■ ひまわり
シャキシャキと耳元で鳴るリズムに合わせて、ぱさりぱさりと軽いものが落ちる音が響く。ぽかぽかと降り注ぐ陽光は心地よく、微かに吹く風も絶妙だ。
「J? 起きてるか?」
「起きてるよ」
リズムはそのまま、いぶかしむようにかけられた声に、ちょっと危ないけど、と冗談とも本気ともつかない注釈つきで答えれば、「動いたら危ないから、寝ないでくれ」とどこまでも真剣な声音での注文が追加された。
言われたそばからあくびを噛み殺し、Jはぼんやりと投げ出されていた視線を瞼の向こうへと隠す。やわらかな闇に染まっても、薄い細胞の集団は光をぼんやりと伝えてきた。全身を包むぬくもりは、どこまでも穏やかな眠気を誘う。耳元でテンポよく拍を取られてしまっていては、なおのこと。
「J、寝たら危ない」
「大丈夫。寝てはいないよ」
「すぐにでも寝そうだから言ってるんだ」
変に動かれたら、冗談じゃなく変なところを切りかねない。告げる声は苦々しく、生返事を返していたらシャキシャキが聞こえなくなってしまった。どうやら、完全に手を止めてしまったようだ。瞼の向こうから透けていた光が翳ったのを合図に目を開ければ、思ったよりも近くに相手の顔がある。
「いっそ丸刈りにするぞ?」
「それはやだな」
頭上をまたぎこすようにして覗き込んできた翠の瞳は、逆光になっていて表情がいまいち読み取れなかった。こういうとき、リョウのポーカーフェイスはずるいと、Jは思う。それでも、声が少し笑いを含んでいたから、きっと脅しを兼ねてからかわれているだけなのだと判断し、やはり取り繕った声音で答えるにとどめておいた。
リョウの手先の器用さは群を抜いている。マシンのメンテナンスはもちろん、炊事をはじめ細かな作業がとても得意で、ついでにこうして他人の髪を切ったりすることもできる。
あるとき、「伸びたな」と呟いたリョウがJの髪を切りそろえてやったのをきっかけに、時々臨時の床屋が開店するのがいつの間にか二人の間で習慣化していた。
別に眠気に抗えないほどの状態ではない。了解の意を背筋を伸ばすことで示し、Jは再び視線をあてのない旅へと送り出す。
目の前の花壇は少し雑草が増えてきた。このあと時間があったらば草むしりをしよう、と思い立ち、同時に新しく何か植えたいという欲求に辿り着く。季節はじき夏になるんだから、夏の風物詩をいっぱいに植えるのもいい。
ひまわりの群生は、きっと迫力があることだろう。朝顔でいっぱいにしたら、毎朝が色とりどりでにぎやかなことだろう。それとも、鮮やかな色合いと微かな香りを求めて、オシロイバナの苗でも植えようか。
「首が傾いている。もう少し右に傾けてくれ」
「ああ、ごめん」
つらつらと考え込んでいたら、低い声に姿勢を矯正された。左の手の甲が顎の辺りを押すから、それに従って首を反対へと倒す。日ごろからわずかに左に首を傾けているのは、もはや癖だった。それは身体が歪んでいることの現れだからと、少し猫背である点と合わせて、リョウにしょっちゅう注意されることだ。
もっと胸を張っていろと、リョウは言う。胸を張って、背筋をぴんと伸ばして、まっすぐに世界を見据えて立っていろと。
後ろ向きになっていても何も改善されない。時にくじけてしゃがみこむことまで否定はしないから、そうでないときは常に、強がってでもいいから少し背伸びをするぐらいの気の持ち方であれ。お前は頑固で意地っ張りなところがある。だが、その意地の張り方が少し変わっていると思う。妙な部分で強がって意地を張る強さがあるなら、その気概をもう少し前向きに使えばいい。
ある日唐突に姿勢を注意されたと思ったら、続けざまにそんなことまで言われてしまった。何を言っているのかと、そのときはあまり真剣に取り合わなかったが、ことあるごとに指摘され続ければ、相手が気まぐれに言葉を紡いでいるわけではないことが嫌でも理解できる。
うつむいて歩いていても前を向いて歩いていても、転ぶときには転ぶのだ。だったら周りの景色を見ながら歩くほうがいいだろう。お前を見ていると、危なっかしくて苛々して、心配で仕方なくなるんだ。
