■ 彼らのアンチテーゼ
 朝一で出かけたはずなのに、買出しの品は案外と多く、荷物を置くための昼の一時帰宅を挟んで、夕方近くまでの大掛かりなものとなってしまった。
 時間がかかった分、必然的に持ち帰った荷物は多いわけで、駐車場からすべてを研究所内に運び込む頃には、土屋もJも、疲れてぐったりとなっていた。
「模様替えと整頓は、また明日にしようか」
「そうですね」
 もはやこれ以上動くだけの気力も体力も残っていない。どうせ、店からの配送を頼んだ大型荷物は今日中には届かないのだ。実は意外とふかふかで座り心地のいいソファに二人で沈み込み、異論なく残りの作業の持ちこしを決定する。


 思った以上に出費がかさんでしまったが、思った以上にJと会話をすることができ、さらには青系の色が好きだという豆知識まで手に入れることのできた買い物に、土屋は大いに満足していた。食器も彼専用のものを入手したし、口には出さなかったが、最後に経由した百貨店では、次の買い物の口実も見つけた。得られたものは、物品に限らない。
 当初の思惑が少なからず達成されていることを内心で確認すれば、ひとりでに笑みが浮かんでくるのだから幸せである。
「博士?」
「ん? ああ、なんだい?」
 声に出したつもりはなかったが、一人でニヤニヤしているのは存分に伝わっていたらしい。いぶかしげに問いかけられ、取り繕いきれない口元と目元の緩みはそのまま、土屋は隣のJへと視線を移す。隣といっても、二人の間にはまだもう一人ぐらいは余裕で座れそうな距離がある。
 立ち尽くして困惑を浮かべるでもなく。土屋と別のソファに腰を下ろすでもなく。同じソファといっても一番離れた位置にちょこんと居心地悪そうに佇むでもなく。手を伸ばせば届く程度の隣に腰を下ろすようになってくれただけでもだいぶ進歩したのであるが、その距離をもどかしく思うのもまた真実である。
 観察眼が鋭く勘のいい子供に、下手な隠し事は逆効果だと学んだ。だから土屋は、内心の複雑に入り乱れる思惑をそのまま表情に載せ、情けないと思いつつもやにさがった笑みを向ける。
「どうかなさったんですか?」
「今日の買い物は楽しかったなあ、と思ってね」
 不審そうな声にさらりと返し、君はどうだい、と逆に問いかければ、Jは一旦口を開きかけたものの、結局は困ったようにきゅっと眉を寄せてしまう。
 ああ、まだこの子供との距離は、こんなにも遠い。そう思い知らされる、実を言えばかなり悲しい瞬間だ。
 彼のことをわかりたいのに、感情を共有したいのに。
 無理強いをしてはいけないと思うから、どうしても手探りに、過ぎるほどに慎重になってしまう。焦らずじっくり、という思いはあるが、がっかりするのは禁じえない。こちらの望むような子供像を演じようとさせていないだけまだましなのかもしれないと。そんな後ろ向きな慰め方で己を慰めなくては、ちょっとやっていられないぐらいに。


