼から離れられなくなってしまうと頭のどこかで警鐘が鳴っている。理性的な判断に限らず、それがたまらなく怖いがために動き出せない自分を自覚できないまま、Jはただ拒絶を紡ぐ。


 どことなく切実な響をもって発された言葉に、土屋はしばしの思案を挟み、ゆっくりと小首を傾げた。
「なにが、君を躊躇させているんだい?」
 浮かべていた微笑をかき消し、土屋はJに真剣な表情を向けた。
「なにをそんなに恐がっているんだい?」
 静かな声が呼び起こした内心の波紋の意外な大きさに、Jは息を詰めた。候補にあげもしなかった感情を定義され、粟立った背筋はしかし逆に、それが無意識のレベルで己の内に巣食っていたものであることを浮き彫りにする。
 外側から突きつけられることではじめて意識した感情の根源を探ろうとして黙り込んでしまったJに、土屋はふと表情を緩めた。
「研究棟に部屋があったら、遠いじゃないか」
「え?」
 澱んでしまった二人の周りを取り巻く空気を吹き飛ばすように、土屋は軽やかな口調で続ける。理由というにはあまりに根拠の薄い発言に、Jは瞬きを繰り返す。
「無理強いはしないけど、できるなら、私はもっと君の側にいたいと思うよ。私は君に、研究所ではなくて、家に住んで欲しいんだ」
 どうだろうかと不安げに問いかけられれば、Jは返す答えをひとつしか知らない。
 数ヶ月前の自分とは違う。それは拒絶の意思を返してはならないという義務感からの答えではなくて、このやさしい養い親を悲しませたくないという、望みからの答え。
「嫌なわけじゃないんです」
「無理に私の意見に合わせなくてもいいよ。私は、君の意見を聞きたい」
「部屋にこだわりはありません」
 穏やかに念押しされ、Jは素直な本心を述べた。言い繕えるような言葉は見つからなかったし、一旦ぎょっとしたような表情を覗かせた土屋も、しょうがないといった感じの微苦笑を浮かべてくれたから、問題ないだろうと判じる。
「ああ、でもよかった。勝手に考えて実行してしまったから、断られたらこいつはどうしようかと思ってしまったよ」
「こいつ?」
 あからさまなため息をこぼし、土屋はJの疑問を受けて部屋に立ち入る。なんのことかとその行動を凝視するJの目の前で、土屋は無造作に、謎の荷物のビニールを引き剥がした。姿を現したのは、真新しいベッドだ。
「昨日の買い物のとき、注文しておいたんだよ」
 わけがわからず視線で説明を乞うJに、土屋はいたずらっぽい笑みを浮かべて振り返る。
「宿直室のベッドでは、寝心地が悪いだろう?驚かそうと思ったから君の意見を聞けなかったけど、あれより、寝心地がいいと思うよ」
「じゃあ、さっきの物音はもしかして――」
「机と椅子と、これだよ」
 配送という読みは外れていなかったが、付随していた予想外の事実に、Jは言葉が追いついてこない。


「さあ、私も手伝うから、キッチンを終わらせて、部屋から荷物を運ぼうか」
 実に楽しそうに笑いかけ、土屋は入り口で硬直しているJの頭を軽く撫でる。さっさとその脇をすり抜けて廊下へと出てしまった気配に、Jはようやく足を動かし、慌てて土屋を呼び止める。
「あ、あのっ!」
「なんだい?」
 きっと、この計画を実行するために、土屋はJの知らないところでたくさんの時間と労力を割いたのだろう。察することはたやすく、そしてまたそれを問いただすことの無意味さも、Jは知っている。土屋は誤魔化してはぐらかすだろうし、事実を知ったところで、どうこうするだけの力をJは持っていない。ただ、いま自分がすべきことはわかっている。だから、Jはもつれそうになる舌を必死に動かす。
「ありがとうございます」
「気に入ってくれると、私も嬉しいよ」
 立ち止まって振り返っていた土屋は、勢いよく下げられた子供の頭をやさしく眺め、静かに微笑みかける。そして、戻ろうと促した。
「今日はやることがいっぱいだからね。がんばって、全部片付けてしまおう」
 追いついてきた子供と共に足を踏み入れたリビングは、まだソファのカバーもかけていないし、カーテンも取り替えていない。よし、と気合を入れて、土屋はまず、するりと脇をすり抜けていった子供の背を追って、キッチンへと向かった。
fin.
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 心をもっと近づけるために、君のことをもっと知りたい。
 遠くではなくて、近くにいよう。
 遠くにいる理由などないけれど、近くにいる理由として、君のもっと近くにいたいという望みがある。

 approximation --- 接近、近似。

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