何度目かの指摘の折にどうしてそんなに構うのかと問えば、そう答えが返ってきた。
同じ歯を食いしばるのなら、もう少し頑張って前を向け。倒れそうなときは、できる限り助けてやるから。
常に泰然とした孤高の立ち位置を保っているのかと思いきや、情に篤く細やかな気配りをできる人間なのだ。そう認識が変化したころから、土屋に対するのとはまた違う形で、Jはリョウに甘えるようになっていった。
ときに姿勢を直してもらい、姿勢に反映されているとリョウの言う心根について叱咤してもらう。それは、たとえば下の兄弟が上の兄弟に甘える姿に酷似したものだろうとJは思っている。リョウは、自然とそんな気持ちで接したくなる空気を持っているのだ。
先ほどまでよりシャキシャキのテンポが緩くなった。地肌を掠める指先の温度に、最後の仕上げにかかっているだろうことを察する。
「ねえ、リョウくん」
「ああ?」
首を動かさないよう気をつけながら庭をぐるりと見渡し、Jは背中へと呼びかけた。返ってきたのは案の上の生返事だが、それは自分のために集中力を遣ってもらっている証拠だから、気にしない。
「ひまわりと朝顔とオシロイバナだったら、どれがいい?」
「突然どうしたんだ?」
のんびりと問いかければ、今度は驚いたようにはっきりした声が投げかけられた。顔を上げでもしたのか、先ほどはくぐもっていた声が明瞭に鼓膜を震わせる。
「花壇に、夏に向けて植える花を考えているんだよ」
「だったら、ひまわりだな」
「好きなの?」
明確な意思を思わせる力強い返答に、Jが驚く番だった。相手を見ることは適わないだろうが、思わず目を見開いて上方に視線を流せば、笑いを含んだ声だけが頭上を越えてくる。
「ああ、好きだな。まっすぐ光を求めて立ち上がる。お前にぴったりだろ」
「痛烈な嫌味だね」
ため息まじりに視線を落とし、Jは花壇を見やってそこに幻想を描く。Jのこともリョウのことも追い抜いたひまわりたちが、誇らしげに花を開いて青空に揺れる光景。
「嫌味じゃなくて、褒めてるんだ。お前、猫背が直ったからな」
穏やかな声が、今度は上空から降ってきて、そして前面へと回る。
「本当?」
「嘘ついてどうする」
正面にやってきた翠の瞳を上目遣いに覗き込んでJが問えば、リョウはゆるりと口の端を吊り上げる。
「前髪を切るから、目を閉じていろ」
これで終わりだと告げてしゃがみこんだリョウに頷き返し、Jはおとなしく両の瞳を閉ざす。
「お前を見てたら、なんとなくひまわりが思い浮かんだ」
「髪、同じような色だもんね」
額に触れる指先がくすぐったくて、くすくすと笑声をこぼしながらJは応じる。
「それもあるが、それだけじゃないな」
「どういうこと?」
指で軽く梳いた髪を、今度はつまんで軽く引っ張る。つられて頭が動かないよう気をつけながら問いかければ、返事の代わりにしょきん、とはさみの動く音がする。続けざまに響くのは、服が汚れないようかけられたケープに、切られた髪が落ちる音。
「光を求めて立ち上がって、それで光を掴んだんだ。お前が育てたら、きっと立派な花が咲くだろうと思った」
小刻みなシャキシャキに混じって、リョウの呟きともいえる小さな声がようやく先の疑問に答えた。楽しみにしていると告げられて、Jは動かせない首の代わりにやはり小さな声で「うん」と返す。
「期待しててよ。頑張るから」
「手入れは手伝うから、気が向いたら声かけろよ」
瞼の向こうからは光が透けて、視界はわずかに赤みを帯びた暗闇。それでもJは、そこに鮮やかな黄色の花が青空を背に咲き誇る姿をありありと描いていた。
fin.
ボクは君たちの光を追いかけて空に向かって背伸びをした。
そのボクが光になれたというのなら、君の期待には存分に応えるのがせめてもの恩返し。
光を求めて空へと駆け上がる山ほどのひまわりを、夏空に大きく咲かせよう。
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