 元々、表情を隠すのは得意ではない。土屋の浮かれきっていた表情が沈むのを目ざとく見抜いたらしいJは、あからさまに慌てた様子で口を開きかけるが、視線を少しだけ泳がせ、諦めたように唇を引き結んでしまう。申し訳なさそうな困りきった表情に、土屋は情けない笑みを向けることしかできない。
「ああ、そんな顔をしないで。君を困らせたかったわけじゃないんだよ」
 無理はしなくていい。思いに嘘をついて、仮面をかぶせて。自分に合わせてその本心を殺されることの方が悲しいのだと、何度も含めるように言い聞かせた成果か、何くれとなく気にしては訪ねてきて刺激を与えてくれる子供たちのおかげか。鋼鉄の無表情はやわらいできた。だがまだ、プラスの感情とマイナスの感情、どちらを反映する表情を多く見られるかといえば、マイナスの感情としかいいようがない。
「博士は、なにが楽しかったんですか?」
 どうすれば、無理を強いることなく曲解させることなく、ただ掛け値なしの本心と付き合いたいのだと、それをうまく伝えられるのか。考えながら言葉を探していた土屋は、ふいに鼓膜を打った細い声に、天井付近をさまよっていた視線を下ろした。声の主は、困ったような怯えたような、いつもの儚い笑みの奥に、不信と縋るような表情の合わさった光を湛えて、じっと土屋の答えを待っている。
「私の知らなかった君のことを、少しでも知るきっかけになったことだよ」
 質問の一番深い意図は読めないながらも、土屋は素直に応じた。Jから率先して土屋の内心に対する問いを向けられることは、非常に珍しい。そしてそれが、子供なりの土屋を試すための問答であるだろうことは明白だ。
 なにを量られているのかはわからない。なにを求めての問いなのかはわからない。
 ただ、嘘はつくまいと土屋は思う。たとえその答えによって一時的にJとの距離が離れることになっても、偽りを見抜くだろう子供は、きっと真実以外を嗅ぎ取った瞬間、永遠に土屋を信じなくなってしまう気がしたから。
「誰かのことを知るのは、楽しいですか?」
「楽しいよ。知らなかった相手の一面を知るのは楽しいし、嬉しいことだ」
 探るような視線ではなく、疑惑と不審をない混ぜにした視線が、まっすぐに土屋の瞳を射抜く。
 理解したとはいいがたいJの表情に、土屋はそうだね、と、もっと噛み砕いた表現に置き換えることを試みる。
「どうすれば君が嬉しいのか、どうすれば悲しいのか。何に怒りを覚えて、何に喜びを覚えるのか。私と君は別人だからね。すべてを完全に理解することはできない。でも、知ることによって少しでも君を理解したいし、君との距離を縮められれば、もっと嬉しいんだ」
 だから、今日の買い物はとても楽しかったし嬉しかった。そう締めくくれば、Jは瞳の奥の光を歪ませ、それから、困惑を隠そうともしないで口を開く。



「お店で、博士が一生懸命いろいろ選んで、悩んでいるのを見ました」
 Jにしては珍しい方向から飛んできた言葉に、土屋は何度か瞬いて、じっと続きを待つ。緊張に張り詰めた表情と声は強張っていて、危うい脆さすら感じさせるものだ。言葉を選ぶようにして土屋から逸らされていた視線が、一呼吸分の間をおいて戻ってくる。
「それを見たとき、ちょっとくすぐったくて、豪くんたちといるときほどドキドキはしないけど、でも似たような気分でした」
 眉根を寄せながらのたどたどしい言葉に、土屋は胸の奥からなにかが込み上げてくるのを知る。それは、いわゆる感動というものだ。
「そんなふうに感じるのがいいことなのか悪いことなのか、ボクにはわからないんです」
「君が感じているその感覚を、私は、私の知らなかった君の一面を知ったときに感じるし、それが嬉しいんだよ」
「じゃあ、ボクは嬉しかったんでしょうか?」
「少なくとも私は、そう感じるのを、嬉しくて楽しいと思うよ」
 思いもかけない展開に心臓が飛び跳ねるのを知りつつも、喉に絡みつく声をなんとか絞り出した土屋に、Jはようやく表情を緩めた。ほっとしたような表情で穏やかにひとり頷き、そして続ける。
「今日、博士と一緒に出かけられて、嬉しかったです。でも、そう感じるのはもしかしていけないことかと思ったんです。だから、聞いてみたかったんです」
 変なことを言ってごめんなさい。そう、どこか哀しげにはにかんで、Jは小首を傾げた。


 環境と、それに呼応する感情とに不慣れだからだろうその発言に、土屋は切なさと喜びの入り混じった衝動を感じる。
 己の心の有り様を持て余す子供には切なさを。自然な反応としての感情の波さえを禁じていた位置から踏み出し、それらを受け入れ、自覚しはじめている子供には喜びを。それぞれ無限大の拡がりをもって覚えるから。
 ずっともやもやとしていたものが明確になってすっきりしたのか、Jは瞬きひとつでさっぱりとしたいい笑みへと切り換え、まっすぐに土屋の瞳を見つめて口を開いた。
「ボクも、いろんな博士を見ることができて、嬉しかったです」
 その表情と言葉が、一体どれほどの衝撃を土屋に与えるかという自覚があるのかないのか。思いもかけず発された告白に、土屋は、最近めっきり緩くなった涙腺のたがが外れそうだった。
fin.
BACK       NEXT

 真逆を向いていた二人が、ようやく互いの方を向けるようになっていく。
 慌てることはないのだと。気づくことこそが彼らのテーゼ。

 アンチテーゼ --- 反立。特定の肯定的主張(テーゼ)に対立して定立された特定の否定的主張。

timetable